ヤマト武と草凪剣

三種の神器

近畿天皇家の誕生は8世紀初頭₍701年₎である。7世紀末迄は倭国だった。筑紫の九州王朝だ。吉武高木₍福岡市西区₎三雲南小路₍福岡県糸島₎井原₍福岡県糸島₎須玖岡本₍福岡県春日市₎平原₍福岡県糸島₎に見られるように「三種の神器」を「権力の証」とする王朝である。近畿の豪族一族は701年に新たに成立した自らの王朝を、悠遠なる淵源を持つかの如く装う必要に迫られた。そのため「古事記」「日本書紀」を編纂して、自分たち以前に存在した日本列島の各地域の王朝の歴史を無きものにしたのである。その際に近畿新設王朝が直面した難題、これが「権力の正当性」問題である。 近畿和政権には自らの支配の正当性を証拠立てるものが必

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このページは、日本歴史と日本国憲法への理解を深め、真実の日本歴史の正当な認識と日本国憲法の精神を暮らしの中に定着させたい目的で作成いたしました。 基本的人権は日本の国の常識、権力の乱用は日本国憲法が禁じている、自由と民主主義がとても大切にされる、本当に日本国憲法の条文が生活の隅々にまで活き活きと、隅々にまで行きわたることを願って。日本国憲法を大切にしたい思いで、 いろいろな考察文献を集めています。どうか、活用して下さい。

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ネタバレ日本書紀

日本書紀は外国文書と他王朝歴史のコピペで出来ています。近畿にあたかも古代からの王朝が有ったと歴史を捏造する必要があったからです。その必要とは過去も現在(7世紀初頭)も唐王朝に逆らわない従順な国であった事を示す必要です。7世紀初頭に書かれた国定教科書(日本書紀)には唐王朝の利害が多分に含まれ、文書は見事な漢文で記述されて居ます。白村江で唐・新羅連合軍と闘った国は無かったし、こともあろうに中国王朝に「日出処の天子」を名乗り文書を送る様な不届きな国は無かったのだと示す必要があったのです。 と言う訳でコピペ日本書紀の実録。 西暦 海外 資料 海外文書 記述年

南斉書「倭国伝」の証言

「倭国。帯方の東南大海の島中に在り。漢末以来、女王を立つ。土俗すでに前史に見ゆ。 建元元年、進めて新たに使持節・都督、倭・新羅・任那・加羅・泰韓(慕韓)六国諸軍事、安東大将軍、倭王武に除せしむ。 号して鎮東大将軍と為せしむ。」 以上は南斉書「倭国伝」の文である。「宋書」の倭王武の上表文(昇明2年・西暦478年)の翌年の南斉代の綬号記事に当たる。 魏志倭人伝の「倭人は帯方の東南、大海の中に在り、山島に依りて国邑を為す。」との先文を踏襲し書かれて居る事は明白。「漢末以来、女王を立つ。」と言って居るのは魏志倭人伝の中に書かれた女王俾弥呼、及び壱與を指している。「土俗すでに前史に見ゆ。」とは三国志「魏

和田家文書 秋田孝季

和田家文書は天明年間(1781年~1789年)に元々有った本が大火により焼失した事を受け、新たに編纂されたものである。元本は奥州三春藩の藩主、秋田家に伝わる大切な資料文書であった。そこで秋田藩主秋田千季(後に改名して倩季)が、本を復元する目的で、橘隆季に歴史資料の復元と集史を命じ、作成させたのである。 橘隆季は和田長次郎末次と共に、十数年の歳月をかけて各地を回り、集史、編集にあたった。こうして出来上がった文書を「寛政原本」と言うが、この「寛政原本」も火災で失われ、副本として残った保管写本が和田家に残って居た。このため、現在、この写本群を「和田家文書」と呼んでいる。後に橘隆季は養子となり秋田孝季

稲荷山古墳と江田船山古墳(倭王武・獲加多支鹵大王)

埼玉県行田市埼玉にある稲荷山古墳。形状は前方後円墳。埼玉古墳群を構成する古墳の1つ。古墳時代後期の5世紀後半と考えられている。埼玉古墳群中では最初に築造されたものだとされている。国の特別史跡に指定され、出土品の鉄剣(稲荷山古墳出土鉄剣)は国宝に指定されている。稲荷山古墳は大阪府堺市の大仙陵古墳と墳形が類似していることが指摘されている。大仙陵古墳を4分の1に縮小するとちょうど稲荷山古墳の形に近くなる。 墳丘長120メートル 後円部径62メートル・高さ11.7メートル 前方部幅74メートル・高さ10.7メートル 後円部西側の裾部に(左くびれ部分に)は造り出しがある。 埋葬施設は2基、礫

阿毎多利思北孤 日出処の天子

隋書 俀国伝に書き残された印象深い名文  「聞海西菩薩天子重興佛法故遣朝拜兼沙門數十人來學佛法 其國書曰 日出處天子致書日沒處天子無恙云云」 ₍聞く、海西の菩薩天子 、重ねて仏教を起こすと。故に兼ねて沙門10人を遣わし朝拜 せしめ仏法を学ばせると。その国の書曰く、日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや...₎  この名文を携えた使いを 大業3年₍607年₎に隋の煬帝に使わした人物は「其の王阿毎多利思北孤」だった。「故に使して朝拝し、僧侶数十人が来て仏法を学ぶ...

パレスチナ問題とアメリカの功罪

いわゆるパレスチナ問題は、宗教上の対立から生まれてきた問題ではなく、中東を舞台とした帝国主義や覇権主義争いによって引き起こされた問題である。今世紀はじめ、イギリス、フランス、ロシアがオスマン・トルコ帝国を倒してその広大な領土を分割し、植民地にしようと画策した。現在のパレスチナ問題といわれるものはイギリス帝国主義の中東への侵略とパレスチナに対する植民地支配に端を発している。 イギリス帝国主義は第一次世界大戦で、それまで中東を支配していたオスマン・トルコを倒して中東の支配に乗り出すため、中東の戦後処理について内容の矛盾する2つの約束を結んだのである。 1つは、アラブ人の協力を得るためメ

「日本国憲法はこれまでその是非を問うことをタブー視されてきた」のウソ

日本国憲法を改悪しようとするアメリカの動き  「日本国憲法はこれまでその是非を問うことをタブー視されてきた」どころか、日本国憲法を亡き者にしようとする動きはすでに、制定後一年にしてア メリカ主導でなされています。1947年5月3日、平和的、民主的条項を明記した日本国憲法が制定され、戦争の終結の喜びと新しい時代の息吹に日本中が湧 きかえっていたころの占領下の日本で、早くも産まれたばかりの日本国憲法を改悪する企てはアメリカによって進められていました。  1948年5月、スカイラー米陸軍准将が作成した文章「日本の限定的軍備」が米ロイヤル陸軍長官に宛てて提出されています。目的は「将来の防衛の...

従属の論理はどのように形成されたのか 《安保幻想》と《吉田神話》日本外交の論理を歴史から見直す。

★前衛2002年5月号 「特集 安保発効50年」 ★前衛2002年5月号「従属の論理はどのように形成されたのか」 <安保幻想>と<吉田神話>日本外交の論理を歴史から見直す中部大学教授三浦陽一氏論文をご本人のご許可のもと、 掲載させていただきました。★ 「外国の軍隊はこれを招きいれた側に必ず災いを与える。なぜなら、外国軍が負けるとあなたは滅びるし、勝てば勝ったで、 あなたは外国援軍の虜(とりこ)になるからである。コンスタンティノポリスのある皇帝は、周辺の国に対抗するためにトルコ兵一万人をギリシャに導き入れた。...

戦後の世論が産みだした 日本国憲法 《「現行憲法はアメリカに押し付けられた」のウソ》

日本国憲法の制定の時期が、アメリカの占領下であった時期と時期的に重なることが、この「憲法はアメリカにおしつけられた」ように感じさせる大きな 要因であろうと思われます。しかし、ご存知のようにアメリカは敗戦間もない日本に対して執拗に再軍備を求め、その確約を当時の吉田内閣から国民には内密に...


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