九州年号

いわゆる、九州年号と呼び倣わされている年号群は『二中歴』と言う百科事典に記述されている。

『二中歴』は鎌倉時代初期の成立とされている。内容は当時の貴族や知識人のための百科事典のようなものである。その内訳は平安時代後期に成立した「掌中歴」と「懐中歴」の二つの歴を中心として編集されたもので『二中歴』と言う名前もここから来ている。編者は誰なのか不明である。

現存する子写本『二中歴』第一帖は、「神代歴」「人代歴」「后宮歴」「公卿歴」「侍中歴」からなって居る。

「継体二十五(応神五世孫 此時年号始)」₍『二中歴』「人代歴」₎

₍₎内は細注。なお、「二十五」の右注に「或云雄略太子」とある。

『二中歴』「人代歴」の編者の認識として、年号は”継体天皇”の時代に始まったとしているのである。しかし「日本書紀」幸徳紀の”大化”や”白雉”持統紀の”朱鳥”は「人代歴」には記述されて居ない。

年号は”文武天皇”の細注「天武太子 持統南宮 大寶三 慶雲四」から始めて記されており、以下歴代天皇の細注に当時の年号が記されている。

『二中歴』「人代歴」には継体₍元年は517年丁酉、”継体天皇”11年に当たる₎から大化₍元年は695年乙未、”持統天皇”9年に当たる₎迄の31個の年号が記述されている。

「以上百八十四年、年号三十一代₍虫喰いによる欠字₎年号只有人傳言大寶始年号而巳」₍『二中歴』「人代歴」年号群末尾₎

「以上百八十四年、年号三十一代、年号を記す。只、人の伝えて言う有り『大宝より始めて年号をたつのみ』とのことである。」と記述している。

『二中歴』は「継体」から始まる年号群の実在を記し、その一方では「大宝」からが始めての年号であるとする一見矛盾する記述をしている。

『二中歴』『人代歴』の編者は、”継体天皇”時代から始まる年号群の実在を知りながら『人代歴』には九州年号を一切記さず、”文部天皇”から始まる大宝年号から『人代歴』に『年号』を記している。

これこそは、31個の古代年号群は近畿天皇家の物では無い、全く別の王朝の年号である事が当時の常識であったことの反映と考えられる。

『二中歴』以前、平安期成立の「掌中歴」「懐中歴」を読むような平安時代の貴族や知識人達は、そう遠い昔の事でもない、九州王朝の滅亡と近畿和政権の成立の経過をよく知っていたのである。

継体年号を定めた天皇は実は九州王朝の天子であり、近畿和政権の男大迹王と言う存在とは別だったと考える他は無い。男大迹王は近畿で大伴金村・物部麁鹿火などの推戴で統括者になったとされているが、その誕生から没年迄があやふやである。

「大歳辛亥三月 軍進至于安羅 營乞乇城 是月 高麗弑其王安 又聞 日本天皇及太子皇子 倶崩薨 由此而言 辛亥之歳 當廿五年矣」₍百濟本記₎

とあり、安羅での交戦の折に高句麗との戦闘により其の王「安」が弑逆された。日本の天皇とその皇太子と王子が共にかむさりましむ。と記述されており、この時の天皇が安羅に軍を集結させていた九州の天皇であった事が明確に記されている。

この辛亥の年とは531年のことであり、近畿の地方豪族、男大迹王が死んだのは「古事記」が書いている様に丁未4月9日₍527年5月26日₎である。

「太古に耶靡堆大王あり、箸香の蘇我郷に君臨す。祖は阿毎氏とて、加賀の犀川三輪山郷の出たりと曰ふなり。箸香に移りきは、春日氏、大伴氏、和珥氏、土師氏、物部氏、羽田氏、巨勢氏、平群氏、葛城氏、中臣氏らこぞりて和泉、河内、耶馬臺の地に大王を以て一統の国司を治む明日香、河木野、河泉河にたむろせる豪族の一統を耶馬臺大王とて、耶靡堆大王を合議に決して迎へたるものなり。耶馬臺国とは摂津より明石、更に岸和田、更には山城、奈良の域に大王を以て一統せむは、各々地豪を以て治統の叶はざる故、以ての耶靡堆大王の迎入れたり。」国記より。

「是を綴りたるは国記、天皇記にして、更に稲葉氏、高石氏、羽曳氏、百舌氏、高取氏、門眞氏、吹田氏、大山氏、伏見氏、木津氏、香芝氏、生室氏、名護氏等相加はりて、大王を即位せしめ、国を倭国と號したり。」和田家文書より

「凡そ支那年号の泰始己酉年にして、北魏の皇興三年の事なり。」国記より。


支那年号の泰始己酉年は469年己酉である。加賀の犀川三輪山郷に出自を持つ豪族を箸香の蘇我郷に君臨させたとある。摂津から明石、岸和田、奈良を統治する大王を迎え入れた事が書かれている。男大迹王は出自も没年も不詳である。しかも陵墓も本当に今城塚古墳である確証はない。

「日本書紀」は男大迹王が筑紫君磐井を討伐したと記述するが、それよりも後年の「隋書俀国伝」では、阿毎多利思北孤が登場し、九州倭政権が顕在していた事がはっきりとしている。

日本書紀継体22年₍528年₎11月条に「筑紫の君・葛子は父の罪で命をとられることを恐れて、糟屋の屯倉を献上した。」とあるが、継体軍が北から攻めてきて御井郡で戦闘が起きたのなら、糟屋は既に継体軍に制圧されているはずである。継体軍は南₍肥後方面₎から攻めてきたと考えられる。また「筑後国風土記」によると磐井は、単身豊前に逃げたことになっているが、この場合も継体軍が北から攻めてきたとは考え辛い。ましてや九州上陸の記事や途中経過地の記述が無い。決定的な矛盾は「記紀」の記述そのものにある。「古事記」の男大迹王₍継体₎崩御は丁未527年4月9日であり、俗に磐井の乱と言われる日本書紀継体紀22年₍528年₎11月には男大迹王₍継体₎は、既に死んでいるのである。

以上の事から、「日本書紀継体紀」は、九州倭政権内部の戦闘記事を近畿和政権の男大迹王の事績だと偽って剽窃したものだと考えられる。

「大歳辛亥三月 軍進至于安羅 營乞乇城 是月 高麗弑其王安 又聞 日本天皇及太子皇子 倶崩薨 由此而言 辛亥之歳 當廿五年矣」₍百濟本記₎

とあるので、高句麗との激戦中に戦没した王の名は「倭王安」。没年は531年である。

所謂「磐井の反乱」に付いては正木裕氏の「毛野臣反乱説」を私は支持する。日本書紀では「軍を遮って」磐井が毛野臣を邪魔したとあるが、普通は軍が居ない空白を狙ってクーデターは起きるものである。大軍が朝鮮半島に展開する留守を狙って軍事活動をする筈である。

天皇、大伴大連金村・物部大連麁鹿火・許勢大臣男人等に詔して曰はく「筑紫の磐井反き掩おそひて、西の戎の地を有たもつ。今誰か将たるべき者」とのたまふ。大伴大連等僉みな曰さく、『正に直しく仁み勇みて兵事に通へるは、今麁鹿火が右に出づるひと無し』とまうす。天皇曰はく、『可ゆるす』とのたまふ。

と日本書紀は記すが、

実際の事実は、「天皇₍筑紫の君磐井₎、大伴大連金村・物部大連麁鹿火・許勢大臣男人等に詔して曰はく、『肥後の毛野臣反き掩おそひて、西の戎の地を有たもつ。今誰か将たるべき者』とのたまふ。大伴大連等僉みな曰さく、『正に直しく仁み勇みて兵事に通へるは、今麁鹿火が右に出づるひと無し』とまうす。天皇曰はく、『可ゆるす』とのたまふ。

であっただろう。

九州年号は「継体」517年~522年、「善記」522年~525年、「正和」526年~530年と続いている。

倭の5王が朝見した中国南朝宗は420年建国で479年には滅んでいる。倭王武が最後に朝見した年は478年である。その後中国南朝は斉₍479年~502年₎、梁₍502年~557年₎であり、九州倭政権が自前の元号を建てた時代は中国南朝の大政変期である。極東アジア世界の大動乱期と言っても過言ではない時代にあった。倭王武は上表して、自ら「開府儀同三司」と称し、叙正を求めている。倭王武の時代には府を開いて居たと考えられる。

九州年号「継体」は中国南朝の冊封を離れ、自らが南朝の天子であるとの自負の元,建元された。その517年には倭王武の次代、築紫君磐井が即位したとみられる。「継体」年号は築紫君磐井の年号である。

九州王朝はは中国南朝の冊封を離れた。そうして自ら中国南朝の美風を受け継ぐ王朝として建元したのである。恐らく、「善記」522年~525年の期間には九州倭政権の歴史書を編纂し、後裔である倭王安の元号「正和」526年~530年の時代には国政を律令化したのだろう。

「日本書紀」には「一書に曰く」「日本旧記に曰く」「日本菖記に曰く」が度々あり、九州倭政権の歴史書を盗用した痕跡が見られる。九州年号「善記」522年~525年の間に記述された九州倭政権の歴史書を8世紀に入手し、近畿和政権の歴史として「日本書紀」に盗用したと見られる。『筑後国風土記』逸文には衙頭、解部₍古代の裁判所₎の記載があり、盗人が裁かれる様子を表した石人が筑紫君磐井₍倭王安₎の陵墓に配置されたことが記載されている。裁判所が機能していたと言う事は、九州王朝には既に律令が有った事を示している。筑紫君磐井₍倭王安₎は自らの事績を後世に誇るべきものとして残したいと願った。だから、裁判所のモニュメントを自らの陵墓に残したと考えられる。事実、筑紫君磐井の陵墓とされる福岡県八女市吉田の岩戸山古墳には衙頭と言われる別区がある。衙頭と言うのは政府機関のことで、筑紫君は八女あたり、三瀦で政務に付いて居た事が伺われる。

逆に一応継体陵とされている今城塚古墳₍大阪府高槻市₎からは石棺部材に阿蘇ピンク石₍馬門ピンク石₎が出土し、近畿の豪族が日本製の三角縁神獣鏡を求め遥拝したこと、九州王朝を崇拝していたことが知れる。近畿の古墳はその被葬者が、筑紫君傘下の豪族で有った事を告白しているのである。

531年九州王朝改元。元号「教倒」

倭王安₍筑紫君磐井₎の朝鮮半島での崩御により、代替わりしたのであろう。「日本書紀」に現れた「委意斯移麻岐弥」は読み下すと「委」の「磐₍いし₎今₍いま₎君₍きみ₎」と読める。恐らく百済本記からの盗用である。筑紫君磐井は「今君」と呼ばれていたのであろう。対外的な名称は漢風名の「安」である。改元したのは筑紫今君の次代の倭王、筑紫の君葛子である。

彦山流記に「但踏出 当山事 教到年 此 藤原恒雄 云々 教到元年 辛亥 智者大師御誕生 藤原恒雄踏出」とあり大分県英彦山開山と修験道の始まりを記念しての元号だと思われる。

536年九州年号改元「僧聴」₍536年~540年₎

山口県阿武郡阿東町の「八幡大菩薩御縁起」、大分県宇佐市宇佐八幡宮の「宇佐八幡宮事」「宇佐八幡宮縁起」に「僧聴三年」などの元号使用が見られる。

『書紀』宣化元年₍536年₎五月辛丑朔に、詔して曰はく、「(略)夫れ、筑紫国は、遐とおく邇ちかく朝で届る所、去来の関門所なり。是を以て、海表の国は、海水を候ひて来賓き、雨雲を望りて貢みつき奉る。胎中之帝(応神)より、朕が身に泪いたるまでに、穀稼もみいねを収蔵おさめて、儲糧を蓄へ積みたり。遥に凶年に設け、厚く良客を饗す。国を安みする方、更に此に過ぐるは無し。故、朕、阿蘇仍君〈未詳也。〉を遣して、加また、河内国茨田郡屯倉の穀を運ばしむ。
(略*尾張国屯倉・新家屯倉・伊賀国屯倉の穀を筑紫に運ばせる)。
官家を那津の口に修り造てよ。又其の筑紫・肥・豊三国の屯倉、散れて懸隔に在り。運び輸さむこと遥に阻れり。儻如し須要もちゐむとせば、以て卒に備へむこと難かるべし。亦諸郡に課せて分り移して、那津の口に聚め建てて、非常に備へ、永ら民の命とすべし。早く郡県に下し、朕が心を知らしめよ」とのたまふ。とある。

宣化2年₍537年₎の新羅討伐でも、「磐、筑紫に留りて、其の国の政を執りて、三韓に備ふ。狭手彦、往きて任那を鎮め、加また百済を救ふ」とあり、博多湾岸の那津の宮家に糧穀が全国から運び込まれ、三韓に対応していたのは筑紫の磐、と書いている。

宣化2年₍537年₎冬10月の壬辰の朔に、天皇、新羅の任那に冦₍あたな₎ふを以て、大伴金村大連に詔して、其子磐と狭手彦を遣して、任那を助けしむ。是の時に、磐、筑紫に留りて、其の国の政を執りて、三韓に備ふ。狭手彦、往きて任那を鎮め、加また百済を救ふ。とあり、朝鮮半島の政務は筑紫君磐井が執り行って居た事の告白が有る。

540年欽明元年₍540年₎9月己卯₍5日₎に、難波祝津宮に幸す。大伴大連金村・許勢臣稲持・物部大連尾輿等従ふ。天皇、諸臣に問ひて曰はく、「幾許₍いくばく₎の軍卒をもて、新羅を伐つことを得む」とのたまふ。物部大連尾輿等奏曰。少許の軍卒をもては、易₍たやす₎く征つべからず云々、との記事が有り、激化する新羅と任那の紛争への打開策が練られた。

541年九州年号改元「明要」₍541年~551年₎

兵庫県神戸市の明要寺は「明要元年辛酉三月三日始開山岳造仏閣」との開山記録を持ち、現在に至っている。

541年欽明2年4月に、安羅・加羅・卒麻・散半奚・多羅・斯二岐・子他等と任那の日本府吉備臣と、〈名字を闕せり。〉百済に往₍ゆ₎赴きて、倶₍とも₎に詔書を聴₍うけたまは₎る。百済の聖明王任那の旱岐等に謂₍かた₎任那の旱岐等に謂りて言はく、「日本の天皇の詔のたまふ所は、全ら、任那を復建せよといふを以てせり。」

この続きは推古九年記事にある。

推古九年₍601年₎三月戊子₍五日₎に、大伴連齧を高麗に遣し坂本臣糠手を百済に遣して、詔して曰はく、「急すみやかに任那を救へ」とのたまふ。記事が601年にあるが日本書紀にありがちな干支に合う箇所に一巡前の干支の記事を貼り付ける手法である。「一運₍六十年₎」遡る欽明2年₍541年₎のことを「日本書紀」は推古紀に記載しているのである。

552年九州年号改元「貴楽」₍552年~553年₎の2年間。山口県山口市大内御堀南明山乗福寺の「寺社證文」、福島県大沼郡会津高田町伊佐須美神社の「須美神社年代記」などに実際に「貴楽」元号が現れている。長野県長野市善光寺の「善光寺縁起第二」にも見られる。福岡県三井郡東鯵坂両村の「社方開基」には「若宮大菩薩建立」年として「貴楽弐年」が書かれている。

554年九州年号改元「法清」₍554年~557年₎

福島県大沼郡会津高田町伊佐須美神社の「須美神社年代記」に使用されている。

558年九州年号改元「兄弟」。

この年号は558年の間のみであった。「群書類従」、「海東諸国記」に記載あり。

559年九州年号改元、「蔵和」₍559年~563年₎。

福島県大沼郡伊佐須美神社「伊佐須美神社年代記」、「会津正統記」で使用されている。

561年欽明22年12月。紀男麻呂を大将軍とする「二萬餘」の軍を筑紫に派兵。₍『書紀』では崇峻4年₍591年₎11月日本書紀崇峻紀は30年の繰上がなされている。₎

562年に任那は新羅によって滅亡させられている。〈加羅国・安羅国・斯二岐₍しにき₎国・多羅国・卒麻₍そちま₎国・古嗟₍こさ₎国・子他₍こや)国・散半下₍さんはんげ₎国・乞飡₍こちさん₎国・稔礼₍にむれ₎国と言ふ。合せて十国なり。〉 『書紀』欽明23年₍562年₎春正月条より。

倭国は同年7月に、大将軍紀男麻呂を派遣し、新羅を討伐しようと試みたが、男麻呂の警告に反した河辺臣の独走と新羅の偽計により逆襲を受け、倭国造手彦は辛うじて逃走、将軍河辺臣ほかが捕虜になり、調吉士伊企儺₍いきな₎が殺される等大敗を喫した。 日本書紀欽明記は562年7月に河辺臣瓊缶(かわべおみにえ)が凡夫ゆえに囚われ、妻の甘美媛他婦人を敵兵に差し出し、婦人らを敵に与える事で男達が助命された事を伝えている。日本書紀は海外との交渉となると途端に「名を闕せり 」が多くなり、日本国内の臣や連に該当者が皆無な将軍や兵の名が出てくる。

8世紀に当時の勝者、唐王朝の命令の元、歴史改竄の目的で書かれた日本書紀の3分の1は中国人の編纂だとバレて居る。 近隣諸国の歴史を改竄しても何らの心の痛みを感じない中華思想を思う。だが、中国は近世に於いて、南京大レイプ,南京大虐殺等の日本の兵隊による蛮行を受ける事となった。 他国の歴史を改竄し、結局は「万世一系」の荒唐無稽な歴史観を醸成する手助けをしてしまって居たのだ。そのことが、15年戦争の不幸の元凶ともなる。

他国を蹂躙しようとするものは、必ず、その傲慢についての罰を歴史的に受けるのだ。               

 564年九州年号改元「師安」₍564年のみ₎

長野県長野市善光寺「善光寺縁起第二」、兵庫県一宮伊和大明神社「峰相記」に使用されている。

565年九州年号改元「知僧」₍565年~569年₎

長野県長野市善光寺「善光寺縁起第二」、佐賀県佐賀市本庄町妙見山淀姫大明神「本庄大明神縁起」、群馬県佐波郡角淵八幡神社「角淵八幡宮縁起」などに使用されている。

570年九州年号改元「金光」₍570年~575年₎

山口県熊毛郡熊毛町呼坂勝間熊毛神社「防長寺社由来」、長野県長野市善光寺「善光寺縁起第二」、愛知県南設楽郡鳳来町鳳来寺「鳳来寺由来」などに使用されている。

576年九州年号改元「賢称」₍576年~580年₎ 

山口県玖珂郡美和町阿賀崎所大明神「崎所大明神縁起」「季号賢称丁酉とかやの時唐百済国に・・・琳中皇帝・・・和国に渡らんと₍賢稱二年か₎」、山口県熊毛郡熊毛町呼坂勝間熊毛神社「防長寺社由来」などに使用されている。

581年九州年号改元「鏡常」₍581年~584年₎。

山口県玖珂郡美和町阿賀崎所大明神「崎所大明神縁」「五ヵ年を期し鏡常辛丑之季七月下旬琳聖太子防浜に来朝し給ふ₍辛丑は元年₎」、鹿児島県川辺郡坊津町「一乗院由緒」「恵思禅師の遺言で・・・鏡常年中来日し・・・建立」などに使用されている。鏡常3年、聖徳太子の異見により、33国を66国に分割統治したと言う記事が「日本略紀」にある。「二中歴」にはないが、「聖徳」と言う年号も存在する。「聖徳」年号も山口県長門市山上堂「山上堂由来書」、千葉県松戸市小金井長谷山本土寺「本土寺過去帳」などの使用が有る。「聖徳」は九州年号の「仁王」と重複しており、阿毎多利思北孤の皇子、利歌彌多弗利₍「利」「上塔の利」₎の法号であると考えられる。

585年九州年号改元、「勝照」₍585年~588年₎。

長崎県松浦市「肥前旧事巻一」「勝照二年勅シテ逆臣守屋ノ子辰子瓜連ヲ松浦ニ配流ス」山口県山口市大内御堀南明山乗福寺「防長寺社證文」「太子十六歳用明天皇二年防勝三年丁未摂州玉造岸上建立今之天王寺也」福島県福島市森会信夫山信夫山黒沼神社「黒沼大明神縁起」「崇峻天皇ノ御時勝照三年石比賣皇后ヲ黒沼大明神トシテ祭ル」滋賀県甲賀郡油日町油日大明神「油日大明神縁起」「太子為報神恩勝照四年戊申四月到此界」滋賀県甲賀郡「金剛寺之略記」「聖徳太子守屋誅後為報神恩勝照四年甲賀国御行幸」などの多数の使用例有り。

587年の「丁未の乱」は蘇我、物部戦争の様相で「日本書紀」に描かれているが、実際は九州王朝による分国と仏教を基軸にした支配体制に反抗した勢力が討伐された記事だろう。「日本書紀」に登場し「朝廷」によって8か国に八つ裂きにされて晒された「捕鳥部萬」は崇峻だと考える。この時に活躍した皇子こそ阿毎多利思北孤であろう。

589年九州年号改元、「端正」₍589年~593年₎。

山口県小野田市西須恵村万福寺「万福寺子持御前縁起」「推古天皇御宇端正元癸丑年ここなる銀鎖岩の上に鎮座し給ふ」愛媛県越智郡大三島町大山祇神社「伊予三嶋縁起」「端政二暦庚戌自天雨降給自端政二年至永和四年以七百十九年也崇峻天皇位此代端政元暦配厳島奉崇」福島県福島市森合信夫山「黒沼大明神縁起」「崇峻天皇御時端正二庚戌年六月十五日黒沼大明神ト申」広島県佐伯郡宮島町厳島神社「伊都岐島神社縁起」「推古天皇端正五年癸丑十一月十二日なり推古天皇端正五年癸未(癸丑の誤りか)厳島明神ト申ハ推古天皇御宇癸丑端正五年厳島神社推古天皇の御宇端正五年戊申十二月十三日厳島に来臨御座  (癸丑の誤りか)伝記曰推古天皇癸丑端正五年」など使用例多し。

太宰管内志には玉垂命が三潴の大善寺玉垂宮で端正元年に即位したとある。阿毎多利思北孤の父である。587年に河内を中心とする近畿地方の8か国を侵略し、直轄領とした倭王である。九州年号には別系列の四年号がある。
端正ー始哭ー始大ー法興 である。「端正ー始哭ー始大」までは玉垂命関連の法号だろうと考えられる。「法興」は阿毎多利思北孤の法号であろう。

589年と言えば永らく続いた南北朝時代を終わらせ、隋が中国を統一した年である九州倭国が永らく朝見して来た南朝陳が滅亡したのである。同時に九州王朝による九州9か国分国の年に当たる。

594年九州年号改元「吉貴」₍594年~600年₎。

熊本県下益城郡砥用甲佐平村福成寺「肥後国誌」、熊本県玉名郡菊水町下津原阿蘇神社「飛尾大明神由緒書」、兵庫県加古川市「五峰山光明寺沿革」、千葉県松戸市小金井「本土寺過去帳」、山口県山口市大内御堀南明山乗福寺「防長寺社證文」、滋賀県八幡市雲冠寺「箱石山雲冠寺縁起」などに多数見られる。

601年九州年号改元、「願転」₍601年~604年₎。

愛媛県越智郡大三島町大山祇神社「伊予三嶋縁起」、長野長野市善光寺「善光寺縁起」。

605年九州年号改元、「光元」₍605年~610年₎。

山口県山口市三ノ宮二丁目「防長寺社證文」「宮ノ前ヨリ終夜玉飛通リ奇瑞有之ニヨリ今ノ社地江光充元年ニ宮殿ヲ遷サレ候事」奈良県高市郡明日香村橘寺「橘寺縁起」などに記載。

607年には倭王阿毎多利思北孤が隋に使いを遣わして「『海西の菩薩天子重ねて仏法を興すと聞く。故に使者を遣わして朝拝せしめ,兼ねて沙門数十人来りて仏法を学ぶ。』と。」の記述が有る。「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」と言う文言は倭王年の時代に自ら建元し、天子を自認した倭王の末裔であってこその発言である。「日出處天子が日沒處天子に書を致す。恙が無きや」と言う問いかけで始まる上表文は長年中国南朝に臣従し、遂には自らを南朝の後継者と自認する姿勢が伺える。本来、北朝系の隋とは何の上下関係も無い。その歴史的背景から、対等外交となって居るのだ。海西の菩薩天子とは、海の西の方の天子、すなわち、開皇11年₍591年₎菩薩戒により総持菩薩となった煬帝を指している。「海西の天子は、重ねて(熱心に)仏法を起こしていると聞いた。そのため沙門₍僧侶₎を送って仏法を学ぶために来たのだ」と述べている。決して「朝見」が目的ではないのである。目的はあくまで沙門₍僧侶₎の留学である。

608年には隋使裴清が倭国を訪れ、隋書の「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」記事を書いている。

新羅 百濟皆以俀爲大國 多珎物 並敬仰之 恒通使往來
新羅・百濟は、みな俀を以て大国にして珍(寳)物多しとなし。並びにこれを敬い仰ぎて、恒に使いを通わせ往来する。

との記述があり、新羅・百濟との通行や倭国の物品の豊かさを書いている。倭王安、筑紫の君磐井の時代から、もっと以前から、極東アジアにおける日本の盟主は倭国で有り、倭王であったのである。

611年九州年号改元、「定居」₍611年~617年₎。

山口県防府市牟礼「防長風土注進案」、「大内譜録長門記」、「大内氏実録」、愛知県南設楽郡鳳来寺「鳳来寺興記」、東京都台東区浅草寺「古本永享記」「関東兵乱記」奈良県天王寺安居院「神道集鳥居事」など。

このうち山口県防府市高倉高倉山福宝寺「防長風土注進案」には「天皇佐波郡大内県に皇居を建而定居王と号す」との記述有り。佐波郡大内県とは周防国佐波郡多々良浜₍現在の防府市₎の事。百済国第26代聖明王の第3子・琳聖太子はこの地に西暦611年着岸し、そのまま棲みついたとされている。倭国王はこの当時防府市に宮を構え元号を「定居」としたと読める。百済からの客人、琳聖太子は倭王の庇護のもとで宮殿に暮らしたのであろう。611年と言えば新羅王が高句麗討伐を隋に上表した時期である。602年8月には阿莫城₍全羅北道南原市₎で百済・新羅間の大交戦が開かれ、百済は大敗している。倭国・百済の共通の敵である新羅・高句麗の脅威に備えて宮殿を遷都したのだろう。周防国衙跡₍防府市土居八町₎があり、この地にも国府が置かれていた。九州王朝の副都であろう。四国の今治市にも国府が確認され、国府は越智郡にあった。吉備大宰、吉備総領は日本書紀、風土記、続日本紀に記述が有る。岡山市中区賞田、倭姫巡行記録にその名が有る「吉備の国、名方浜宮」に備前国府址がある。朝鮮半島の経営にあたっていたのは吉備臣とも記述があり、九州王朝の版図が想像される。

612年には隋の高句麗遠征が有る。

617年のものと思しき真平王₍新羅王在位579年-632年₎の『三國遺事』巻5 感通第7 融天師彗星歌

第五居烈郎・第六實處郎<一作突處郎>・第七寶同郎等三花之徒。欲遊楓岳。有彗星犯心大星。郎徒疑之。欲罷其行。時天師歌歌之。星恠即滅。日本兵還國。反成副慶。大王歡喜。遣郎遊岳焉。

歌日。奮理東尸汀叱 乾達婆矣遊烏隱城叱肹良望良古 倭理叱軍置來叱多烽燒邪隱邊也藪耶 三花矣岳音見賜烏尸聞古 月置八切爾數於將來尸波衣 道尸掃尸星利望良古 彗星也白反也人是有叱多 後句 達阿羅浮去伊叱等邪 此也友物此所音叱彗叱只有叱故。

真平王が家来と共に夜お花見をしていると、夜空に怪しい彗星が現れた。これは不吉の兆しだと家臣たちは騒いだが、識者が言うにはこれは日本軍が国に帰る前兆だと言った。それを聞いて真平王は大いに喜んで家来たちを丘に遊ばしめた。

日本軍が朝鮮半島に駐留し続け、真平王と新羅国の永年の憂いとなっていた。この彗星はハレー彗星だと思われるのでその周期から617年の出来事だろうと推測した。

617年に阿毎多利思北孤は大宰府遷都の詔を出したとみられる。

618年九州年号改元「倭京」₍618年~622年₎。

「神明鏡」、「海東諸国記」に記載あり。「倭京」と言うのは太宰府の事である。九州太宰府には紫宸殿もある。久留米には曲水の宴の遺構もある位である。恐らく万葉集は本当は万単位の歌集であった。とても古い時代の歌も有った。だけど、現存する万葉集には万単位の歌は無い。特に九州地方の歌は限られている。歌聖と言われた歌麿の「志賀の皇」賛歌くらいである。わたくしが考えるには恐らく平安期頃には、いまだに九州の王権は現存した。だから二中歴も残ったし、新羅も皇子を平安期に倭国の質にしようと考えたのだと思う。九州と近畿は別の国であった時代がある。

623年九州年号改元「仁王」₍623年~634年₎。

滋賀県大津市園城寺「園城寺伝記」など。

635年九州年号改元「僧要」₍635年~639年₎。

山口県厚狭郡山陽町宝珠山洞玄寺「洞玄寺由来書」、福島県会津「會津正統記」、福島県大沼郡会津高田町伊佐須美神社「伊佐須美神社年代記」など。

640年九州年号改元「命長」₍640年~646年₎。

福島県会津「會津正統記」、兵庫県河西郡綱引村「周遍教寺記」など。

647年九州年号改元「常色」₍647年~651年₎。

山口県宇部市棚井恒石八幡宮「恒石八幡宮御縁起」、愛媛県越智郡大三島町大山祇神社「伊予三嶋縁起」など。

652年九州年号改元「白雉」₍652年~660年₎。

山口県宇部市中山明王山広福寺「明王山広福寺縁起」「大化六庚戌武基より白雉を禁庭ヘ献上嘉祥の年号として白雉と改元」山ロ県宇部市棚井恒石宮「恒石宮御縁起」「孝徳天皇之御宇・・・穴戸と申所にて白き雉子を生捕大内へ捧玉ふ・・・年号を白雉」など多数。

661年九州年号改元、「白鳳」₍661年~683年₎。

三重県伊勢神宮「二所太神宮例文」、福島県会津若松市「赤城大明神縁起」「法光院地臓菩薩緑起」、福岡県久留米市御井町高良神社「高良玉垂宮神秘書同紙背・高良記」など多数。

661年から663年迄が白村江の戦いだとされる。22年間も改元されず続いた「白鳳」は九州倭政権の女帝、斉明の元号だろうと九州王朝説の提唱者の古田武彦氏の他、大方の研究者は見ている様子である白村江の大敗で改元どころでは無くなっていたの居たのであろう。

白鳳元年(661年)九州王朝、近江遷都し白鳳と改元 。

白鳳は22年間も続いている。その間に、実はもう一つの元号群がある。中元・果安の2つでこれは近江年号と呼ばれている。

『襲国偽僭考』(鶴峯戊申一八二〇年頃)(朱雀条)一説には白雉朱雀の二年号をしるさずして、ことに中元果安の二年号をしるしていはく、天智帝之時、中元四年終、又曰、按戊辰爲元年、天武帝之時果安、又曰、按不審年数。

『和漢年契』(高安蘆屋ろおく。高昶とも)一七八九)〈天智帝之時〉中元〈四年終、按戊辰爲元年、〉〈天武帝之時〉果安〈按、不審年数〉  

「中元」は天智7年戊辰(668年)の天智「即位」年を元年とし、「崩御」する天智10年(671年)まで四年間続くもので「天智の年号」としての十分な合理性を有する。次の果安も大友(弘文帝)即位の元号だとすると辻褄が合う。

そうだとすれば白鳳11年(671)年末、天智崩御。白鳳12年(672年)正月、大友(弘文帝)即位。「果安」と改元した事となり、この2年号は近江朝の年号として妥当なものとなる。

白鳳3年(663年)白村江で大敗、九州王朝の女帝、斉明の息子、築紫君薩夜麻は虜囚の身となる。
白鳳5年(665年)薩夜麻、高宗の泰山の儀に扈從し、唐に服属。
白鳳7年(667年)薩夜麻、「都督」に任ぜられ「筑紫都督府」に帰還
白鳳8年(668年)天智、「倭姫王」を娶り九州王朝を女系で継承、「中元」と改元。
白鳳11年(671年)年末、天智崩御。
白鳳12年(672年)正月、大友(弘文帝)即位。「果安」と改元。大友(弘文帝) の母は伊賀采女宅子娘で「倭姫王」 の血統ではないため「倭姫王」は筑紫に帰り、唐・薩夜麻・天武連合軍「近江朝」を滅ぼし大友死去。 「果安」 元号は1年で終わる。天武は斉明の弟であったと考えられ、天子斉明に仕える立場であったため、名分上では以前九州王朝の「臣下」であった。そのため「臣下の最高位」たる「真人(天渟中原瀛真人天皇)」を名乗ったのだ。一旦近畿天皇家の人間である天智が皇位に就いた「近江朝」が成立したということは、その時から近畿天皇家による「朝廷」が成立したともいえる。「天命開別あめのみことひらかすわけ天皇」という和風諱号はこれを如実に物語っている。

684年九州年号改元「朱雀」₍684年~685年₎。

続日本紀「詔報曰白鳳以来朱雀以前年代玄遠」など。

686年九州年号改元「朱鳥」₍686年~694年₎。

愛知県名古屋市熱田区「熱田神官緑起」、山口県大津郡油谷町「大願寺人丸縁記」「朱鳥三年草壁の太子窮しまし」など多数。

694年持統8年十二月六日藤原宮に遷居

695年九州年号改元「大化」₍695年~704年₎。

694年の藤原京への遷都を受けての改元と見られる。この頃はまだ近畿天皇家は支配権を得ていない。藤原宮に居て詔を発して居たのは九州王朝の天子であり、藤原宮を造営したのは九州王朝である。

大分県直入郡久住町「久住神社社伝」、大阪府箕面市平尾「箕面寺秘密縁起」「持統天皇御宇大化九季乙未二月十日」他多数。もっとも有名なのは「日本書紀」の「大化の改新」である。

698年文武二年四月 文忌付博士ら八人を南嶋に遣わして国を求めさせた。そのために武器を支給した。

699年文武三年七月 タネ・夜久・奄美・度感等の人々が、朝廷から遣わされた官人に従って都に来て、上地の産物を貢献した。身分に応じて位を授け、物を賜わった。

699年 8月 南嶋の貢献した品物を、伊勢大神宮および諸神社に奉納した。

699年 11月 文忌付博士、刑部真木らが南嶋から帰って来た。地位に応じて位を進めた。

700年『続日本紀』文武天皇四年条「薩摩の比売・久米・波豆、衣評督の衣君県、同じく助督弖自美、また肝衝の難波、これに従う肥人らが、武器を持って、覓国使刑部真木らをおどして物を奪おうとした。そこで、竺紫の惣領に勅して、犯罪の場合と同様に扱って罰を決めた。」

『続日本紀』によると、この後も隼人の“反乱”が続いている。鹿児島県各地に伝承されている「大宮姫伝説」は天智とセットで語られている。勿論、この場合の天智は近畿天皇家の天智に仮託された別人である。孝徳天皇の白雉元年庚戌₍652年₎の時、開聞岳の麓で鹿が美しい姫を産んだ。その姫は二歳の時₍654年₎に入京した。十三歳₍664年₎で天智の妃となったが、訳あって都を追われ開聞岳に帰って来た。その後、天智十年辛未の年₍672年₎、天智が姫を追ってこの地に来られ、天智は慶雲三年₍707年₎に亡くなられた。年齢は七十九歳であったと言う。その天皇の後を追うようにして大宮姫は和銅元年₍708年₎に五十九歳で亡くなられた。『開聞古事縁起』

701年に近畿天皇家に藤原京を追われた九州王朝の天子が九州開聞岳に帰って来た。『開聞古事縁起』はその状況を記す。

天智天皇出居外朝之事
越仁王三九代天智天皇別離心難堪、溺愁緒之御涙、思翠帳紅閨隻枕昔歎二世眤契約蜜語空於発出居外朝御志而不幾時、 同十年辛未冬十二月三日〈大長元年尤歴代書年号〉帝帯一宝剣、騎一白馬潜行幸山階山、終无還御。 凌舟波路嶮難、如馳虚空、遂而臨着太宰府、御在于彼。越月奥於当神嶽麓欲営構離宮。故宣旨九州諸司也。

皇帝后宮岩隠之事
文武帝慶雲三₍706年₎丙未(午の誤りか)春三月八日天智聖帝天寿七十九於此崩御。於仙土陵当神殿也。阿弥陀如来示現帝皇也。(略)
不幾年其翌年之元明帝和銅元₍708年₎戊申歳六月十八日皇后御寿五十九薨御也

最後の九州年号大長が記されている。九州王朝の最終期の天子と皇后の崩御年がここに記されている。大宮姫は俾弥呼の宗女壹與と同じ13歳で天子の皇后となった。

701年₍文武5年₎3月21日近畿天皇家が初めて建元。この時を境に都督府に対応する評督府が無くなり、郡制が敷かれる。勿論、評督府を廃止し、郡制にすると言う詔は何処にもない。

九州年号と近畿天皇家の年号が12年間同時に存在する時期が有る。

704年九州年号改元「大長」₍704年~712年₎。

九州王朝の天子の九州帰還に合わせた改元である。

この元号は、鹿児島県指宿市開聞神社「開聞古事縁起」、愛知県南設楽郡鳳来町鳳来寺「鳳来寺由緒書」、愛知県越智郡大三島町「伊予三嶋縁起」「天武天皇御宇天長九年壬子六月一日為東夷征」などに記載が有る。

704年続日本紀慶雲元年十一月二十日条始めて藤原宮の地を定む。宅の宮中に入れる百姓一千五百五烟に布賜ふこと差あり。

694年に藤原京に遷都しているのに改めて「始めて藤原宮の地を定む。」とあるのは近畿天皇家が九州王朝の天子をようやく追い出し、この宮を我が物と出来た喜びを表している。「宅の宮中に入れる百姓一千五百五烟に布賜ふこと差あり。」とあるのは、当地の百姓を宮中に招き入れての大祝賀会を催した事を示している。今でも引っ越しの挨拶にはタオルを配ったりする。藤原京への引っ越し祝いに布を配り、皇位簒奪を祝ったのだろう。近畿天皇家は、この後時間を掛けて徐々に倭国を併呑してゆく。

705年続日本紀慶雲二年正月丙申₍十五日₎「宴を文武百寮に朝堂に賜ふ」

文武が名実ともに藤原宮の主となった事を祝う大規模な祝宴が開催された事が書かれている。この年の4月には「大宰府に飛駅の鈴八口、伝符十枚を給ふ。長門国には鈴二口」とある。九州王朝勢力圏へも駅鈴、伝符を配る一定の配慮を見せている。

722年高句麗、百済を併呑し唐王朝からの独立をも確保していた新羅が日本₍倭国?₎への警戒のあまり、毛伐郡城(慶尚北道慶州市外東面)を築く。
 
730年梅花の宴
 
この宴が「令和年号」の元となったとの事だが、どうやらこの宴は近畿天皇家とは無関係のようである。『万葉集』巻五にある梅花の宴の歌32首の序文に記された「初春の月にして、気淑く風らぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫らす」(初春月 氣淑風 梅披鏡前之粉 蘭薫珮後之香)の一節を典拠として、新元号「令和」が選定されたと言うが、この時代の、太宰府での宴である。則天武后に702年、日本国の建国は認められたものの、未だに九州王朝の威光が有った時代である。万葉集も編纂して居たのは先住した九州王朝だと考えられ、相変わらず倭国と日本は別種である時代なのである。この宴の登場人物たちは実は九州王朝旗下の武人達であり、その仰ぐ天子は九州王朝の天子である。これを誤解して近畿天皇家の元号にしている事はかなり陳腐である。
 
731年日本₍倭国?₎の戦船300艘が、東部海岸に攻め寄せて辺境を襲ったが新羅はこれを撃破している。
 
740年天平十二年大宰の少弐・藤原広嗣の乱
 
大宰の少弐・藤原広嗣が九州王朝の復権を企てた反乱である。広嗣の大宰少弐の任官は、乱のわずか一年半前、天平十年₍738年₎の末であるにもかかわらず、挙兵には筑前・筑後・肥前・豊後・大隅・薩摩から一万余が加わっている。こうした短期間での大規模な挙兵は、先住した九州王朝の存在ぬきでは説明できない。近畿天皇家は反乱鎮圧後、太宰府を廃止し、筑紫鎮西府を新設したが、天平十七年₍745年₎には早くも太宰府は復活している。九州王朝の後裔の勢力がなお強かったことの表われである。
 
769年慶雲三年道鏡事件
 
称徳の寵愛を受けた大臣の禅師道鏡が、八幡神のご神託があったとして皇位に付こうとした事件が発生している。大宰の主神・習宜阿曾麻呂の奏上を受けた事件である。このことは大宰の主神が近畿天皇家の皇位継承に関する発言権を持っていたことを示している。九州王朝の権威は未だ残って居たのである。称徳₍孝謙₎で天武系は断絶している。禅師道鏡と称徳は実は九州王朝系列の皇統に繋がる人々では無かったかとも思われる。天武系は近畿天皇家に、神道に於いても、仏教に於いても一切祀られていない。位牌が無いのだ。
 
802年哀荘王3年冬12月、均貞に大阿飡の官を授けて、仮の王子にして、日本国への人質にしようとしたが、均貞がこれを断った。『三国史記』新羅本紀
803年哀荘王4年7月「国交を開き通好した」『三国史記』新羅本紀
804年哀荘王5年5月「日本から黄金三百両が進上された」『三国史記』新羅本紀
806年哀荘王7年3月「日本からの使者を朝元殿で引見した」『三国史記』新羅本紀
808年哀荘王9年2月「日本国の使者を厚くもてなした」『三国史記』新羅本紀
 
在位10年目の809年7月、哀荘王は摂政のクーデターにより、王弟の体明侍衛とともに殺害された。日本国への人質を出して味方になって戦って欲しかったのであろう。『三国史記』新羅本紀には802年から808年迄の日本関連記事があるが、日本側の記録では『日本後紀』の延暦23年₍804年₎9月己丑条で「大伴宿禰岑万里を新羅に遣わした」の1例のみが記録されている。
哀荘王が相対した「日本国」の多くは「倭国」だったのではないのかと思う。
 
この後の憲康王の時代には、878年8月には日本からの使者を朝元殿で引見、882年4月には日本国王が黄金300両と明珠10個とを進上する使者を派遣してきたと『三国史記』新羅本紀に記述が有るが、この憲康王時代の友好記事は日本側の資料には無い。
『扶桑略記』は、寛平6年9月5日(884年9月27日)新羅船45艘が対馬を襲ったが、日本は太宰府の奮戦で、これを迎撃して危機を脱したと記す。
 
1026年天聖四年十二月、明州言う、「日本國太宰府、人を遣わして方物を貢ず。而も本國の表を持たず」と。詔して之を卻く。其の後も亦未だ朝貢を通せず。南賈時に其の物貨を傳えて中國に至る者有り。〈『宋史』日本伝〉
 
平安時代は延暦13年₍794年₎ - 文治元年₍1185年₎/建久3年₍1192年₎頃とされている。あるいは九州倭政権は平安時代初頭迄、かつての権威は失ったと言えども営々と存続していたのではないかと思われる。