日本書紀・古事記

近畿和政権が編纂した「古事記」は和銅5年₍712年₎成立である。”天武天皇”の指示で稗田阿礼の記憶、誦習する「帝紀」と「旧辞」の内容を、太安万侶と言う文官に筆録させたものである。「古事記」は元明に献上されたのだが、どうやら不備があったらしく、今でいうなら教科書検定に不合格となった。そこで使用される事は無く、長年隠蔽されていた。この書が陽の目を見たのは南北朝時代である。恐らく太安万侶の縁者が秘匿していたものが浮上して来たのだと思われる。


ここに面白い共通項を持つ本がある。中国の「尚書」である。「尚書」伝来の経緯は「古事記」とそっくりである。『五経正義』(唐の太宗〈626年~649年〉の時、孔穎達等、奉勅撰)に書かれている「尚書」伝来の経緯は「古事記」編纂の経緯と同じなのである。「孝文帝(紀元前180~157年)の時に『尚書』が秦の始皇帝(紀元前246年~210年)の梵書抗儒によって失われていたため、天下に『尚書』を知る者を求めた。秦の二世の博士だった『伏生、名は勝』と言う者があり『尚書』を良く知って居ると言う。彼は年既に90余歳であり、老いて宮中に行く事が出来なかった。そこで孝文帝は太常(宗廟礼儀を掌る職)に詔し、臣下の晁錯をして往いて之を受けさせ『尚書』29篇を得る事が出来た。伏生は『文を読めば則ち熟する』人物であり『尚書』の内容をことごとく習誦していたのである。そこで晁錯は伏生のもとに行き、その内容を口述して貰った」というものである。

『尚書』を『古事記』に、『孝文帝』を『元明』に、『伏生』を『稗田阿礼』に、『晁錯』を『太安万侶』に置き変えれば、そのまま「古事記序文」になってしまう。しかも『尚書』とは「古い書物」と言う意味で、「古事記」とほとんど同意である。『尚書』の伝誦者、伏生と筆録者、晁錯の物語にヒントを得て「古事記序文」が書かれた事はほぼ間違いないだろう。古事記編纂は中国の唐王朝の指示で行われた事が伺える。指示ではないとしても、中国の唐王朝の影響下で行われたことは疑えない。そうではないとしても、太安万侶は『五経正義』を読んだのだ。そうしてそれを下敷きにした。古事記については「続日本記」の和銅5年の項に古事記撰進の記録が全く無く、他の項にも一切記録が無い。『古事記』の写本は、奈良・平安・鎌倉期とも一切無く、14世紀の南北朝期になってやっと真福寺本が出現している。おそらく天武の言う「削偽定実」にそぐわなかったから、本は出来たが国定文書とされなかったのだ。「古事記」はその大体に於いて、近畿の豪族の系譜を切り張りして体裁を整えたもので、海外文書や九州王朝の記録を取り入れていない。そこを天武や元明は不備と感じたのだろう。

古事記序文の中に天武の詔として「削偽定実」の四文字がある。古事記はこの天武の意志によって作られたと言えるだろう。では天武の言う「偽」とはなにか。「実」とはなにか。

7世紀は6世紀末に中国南朝が滅びた次の時代である。中国を統一した王朝は唐王朝であり、中国北朝である。この時、滅びた「南朝の天子」は「偽の天子」とされた。その「偽の天子」に任命された「倭の5王」も「偽王」であった。更に言えば7世紀になって倭王が自ら名乗った「日出る処の天子」などは「偽天子」の最たるものであった。これに対する武力決着がつけられたのが「白村江の戦い」であった。


戦場となった白村江は海外であるし、しかも海上戦であったからこの戦いの行われた662年(日本書紀では663年)時点で直ちに倭国の王朝が滅亡した訳では無かった。しかしながら既にこの時点で倭国の滅亡は決定的となっていた。制海権を中国軍に奪われたからである。日本列島内に置いても「北朝系」の唐を「正」とし「南朝系」の天子・諸臣を「偽」とする事が戦勝国の唐の側から厳しく要求されて居た。このような国際情勢を背景に発せられたのが天武の「削偽」の一語であった。


すなわち「南朝系の歴史を削る」こと。これが「削偽」の目的であった事は確実である。

だから古事記には

「中国南朝の魏」に貢献した俾弥呼の記述が無い。それは中国南朝系列に服属した倭国、九州王朝の弥生の歴史だからである。

だから古事記には

「中国南朝の宋」に貢献した倭の5王の記述が無い。「中国南朝」の偽天子から「使持節」などの偽将軍号を授けられた倭王の歴史、それも当然「偽」であるから綺麗に除かれているのである。

だから古事記には

「日出処の天子」の記述が無い。阿毎多利思北孤こそ「偽」の際建つ者。東夷という蛮族の身でありながら「天子」を名乗ったからである。中国唐王朝からすれば許すべからざる存在。だからこれを除き、それと関りの無い「推古女帝と厩戸皇子」を以て古事記全編を結んだのである。これが「偽」に非ざる「正」なのである。

変わって8年後の養老4年₍720年₎成立の「日本書紀」が公の近畿天皇家の歴史書として使われる事となった。「古事記」は天地開闢から推古迄の記述で、上巻、中巻、下巻からなる薄い書であり、主に出雲神話と筑紫神話が記述されているのだが、「日本書紀」は1巻から5巻までの分厚い書物である。近隣の海外文書と既存の王朝の歴史書をあたかも近畿天皇家の事績や出来事として書き入れたために重層化したのである。九州王朝の史書たる「日本旧記」、九州王朝と百済側との交渉史たる百済系3資料(「百済記」「百済新撰」「百済本記」)、これらを次々と切り取って近畿天皇家の歴史として貼り付け、編入して新たに構成した。実在の歴史ならぬ仮構の歴史を新作したのである。「日本書紀」には記載されているが「古事記」には一切の記載が無い時弊は、他王朝、或いは他の海外文書からの切り張りである。


「日本書紀」は近畿天皇家の「正史」として書かれ、流布された。近畿天皇家にとって以後、これが史実で有り、これ以外は史実では無いのだ。「日本書紀」こそが検定済みの書、国定版の「公認の歴史書」なのである。これに対して「古事記」は歴史の大掛かりな虚構操作や新編成をしていない。専ら近畿内の系譜に留まって居る。和銅5年(712年)から養老4年(720年)に至る元明・元正の間に於いて、少なくとも2派の立場が存在したのだ。権力による積極的、全面的な歴史変造を実行しようとする一派と、そこ迄は踏み切れない一派と。そうして他王朝文書や海外文書を貼り付けた「日本書紀」が「正史」とされたのである。「正史」が決まった後、「古事記」はどうなってしまうだろう。「変造前の姿はこうでした。」等と言って、貴重文献として保存されるだろうか。そんなことがある筈は無い。「古事記」は権力者によって「以後、生き続ける事を許してはならない書」となってしまったのである。

「古事記」の朝鮮半島との交渉は極めて乏しい。応神記に始まる文物の往来は有っても「任那日本府を通じての百済との頻繁な交渉」など皆無なのである。しかるに「書紀」には、その夥しい記事が存在する。この違いに気が付かない読者はいないだろう。「正史」たる「日本書紀」の内容が事実である限り、「古事記」は「偽史」なのだ。共に権力によって編纂されながら、一方は「正史」として流布され、一方は600年間も秘匿隠蔽された、事の真相はここにある。この両書は「倶に天を戴く事の出来ぬ」関係にあったのである。とすれば、同じく権力の正史たる「続日本記」に、どうして両者の成立を並載できようか。

以下に古田武彦氏の「盗まれた神話」を引用しよう。↓

日本旧記に云ふ。「久麻那利を以て末多王に賜ふ」蓋し是、誤りならむ。久麻那利は任那国の下哆呼唎の別邑なり。(雄略紀21年頃)

この条の本文は

二十一年の春三月に、天皇、百済、高麗のために破れぬと聞きて、久麻那利を以て汶州王に賜ひて、其の国を救ひ興す。…

この百済大敗は「漢城の落城」として知られる事件だ。この条の直前(21年頃)に「百済記」からの有名な引文がある。

百済記に曰く、「蓋歯王の乙卯年の冬に、狛の大軍、来たりて、大城(漢城ー百済の都)を攻むること七日七夜、王城降り陥りて、遂に尉礼(いれ、百済の雅称か)を失ふ。国王及び大后・王子等、皆敵手に没す 」と。

つまり、この漢城の落城(476年)のさい、日本の天皇は任那の一部、久麻那利を割き、汶州王(書紀の註では蓋歯王の母の弟。蓋歯王の 敗死後、熊津を都として百済王室を継ぐ)に送ったと言うのである。

この記事を本文に記した後「書紀」の編者は註記に「日本旧記」なる書物から引文した。それが「(日本の天皇は)久麻那利を 末多王に賜うた 」という一句である。それに対して「書紀」の編者は「蓋し是、誤りならむ 」と批評して居る。”久麻那利を送った相手は本文のように汶州王であって、「日本旧記」に云うように「末多王に賜うた 」というのは誤りだろう、と言う判定を付して居るのである。

しかし、これは誤りではない。雄略23年条にあるようにこの時、末多王は日本に来ていた。「日本の天皇」は末多王の聡明を愛して居た。そこでこの末多王に祖国の存亡にさいして久麻那利を送ったのである。これを百済側から見れば領土割譲であるから時の百済王たる「汶州王に割譲して貰った」となるのである。これが百済記に書かれて居た。それを国内史料と海外資料が矛盾すると海外資料の方を採用する「書紀」の編者は、「百済記」に従って本文を作った。そして「末多王に賜う」とした日本側資料を非としたのである。

 しかし、「日本旧記」の場合、直接送った当人名たる「末多王」をあげているのであって、「百済記」側の「汶州王」となんら矛盾して居ない実質内容なのである。むしろ同一の事件を海の向こうとこちらとの両側から記して居る。つまり、それぞれの立場においてそれぞれ正しいのだ。これを一言で言えば、直接の被贈与者は「末多王」、大義名分上の被贈与者は「汶州王」である。

この両記事の相関関係を「書紀」編者は見落とした。そのため余計な批評の短文を残した。この「書紀」編者の誤解自体、この事件が九州王朝と百済との間の事件で有って、近畿天皇家の史実では無かったことを証明する。なぜならこの事件から「書紀」編纂期までわずか二百余年だ。大化の改新までなら百五十年程度である。こんな重大な領土割譲事件の真相が忘れ去られる訳は無いからである。

以上「盗まれた神話」より引用↑

「古事記」「日本書紀」ともに、昨今の九州王朝説の歴史研究者の絶好の研究資料となって居る。九州王朝説の創始者、古田 武彦氏は「古事記」「日本書紀」の記述を「造作」として軽視しなかった。それどころか日本歴史探求の糸口とされたのである。大筋で言えば「日本書紀」にあって「古事記」に無い記述は他資料からの盗用である。「日本書紀」の編者には、好きな時代の好きな部分に他資料を写し書きすると言う悪い癖があるが、全く無かった事を有った事として、創作して記述すると言う悪い癖は無い。と言う特徴があり、しかも盗用した部分には「一書に曰く」とか「或る本に曰く」とかの添え書きをしている。その一書、或る本とは引用文中の「日本旧記」である。この本の成立は530年頃と推測されて居る。6世紀中葉頃の成立である。「百済本記」は531年に亡くなった筑紫君磐井のことを「日本の天皇」と書いている。九州王朝はこの頃既に国号を「日本」としていたのである。

   ”天武天皇”が「諸氏所属の家々に持ち、伝えている『帝紀』と『本辞』は正実に違い虚偽を加えているものが甚だ多いと聞くが、今その誤りを改めないと、幾年も経たないうちに、その趣旨は滅びてしまうであろう。『帝紀』と『本辞』は邦家の経緯₍国家行政の根本組織₎であり、王化の鴻基₍天皇徳化の基本₎であるから、それらを討究し撰禄し、偽りを削り実を定めて後世に伝えようと思う。」と詔して行われた「古事記」編纂、「日本書紀」編纂であったが、「正実に違い虚偽を加えているもの」を「今その誤りを改め」ようとの企画がこの2書の比較検討と細かな読み込み、出土事実との対比で崩れようとしている。
 
或いはこの当時の文官の中にも誠実に歴史書を残そうとした者が僅かながら居て、後世の人々が怪しむ文章を折々のセクションに残した物だろうか。「日本書紀」”継体天皇”の没年や外国文書記事の50年遡上の繰り入れや120年遡上の三国史記からの貼り付け文書など、捏造と剽窃、盗用と無理なこじ付けに後年の人間が気付かざるを得ない構成となっている。
 
「古事記」「日本書紀」を中心の公的資料とするのは最早、一つの仮定作業になった。この2書の他にも古代の歴史書が存在しているのである。その片鱗しか見えないが蘇我氏が編纂した「天皇記」「国記」や「北鏡」、そうして「東日流内外三郡誌」である。「古事記」「日本書紀」こそが正当な歴史書と言うのが正論ならば「天皇記」「国記」「北鏡」「東日流内外三郡誌」が正当な歴史書であると言うのも正論であろう。どちらにも資料的価値が有る。その中から真実を探るのは研究者の力量次第と言えるだろう。
 
近畿和政権の公的PR書、「古事記」「日本書紀」には表れない歴史が和田家文書には書かれている。「古事記」とて真実の歴史を書いて居る訳では無いのだ。和田家文書のように公権力に依らない、民衆側の口述を記録した歴史書によれば、より客観性のある歴史が伺えるのである。

「日本国之国、坂東より丑寅を曰ふ。
 人跡十万年乃至十五万年の古歴に在りて、古来よりアラハバキイシカホリガコカムイを信仰す。国土、国民、能く治まりて、七族併合し、亦、信仰も一統にして、更に西南へ皆、人相捗りぬ。依て、坂東より西を倭国と称し、その国主ぞ耶靡堆王阿毎氏とせり。
 今より二千五百年前に、支那玄武方より稲作渡来して、東日流及び筑紫にその実耕を相果したりきも、筑紫にては、南藩民、航着し、筑紫を掌握せり。
 天皇記に曰く一行に記述ありきは、高天原とは、雲を抜ける大高峯の神山を国土とし、神なるは日輪を崇し、日蝕、月蝕、既覚の民族にして、大麻を衣とし、薬とせし民にして、南藩諸島に住分せし民族なり。
 高砂族と曰ふも、元来住みにける故地は、寧波と曰ふ支那仙霞嶺麓、銭塘河水戸沖杭州湾舟山諸島なる住民たりと曰ふ。
 筑紫の日向に猿田王一族と併せて勢をなして、全土を掌握せし手段は、日輪を彼の国とし、その国なる高天原寧波より仙霞の霊木を以て造りし舟にて、筑紫高千穂山に降臨せし天孫なりと自称しける。即ち、日輪の神なる子孫たりと。智覚を以て謀れるは、日蝕、月蝕、の暦を覚る故に、地民をその智覚を以て惑しぬ。例へば、天岩戸の神話の如し。
 当時、耶靡堆に既王国ありて、天孫日向王佐怒と称し、耶靡堆王阿毎氏を東征に起ぬと曰ふは、支那古伝の神話に等しかるべし、と天皇記は曰ふなり。(以下略)
 天正五年九月一日
  行丘邑高陣場住 北畠顕光」

天正5年と言えば1577年である。それより2500年前と言えば、紀元前923年である。佐賀県唐津市の縄文水田、菜畑遺跡が紀元前930年頃の遺跡であるし、同様の水田遺跡は福岡県博多区の板付遺跡、福岡県粕屋町の江辻遺跡がある。南藩民、高砂族は寧波から来たのだ。「日蝕、月蝕、の暦を覚る故に、地民をその智覚を以て惑しぬ。」「天岩戸の神話の如し。」とあり、鬼道を使い庶民を惑わしたと言う女王俾弥呼に相通じるものが有る。「大麻を衣とし、薬とせし民にして、南藩諸島に住分せし民族なり。」と書かれているから麻の衣服を日常的に着用し、大麻を薬としていた民族だ。俾弥呼はシャーマンだった。大麻による幻覚も庶民に見せていたのだろう。
 
東日流外3郡誌1 古代編₍上₎
基より吾が国の創は幻化に無想易く、日向族なる智明の国主、麻草を用ゆる占師を以て愚知なるを犯し、侵領の国に害意を興す。依て邪馬台国大いに民困厄し、苦害に逼らるるなり。諸悪の想念重なりて、遂に戦を以て報復す。而るに麻草の薬を用ふる戦士、死を怖れず攻め来るに、耶馬台族いたくうちやぶられて、故地を脱けいでぬ。是れ、安日彦、長髄彦らの東日流落着なりき。
元禄7年8月20日 藤井伊予述
 
東日流外3郡誌1 古代編₍下₎
大魔力薬の秘 日向一族の主たち、神賜とて与うる薬酒、人の魂を抜く大魔力薬なり。ひとたび是を味はいし者は、この神賜酒を欲して神司者の意のままに死を怖れず尽くせりと曰ふ。日向一族は、是れなる大魔力薬を以て、津々浦々の郷族酋長に賜酒に仕込て従かわせ、耶馬台軍の楯になしたり。この魔力薬をなす草を大麻よりとりだすといふ。麻は糸取りの草にして、是は日向一族の衣を織りなすものなれば、それなる草よりとりいだす魔力薬、如何にて得たるぞ、神は司る者の他に知るべきもなき。かたりそうべい右の如く、語部に伝へ遣りける日向族の神なる神爾にも用いる麻糸ぞ、荒吐神にては用ふなし。荒吐族の衣はシナマンダの木の他は用いずと曰ふ。
神をして大魔力薬とは、かかる非道のものなれば、神の大御霊にそむき奉る行為なり。
元禄10年8月藤井伊予
 
征夷因習の遺行事抑々
日本神事祭礼に用ふる麻なる皮を多く献神せるは、太古に麻なる葉を香炉にたき、その煙を吸わせ、諸人を従かはしめたる因習に依れるものなり。また葉茎に至るまで汁をしぼりて酒に混じるも、衆を神に従かはしむる策なりせば、麻はただ衣となせるためならず。魔草とぞ思いとり神事に用いたる古事に習ふべからず。
元禄10年1月1日秋田頼季
 
そう言えば神社の大幣は大麻で出来ている。
 
第一章に曰く。
 筑紫王たる猿田彦王、是なる流民族長佐怒王に自国を献じて、民を併せしに、その東征ぞ破竹の勢にして、豊の国を略し、遂にして赤間の速水峡を渡りて山陽、山陰、の国を略しむ。内海、南海道、を併せし間、七年にして、遂には西海王たる出雲王を併せて、国ゆづりの議、成りて耶靡堆国を攻め、浪速の戦に始まりて、地王の阿毎氏安日彦王、その舎弟長髓彦王らを東国に逐電せしめたりと曰ふ。

「丑寅日本記 第八」“安倍抄記之序”
 
猿田彦王は天鈿女のハニー・トラップで篭絡されたと「日本書紀「古事記」は言うが、以外と麻薬中毒にもされていたのかもしれない。「今より二千五百年前に、支那玄武方より稲作渡来して、東日流及び筑紫にその実耕を相果したりきも」とあるから元々縄文水田は「支那玄武方」から渡来した稲作で既存の民によって既に創られていた。荒覇吐の民が「東日流及び筑紫」で稲作をして平和に暮らしていたところを、寧波から渡来してきた高砂族、日向族に襲われたのだ。稲作渡来の時期は紀元前923年の事、天孫降臨は弥生中期後期頃、紀元前200年頃の事である。

しかしながら、天孫降臨は、近畿和政権の歴史ではなく、九州王朝の始原の歴史なのである。だから、古事記、日本書紀の描く古代は、九州と出雲に限られる。九州王朝は自らを倭、あるいは委と呼んだ。音としては「ゐ」である。なので近畿の王権の事を言う時には「近畿和政権₍きんきわせいけん₎」と言い、九州王朝の事を言う時には「九州倭政権₍きゅうしゅういせいけん₎」と呼ぶのが適当だと思われる。
 
倭は「ゐ」としか読めない。この文字を「ヤマト」と読める人は相当に素直で騙されやすい人なのだろう。近畿和政権の成立は701年であるから、それ以前の王朝の記録は殆ど全て九州倭政権の記録だと見なすことができる。₍日本武尊の記述には、九州王朝の歴史書からのみでは無く、関東地方の王や兵庫地方の王、岡山地方の王の事績の盗用有り₎もちろん、「倭姫」も正式名称は「筑紫姫」である。
 
舊唐書東夷伝には
「日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本爲名。或曰、倭國自悪其名不雅、改爲日本。或云日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉。又云、其國界東酉南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有大山爲限、山外即毛人之國。」
 
との記述があり、8世紀初頭の近畿和政権は大山₍日本アルプス₎より北には侵略出来て居ないのである。

 

例えば3世紀の「三国志」や1~2世紀の「後漢書」、7~8世紀の「旧唐書」に至るまで中国側の歴史書には殆ど倭国伝がある。中国側は紀元前2世紀から7世紀まで至る倭国側の王朝を一貫して連続した王朝と見做して居たと見られる。

本文 書籍
倭人は帯方の東南大海の中に在り、山島に依りて国邑を為す。旧百余国。漢の時朝見する者有り、今、使訳通ずる所三十国 三国志・魏志倭人伝
倭は韓の東南大海の中に在り、山島に依りて居を為す。凡そ百余国あり。武帝、朝鮮を滅ぼしてより、使訳漢に通ずる者、三十許国なり 後漢書・倭伝
倭国は高驪の東南大海の中に在り、世々貢職を修む。 宋書・倭国伝
倭国は百済・新羅の東南に在り。水陸三千里、大海の中に於いて、山島に依って居る。魏の時、訳を中国に通じるもの三十余国。 隋書・俀国伝
倭国は古の倭奴国なり。京師を去ること一万四千里、新羅東南の大海の中に在り、山島に依って居る。…世々中国と通ず。 旧唐書・倭国伝

中国の歴史書には倭国は魏の時、つまり俾弥呼の時代から一貫して中国との交渉を持って居たと記されて居るのである。更に漢の時にも朝見したと書かれて居る。

夫れ楽浪海中に倭人有り。分れて百余国をなす。歳時を以て来り献見すと云ふ。漢書、地理志・燕地

以来の記事、「漢~宗」の時代を受けた「世々」なのである。場所は「帯方の東南」「韓の東南」「高驪の東南」「新羅の東南」の「山島」なのである。それでは中国が度々、日本列島の王朝として対応して来た国は朝鮮半島の東南の山島、つまり九州島しか無いのである。紀元以前から7世紀までの王朝は九州王朝であった。となれば「古事記」「日本書紀」はカットアンドペースト、切り貼りの歴史書である。