真実の日本歴史

日本列島の最初の渡来者と日本列島の始まり

日本列島の最初の渡来者は原人である。出雲市の砂原遺跡から、11万~12万年前の石器が発掘されている。遠野市で発掘された8-9万年前の金取遺跡からも石器が出土しているが、これらは現生人類とは別の原人のものであろうと目されている。

和田家文書では日本列島の最初の渡来者はバイカル湖周辺に居た阿曽辺族という。最も寒冷となった2万年前にバイカル湖周辺の人々が山靼を出て、動物を追って東に移動し、一部は沿海州から樺太、北海道へと渡った。これが阿蘇部族だ。

次に渡来したのが津保化族で、最も寒冷となった2万年前にバイカル湖周辺の人々が動物を追って東に移動し、一部はアラスカを経て、北米大陸へ渡り、南北米大陸に渡った津保化族の祖先がそこで定住したが、後にその子孫が故地のバイカル湖周辺を目指して移動中に日本列島に流れ着いた。これが津保化族である。

1万年前に南北米大陸に渡った津保化族の一団は下北半島「都母(つも)」にやって来たと言う。

つまり阿蘇部族と津保化族はルーツは同じなのである。

狩猟を主体とした阿蘇部族は岩木山₍青森県弘前市および西津軽郡鰺ヶ沢町に位置する火山₎の噴火で滅んだと言われている。

一度は米大陸に移住した津保化族だったが何らかの事情で祖先の地に帰ろうとしたらしい。アジア大陸のバイカル湖周辺を目指して引き返す途中青森県の下北半島根付けに漂着した。宇曽利、糠部、都母に一旦定着した後、次第に西に移動し、三内丸山などに移り住んだ。三内丸山遺跡は5500年前から始まっている。三浦半島の田戸遺跡も5000年前の遺跡とされている。

亀ヶ岡石器時代遺跡は4000年前頃に始まるとされる。八甲田山の大噴火により、難を逃れて亀ヶ岡などへ移動した。印象的な遮光器土偶で知られる亀ヶ岡土器は近畿にまで及び、九州にも影響を与えている。これを亀ヶ岡文化圏とすると、石器時代にも列島を覆う祭司圏が広がっていた。和田家文書では荒覇吐神の似姿として遮光器土偶が描かれており、日本列島の最初の民族、津保化族の神の姿を知る事になった。

 

「渡島住民をアイヌとて忌み嫌ふべからず。彼の民こそ古き世より神の古道を遺せし民なり。クリル族、ギリヤーク族、オロッコ族、オロチョン族、チングース族、ウデゲ族、何れも古祖にして血の縁れる民なるを異にする勿れ。山靼は大陸にして擴し。西果てに紅毛人国あり、黒人国ありて、吾等は黄色人種に屬す。その渡れる方處世界果つる国に住居して、古代の證を遺しつる人の種族なり。」

和田家文書  丑寅日本国古事抄 語部録抄壹之巻 より

「丑寅日本国にては紅毛人の歸化をも認めき故に、かく知識を得たるゝなり。知らざるは知識を山靼に求むは、何事の支障もなかりき。古にして奥州は青眼、紅毛頭髪の民、多かりしと今に傳ふなり。

人の種になれるは、ブリヤート族、シュメール族、シキタイ族、ギリシア族、モンゴル族ら多彩なり。丑寅日本国に住みては、信仰は先住のモンゴル、シュメール神なるブルハン及びアラハバキ神を以って一統さる他は自在たり。」

北鑑第12巻より

「東日流とは日高見国の国末にて、古代に於てをや、氷原を以て海を閉し、支那の地に到るを歩めし世ありき、渡り来たる阿曽辺族、次には津保化族を以て人住む国となりける地なり。抑々、わが東日流の国ぞ、安東浦、曽止浦の海幸に豊けきところなりせば、古人の祖住ぞ今なる倭の国より古けき国とぞ曰ふ。
 北辰に続く広大なる国土ぞ、日輪の不沈国ありて、丸き日輪も四角に神変せるぞ拝せらるなり。これなる氷原国ぞ、みな日下将軍の国土にして、蝦夷とぞ軽笑に化外せる倭朝の不知るところなり。
 地の果まで日下の国は続きけるに、安東水軍ぞ古代より海征をなしたるは、その幸を求むる故なりき。われら人祖の祖血は世界皆一族にして、いかで人のうえに人ぞあるべきか、また富貴貧賎ぞ如何に以て人の世にのみあるべきぞ。人の道には父母に孝し、導くものを尊敬せる他に何事を以て争ふぞ。
 荒吐族は古来より全能の神なる天地水の荒吐神を平等摂取の神となし崇拝しきたり。
 人とし殺伐、欲と盗、自望勝手たるを赦すことなく一族を護りきに、倭人はこれを夷賊とて永き征伐の歴史を遺したるに、如何なる悔もなきは忿怒やるかたなき外道の制悪にして永代忘却を赦さざる憎恨なり。
 凡そ生を世に人身をして受け、陽陰少かに五十年を限りとし、生々流転安きことなき無常一刻の夢になにをか以て争ふるぞ。
 冬寒永き日高見の国に到る一刻の陽期にまかなふる衣食住の備を奪ふるは倭朝の輩にて、これに応ぜざれば蝦夷の反きとぞ征夷の刃ぞあらましぬ。依て荒吐族は古来より一汁一食たりとも私にせず、生々相互の分ちあふ生命の保つを暮しとせり。
 これを犯すものは、いかなるものとて一族を挙げて討つべくは生きるべく人の道にして、神ぞあらばいづれが正邪ぞ知るべきところなり。北辰の民はかくして生命を今に保つきたるなりと伝はり、平等なる人の生々を子孫に遺しけるは尊ときところなり。
 かくある荒吐族の生命ぞ、今尚以て征夷の軍配とどむなく、いつぞやこれを討破らむ陽光当るべき日の近からむ兆ぞあらめ。
 神ぞ知るべくを以て筆をとどむるなり。
  元禄十年五月    藤井伊予」

東日流外三郡誌 抜抄篇第三 藤井伊予 元禄十(一六九七)年五月 一巻64~65より 

日本列島の始まりはクリル族、ギリヤーク族、オロッコ族、オロチョン族、チングース族、ウデゲ族、ブリヤート族、シュメール族、シキタイ族、ギリシア族、モンゴル族の混血である津保化族の石器時代の渡来である。

 




詳細を読む: https://minsyu-rikken-jiyuu.webnode.jp/

日本列島の最初の渡来者と日本列島の始まり

日本列島の最初の渡来者は原人である。出雲市の砂原遺跡から、11万~12万年前の石器が発掘されている。遠野市で発掘された8-9万年前の金取遺跡からも石器が出土しているが、これらは現生人類とは別の原人のものであろうと目されている。

和田家文書では日本列島の最初の渡来者はバイカル湖周辺に居た阿曽辺族という。最も寒冷となった2万年前にバイカル湖周辺の人々が山靼を出て、動物を追って東に移動し、一部は沿海州から樺太、北海道へと渡った。これが阿蘇部族だ。

次に渡来したのが津保化族で、最も寒冷となった2万年前にバイカル湖周辺の人々が動物を追って東に移動し、一部はアラスカを経て、北米大陸へ渡り、南北米大陸に渡った津保化族の祖先がそこで定住したが、後にその子孫が故地のバイカル湖周辺を目指して移動中に日本列島に流れ着いた。これが津保化族である。

1万年前に南北米大陸に渡った津保化族の一団は下北半島「都母(つも)」にやって来たと言う。

つまり阿蘇部族と津保化族はルーツは同じなのである。

狩猟を主体とした阿蘇部族は岩木山₍青森県弘前市および西津軽郡鰺ヶ沢町に位置する火山₎の噴火で滅んだと言われている。

一度は米大陸に移住した津保化族だったが何らかの事情で祖先の地に帰ろうとしたらしい。アジア大陸のバイカル湖周辺を目指して引き返す途中青森県の下北半島根付けに漂着した。宇曽利、糠部、都母に一旦定着した後、次第に西に移動し、三内丸山などに移り住んだ。三内丸山遺跡は5500年前から始まっている。三浦半島の田戸遺跡も5000年前の遺跡とされている。

亀ヶ岡石器時代遺跡は4000年前頃に始まるとされる。八甲田山の大噴火により、難を逃れて亀ヶ岡などへ移動した。印象的な遮光器土偶で知られる亀ヶ岡土器は近畿にまで及び、九州にも影響を与えている。これを亀ヶ岡文化圏とすると、石器時代にも列島を覆う祭司圏が広がっていた。和田家文書では荒覇吐神の似姿として遮光器土偶が描かれており、日本列島の最初の民族、津保化族の神の姿を知る事になった。

 

「渡島住民をアイヌとて忌み嫌ふべからず。彼の民こそ古き世より神の古道を遺せし民なり。クリル族、ギリヤーク族、オロッコ族、オロチョン族、チングース族、ウデゲ族、何れも古祖にして血の縁れる民なるを異にする勿れ。山靼は大陸にして擴し。西果てに紅毛人国あり、黒人国ありて、吾等は黄色人種に屬す。その渡れる方處世界果つる国に住居して、古代の證を遺しつる人の種族なり。」

和田家文書  丑寅日本国古事抄 語部録抄壹之巻 より

「丑寅日本国にては紅毛人の歸化をも認めき故に、かく知識を得たるゝなり。知らざるは知識を山靼に求むは、何事の支障もなかりき。古にして奥州は青眼、紅毛頭髪の民、多かりしと今に傳ふなり。

人の種になれるは、ブリヤート族、シュメール族、シキタイ族、ギリシア族、モンゴル族ら多彩なり。丑寅日本国に住みては、信仰は先住のモンゴル、シュメール神なるブルハン及びアラハバキ神を以って一統さる他は自在たり。」

北鑑第12巻より

「東日流とは日高見国の国末にて、古代に於てをや、氷原を以て海を閉し、支那の地に到るを歩めし世ありき、渡り来たる阿曽辺族、次には津保化族を以て人住む国となりける地なり。抑々、わが東日流の国ぞ、安東浦、曽止浦の海幸に豊けきところなりせば、古人の祖住ぞ今なる倭の国より古けき国とぞ曰ふ。
 北辰に続く広大なる国土ぞ、日輪の不沈国ありて、丸き日輪も四角に神変せるぞ拝せらるなり。これなる氷原国ぞ、みな日下将軍の国土にして、蝦夷とぞ軽笑に化外せる倭朝の不知るところなり。
 地の果まで日下の国は続きけるに、安東水軍ぞ古代より海征をなしたるは、その幸を求むる故なりき。われら人祖の祖血は世界皆一族にして、いかで人のうえに人ぞあるべきか、また富貴貧賎ぞ如何に以て人の世にのみあるべきぞ。人の道には父母に孝し、導くものを尊敬せる他に何事を以て争ふぞ。
 荒吐族は古来より全能の神なる天地水の荒吐神を平等摂取の神となし崇拝しきたり。
 人とし殺伐、欲と盗、自望勝手たるを赦すことなく一族を護りきに、倭人はこれを夷賊とて永き征伐の歴史を遺したるに、如何なる悔もなきは忿怒やるかたなき外道の制悪にして永代忘却を赦さざる憎恨なり。
 凡そ生を世に人身をして受け、陽陰少かに五十年を限りとし、生々流転安きことなき無常一刻の夢になにをか以て争ふるぞ。
 冬寒永き日高見の国に到る一刻の陽期にまかなふる衣食住の備を奪ふるは倭朝の輩にて、これに応ぜざれば蝦夷の反きとぞ征夷の刃ぞあらましぬ。依て荒吐族は古来より一汁一食たりとも私にせず、生々相互の分ちあふ生命の保つを暮しとせり。
 これを犯すものは、いかなるものとて一族を挙げて討つべくは生きるべく人の道にして、神ぞあらばいづれが正邪ぞ知るべきところなり。北辰の民はかくして生命を今に保つきたるなりと伝はり、平等なる人の生々を子孫に遺しけるは尊ときところなり。
 かくある荒吐族の生命ぞ、今尚以て征夷の軍配とどむなく、いつぞやこれを討破らむ陽光当るべき日の近からむ兆ぞあらめ。
 神ぞ知るべくを以て筆をとどむるなり。
  元禄十年五月    藤井伊予」

東日流外三郡誌 抜抄篇第三 藤井伊予 元禄十(一六九七)年五月 一巻64~65より 

日本列島の始まりはクリル族、ギリヤーク族、オロッコ族、オロチョン族、チングース族、ウデゲ族、ブリヤート族、シュメール族、シキタイ族、ギリシア族、モンゴル族の混血である津保化族の石器時代の渡来である。

 




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旧石器時代は、200万年前から紀元前1万年の間とされている。この旧石器時代も前期、中期、後期に区分する時代区分が行われている。

前期旧石器時代は約200万年前~約10万年前の期間とされている。ヨーロッパ、中近東、中央アジアでは、ホモ・ハビリス、ホモ・エレクトスが生息していた。アジアではホモ・エレクトスの一種、藍田原人、北京原人、ジャワ原人、澎湖原人、デニソワ人が出現した。25万年前には、現生人類であるホモ・サピエンスが誕生したと言われる。同時期にネアンテルタール人(ホモ・ネアンデルターレンシス)も誕生したとされる。この時期にはすでに、礫石器や打製石器の制作のほか、火も焚いていたし、言語も有ったと言われている。

中期旧石器時代は、約10万年前~約3.5万年前の期間とされている。約7万年前にはホモ・エレクトスが絶滅している。およそ258万年前から約1万年前までの期間は更新世₍氷河期₎であり、生命が生き残るには過酷であった。この時期の人びとは採集狩猟生活であったので、食料源となる動物群・植物群の捕食の為に移動とキャンプを繰り返している内に日本人の祖先は列島に辿り着いたと思われる。この時期に、打製石器がより発達し、石核石器₍打製石斧、砥石₎磨製石器₍石棒、石剣、石刀、青竜刀形石器、御物石器、装飾石器、石冠、岩偶、玉類など各種の祭祀具や石製の調理器具₎が登場したほか、死者の埋葬始まったと考えられている。

後期旧石器時代は、約3.5万年前~約1.2万年前の期間とされている。約3万年前から2万4000年前にはネアンデルタール人が絶滅し、ヒト族は現生人類のみとなった。このころ打製石器はさらに精巧なものとなり、剥片₍剥片をまず製作して、それを素材にして剥片石器を作る。石匙や石鏃₎を用いたナイフ形石器が普遍的に生産されるようになった。「ナイフ形石器文化期」は3万年前頃から1.4万年前頃まで存続する。ナイフ形石器文化期の終わり頃の1.5年前かやや遡る頃になると、関東・中部地方を中心に槍先形尖頭器の石槍が出現し、ナイフ形石器を凌駕するようになった。また骨角器₍動物の骨、貝殻、魚の骨などの加工品₎の制作や布製の衣服の着用、装身具の使用、洞窟壁画の登場、呪術的な行為の発生が認められている。後期旧石器時代から、日本列島に人類が住んだ遺跡や遺物が多く発見されている。北海道から九州までの遺跡の数は5000箇所にのぼっている。

日本列島に石器が出現したのは、11万~12万年前の中期旧石器時代からである。11万~12万年前の出雲市の砂原遺跡から石器が発掘されている。岩手県の中央を南北に流れる北上川の東側に広がる北上高地の中ほどにある遠野市の金取遺跡からも石器が出土している。この遺跡は9万~3万5千年前(中期旧石器時代)の遺跡とされている。これが現生人類によるものなのか、原人によるものなのかは定かではない。

和田家文書イシカカムイ傳丑寅日本国古事抄 語部録抄壹之巻によると

天 地 水 極星 神 伝える とは、古き世の古事を是の如き語印を以て遺し置きける、語部録と稱す丑寅日本国史なり。

此の国は、十五萬乃至参拾萬年前より人の住みける国にして、山靼より黄土嵐を脱し、此の国に渡来せる人祖をして肇められたる国なり。その民の最祖なるはアソベ族、次なるはツボケ族にして、子孫は西南に住分けを擴げたり。依て、古代なる神アラハバキ信仰も諸国に遺りけるは、倭神のたぐいに非らざるを知り置くべし。

寶暦元年十二月  木田己之吉

山靼より黄土嵐を脱し15万年ないし30万年前にアソベ族が渡来したという。初期のメソポタミア文明とされ、チグリス川とユーフラテス川の間に栄えたシュメール文明はウバイド期₍紀元前3800年頃₎に終焉を迎えている。アラビア半島東部やオマーンでの考古学調査から、この時期には湖水面の低下、砂丘の活動開始が起きた事が明らかとなっている。乾燥の広がりによって耕作活動が不可能になった。首都エリドゥからウルクへ移住したという神話が残されている。「山靼より黄土嵐を脱し、此の国に渡来せる人祖」とは古代シュメール人であるらしい。バイカル湖周辺に居た阿曽辺族は沿海州から樺太、北海道へ渡ったとされる。こののちに列島にわたって来た津保化族もバイカル湖周辺、沿海州からアラスカを経て、北米大陸へ渡り、南北米大陸に渡り、一時はアメリカ大陸に定着したが、後にその子孫が故地のバイカル湖周辺を目指して移動中に日本列島に流れ着いたものだと言う。

では、11万~12万年前の出雲市の砂原遺跡や9万~3万5千年前の岩手県遠野市の石器は原人のものでないとしたら阿曽辺族のものだろう。「15万年ないし30万年前」ではウバイド期₍紀元前5500~紀元前3800年頃₎とは整合しないが、シュメールにはそれ以前の古代文明、ナトゥーフ文化₍紀元前12500年から紀元前9500年にかけてレバントに存在した亜旧石器文化₎がある。終末期旧石器時代のこの文明の前にも人々はこの地に住んでおり、「山靼より黄土嵐を脱し、此の国に渡来せる人祖」が西アジア、古代オリエントを発した人々であることは間違いないだろう。

日本には判別不能の文字が描かれた岩が点在する。

① 安曇川町の神代文字石₍滋賀県高島市安曇川町三尾里₎

② 安曇野市の神代文字道祖神₍長野県安曇野市豊科₎

③ 国東半島の神代文字岩₍大分県国東市国東町大恩寺₎

④ 北九州市門司区のペテログラフ岩₍福岡県北九州市門司区藤松3丁目2

⑤ 下関市の彦島八幡宮のペテログラフ₍下関市彦島迫町5丁目12−9 彦島八幡宮₎

⑥ 下関市の角島のペトログラフ岩₍下関市豊北町大字角島893−1₎

⑦ 北九州市門司区の淡島神社のペテログラフ₍北九州市門司区奥田4丁目9−5 淡島神社₎

⑧ 宮島の弥山のペトログラフ₍広島県廿日市市宮島町 紅葉谷公園 獅子岩展望台₎

押戸石の丘のペテログラフ熊本県阿蘇郡南小国町

水窪遺跡のペトログラフ静岡県浜松市天竜区水窪

 

このうち下関市彦島のペテログラフはシュメール、バビロニアと北方ツングースのエニセイ文字のものが入り混じったものである事が指摘されている。 その多くの文字は、紀元前2千年から紀元300年頃までの幅広い年代のもので、発掘品がないために、絶対年代の特定は出来ないと言う。
 しかし、「古代のいつの時代か、シュメール文字を知っていた集団が何らかの形で彦島に上陸し、祭祀をした神殿ではないか。」と推定する学者もいると言う。水窪遺跡のペトログラフは古代フェニキア文字であるという。

北海道余市町栄町のフゴッペ洞窟、北海道小樽市手宮の手宮洞窟の文字はアムール川₍黒竜江₎下流を中心に定住していた原ギリヤーク人によって刻まれたものだと言われている。ほかにも古代ツングース文字だという説もある。

彦島八幡宮境内のペトログラフは解読されており「日輪の神や大地の女神、大気の女神、天なる父神などに、豊穣をもたらす雨を、男女神にかけて、日の王₍日子王=古代彦島の王₎が祈り、奉った。」と言う内容だという。

水窪遺跡のペトログラフも解読されており「我々の理想郷であるこの平地を占領している敵、われらの築いた豊かな村や町を奪っている畜生どもを何年かかっても襲え‼神々はわれらをお守りくださっているぞ。」と言う内容だと言う。

古代シュメール人はチグリス、ユーフラテス川流域の民であり、その民族系統は謎とされている。シュメール人は自らを「ウンサンギガ」と呼んでおり「黒頭の民」と言う意味だという。創世記には洪水後シナル₍シュメール地方₎に住み着いたのは「東からやってきた人々」と記述ており、言語的また容貌的観点からモンゴロイドである可能性もあると言う。古代シュメール人はメソポタミア平原に出自を持つと言われているから和田家文書に書かれている「山靼」とはメソポタミア平原の事だろう。

そう言えば、イエネコ計979匹をサンプルとしたミトコンドリアDNAの解析結果により、イエネコの祖先は約13万1,000年前に中東の砂漠などに生息していたリビアヤマネコであることが判明している。日本猫は古代シュメール人と共に日本に来たのではないだろうか。 


上の図は東日流六郡誌絵巻

下の図は古代オリエント地図

 

東日流外三郡誌 抜抄篇第三 藤井伊予 元禄十(一六九七)年五月 一巻64~65より 

日本列島の始まりはクリル族、ギリヤーク族、オロッコ族、オロチョン族、チングース族、ウデゲ族、ブリヤート族、シュメール族、シキタイ族、ギリシア族、モンゴル族の混血である津保化族の石器時代の渡来である。

 




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東日流外三郡誌 抜抄篇第三 藤井伊予 元禄十(一六九七)年五月 一巻64~65より 

日本列島の始まりはクリル族、ギリヤーク族、オロッコ族、オロチョン族、チングース族、ウデゲ族、ブリヤート族、シュメール族、シキタイ族、ギリシア族、モンゴル族の混血である津保化族の石器時代の渡来である。

 




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東日流外三郡誌 抜抄篇第三 藤井伊予 元禄十(一六九七)年五月 一巻64~65より 

日本列島の始まりはクリル族、ギリヤーク族、オロッコ族、オロチョン族、チングース族、ウデゲ族、ブリヤート族、シュメール族、シキタイ族、ギリシア族、モンゴル族の混血である津保化族の石器時代の渡来である。

 




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東日流外三郡誌 抜抄篇第三 藤井伊予 元禄十(一六九七)年五月 一巻64~65より 

日本列島の始まりはクリル族、ギリヤーク族、オロッコ族、オロチョン族、チングース族、ウデゲ族、ブリヤート族、シュメール族、シキタイ族、ギリシア族、モンゴル族の混血である津保化族の石器時代の渡来である。

 




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「東日流とは日高見国の国末にて、古代に於てをや、氷原を以て海を閉し、支那の地に到るを歩めし世ありき、渡り来たる阿曽辺族、次には津保化族を以て人住む国となりける地なり。抑々、わが東日流の国ぞ、安東浦、曽止浦の海幸に豊けきところなりせば、古人の祖住ぞ今なる倭の国より古けき国とぞ曰ふ。
 北辰に続く広大なる国土ぞ、日輪の不沈国ありて、丸き日輪も四角に神変せるぞ拝せらるなり。これなる氷原国ぞ、みな日下将軍の国土にして、蝦夷とぞ軽笑に化外せる倭朝の不知るところなり。
 地の果まで日下の国は続きけるに、安東水軍ぞ古代より海征をなしたるは、その幸を求むる故なりき。われら人祖の祖血は世界皆一族にして、いかで人のうえに人ぞあるべきか、また富貴貧賎ぞ如何に以て人の世にのみあるべきぞ。人の道には父母に孝し、導くものを尊敬せる他に何事を以て争ふぞ。
 荒吐族は古来より全能の神なる天地水の荒吐神を平等摂取の神となし崇拝しきたり。
 人とし殺伐、欲と盗、自望勝手たるを赦すことなく一族を護りきに、倭人はこれを夷賊とて永き征伐の歴史を遺したるに、如何なる悔もなきは忿怒やるかたなき外道の制悪にして永代忘却を赦さざる憎恨なり。
 凡そ生を世に人身をして受け、陽陰少かに五十年を限りとし、生々流転安きことなき無常一刻の夢になにをか以て争ふるぞ。
 冬寒永き日高見の国に到る一刻の陽期にまかなふる衣食住の備を奪ふるは倭朝の輩にて、これに応ぜざれば蝦夷の反きとぞ征夷の刃ぞあらましぬ。依て荒吐族は古来より一汁一食たりとも私にせず、生々相互の分ちあふ生命の保つを暮しとせり。
 これを犯すものは、いかなるものとて一族を挙げて討つべくは生きるべく人の道にして、神ぞあらばいづれが正邪ぞ知るべきところなり。北辰の民はかくして生命を今に保つきたるなりと伝はり、平等なる人の生々を子孫に遺しけるは尊ときところなり。
 かくある荒吐族の生命ぞ、今尚以て征夷の軍配とどむなく、いつぞやこれを討破らむ陽光当るべき日の近からむ兆ぞあらめ。
 神ぞ知るべくを以て筆をとどむるなり。
  元禄十年五月    藤井伊予」

東日流外三郡誌 抜抄篇第三 藤井伊予 元禄十(一六九七)年五月 一巻64~65より 

日本列島の始まりはクリル族、ギリヤーク族、オロッコ族、オロチョン族、チングース族、ウデゲ族、ブリヤート族、シュメール族、シキタイ族、ギリシア族、モンゴル族の混血である津保化族の石器時代の渡来である。

 




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「丑寅日本国にては紅毛人の歸化をも認めき故に、かく知識を得たるゝなり。知らざるは知識を山靼に求むは、何事の支障もなかりき。古にして奥州は青眼、紅毛頭髪の民、多かりしと今に傳ふなり。

人の種になれるは、ブリヤート族、シュメール族、シキタイ族、ギリシア族、モンゴル族ら多彩なり。丑寅日本国に住みては、信仰は先住のモンゴル、シュメール神なるブルハン及びアラハバキ神を以って一統さる他は自在たり。」

北鑑第12巻より

「東日流とは日高見国の国末にて、古代に於てをや、氷原を以て海を閉し、支那の地に到るを歩めし世ありき、渡り来たる阿曽辺族、次には津保化族を以て人住む国となりける地なり。抑々、わが東日流の国ぞ、安東浦、曽止浦の海幸に豊けきところなりせば、古人の祖住ぞ今なる倭の国より古けき国とぞ曰ふ。
 北辰に続く広大なる国土ぞ、日輪の不沈国ありて、丸き日輪も四角に神変せるぞ拝せらるなり。これなる氷原国ぞ、みな日下将軍の国土にして、蝦夷とぞ軽笑に化外せる倭朝の不知るところなり。
 地の果まで日下の国は続きけるに、安東水軍ぞ古代より海征をなしたるは、その幸を求むる故なりき。われら人祖の祖血は世界皆一族にして、いかで人のうえに人ぞあるべきか、また富貴貧賎ぞ如何に以て人の世にのみあるべきぞ。人の道には父母に孝し、導くものを尊敬せる他に何事を以て争ふぞ。
 荒吐族は古来より全能の神なる天地水の荒吐神を平等摂取の神となし崇拝しきたり。
 人とし殺伐、欲と盗、自望勝手たるを赦すことなく一族を護りきに、倭人はこれを夷賊とて永き征伐の歴史を遺したるに、如何なる悔もなきは忿怒やるかたなき外道の制悪にして永代忘却を赦さざる憎恨なり。
 凡そ生を世に人身をして受け、陽陰少かに五十年を限りとし、生々流転安きことなき無常一刻の夢になにをか以て争ふるぞ。
 冬寒永き日高見の国に到る一刻の陽期にまかなふる衣食住の備を奪ふるは倭朝の輩にて、これに応ぜざれば蝦夷の反きとぞ征夷の刃ぞあらましぬ。依て荒吐族は古来より一汁一食たりとも私にせず、生々相互の分ちあふ生命の保つを暮しとせり。
 これを犯すものは、いかなるものとて一族を挙げて討つべくは生きるべく人の道にして、神ぞあらばいづれが正邪ぞ知るべきところなり。北辰の民はかくして生命を今に保つきたるなりと伝はり、平等なる人の生々を子孫に遺しけるは尊ときところなり。
 かくある荒吐族の生命ぞ、今尚以て征夷の軍配とどむなく、いつぞやこれを討破らむ陽光当るべき日の近からむ兆ぞあらめ。
 神ぞ知るべくを以て筆をとどむるなり。
  元禄十年五月    藤井伊予」

東日流外三郡誌 抜抄篇第三 藤井伊予 元禄十(一六九七)年五月 一巻64~65より 

日本列島の始まりはクリル族、ギリヤーク族、オロッコ族、オロチョン族、チングース族、ウデゲ族、ブリヤート族、シュメール族、シキタイ族、ギリシア族、モンゴル族の混血である津保化族の石器時代の渡来である。

 




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狩猟を主体とした阿蘇部族は岩木山₍青森県弘前市および西津軽郡鰺ヶ沢町に位置する火山₎の噴火で滅んだと言われている。

一度は米大陸に移住した津保化族だったが何らかの事情で祖先の地に帰ろうとしたらしい。アジア大陸のバイカル湖周辺を目指して引き返す途中青森県の下北半島根付けに漂着した。宇曽利、糠部、都母に一旦定着した後、次第に西に移動し、三内丸山などに移り住んだ。三内丸山遺跡は5500年前から始まっている。三浦半島の田戸遺跡も5000年前の遺跡とされている。

亀ヶ岡石器時代遺跡は4000年前頃に始まるとされる。八甲田山の大噴火により、難を逃れて亀ヶ岡などへ移動した。印象的な遮光器土偶で知られる亀ヶ岡土器は近畿にまで及び、九州にも影響を与えている。これを亀ヶ岡文化圏とすると、石器時代にも列島を覆う祭司圏が広がっていた。和田家文書では荒覇吐神の似姿として遮光器土偶が描かれており、日本列島の最初の民族、津保化族の神の姿を知る事になった。

 

「渡島住民をアイヌとて忌み嫌ふべからず。彼の民こそ古き世より神の古道を遺せし民なり。クリル族、ギリヤーク族、オロッコ族、オロチョン族、チングース族、ウデゲ族、何れも古祖にして血の縁れる民なるを異にする勿れ。山靼は大陸にして擴し。西果てに紅毛人国あり、黒人国ありて、吾等は黄色人種に屬す。その渡れる方處世界果つる国に住居して、古代の證を遺しつる人の種族なり。」

和田家文書  丑寅日本国古事抄 語部録抄壹之巻 より

「丑寅日本国にては紅毛人の歸化をも認めき故に、かく知識を得たるゝなり。知らざるは知識を山靼に求むは、何事の支障もなかりき。古にして奥州は青眼、紅毛頭髪の民、多かりしと今に傳ふなり。

人の種になれるは、ブリヤート族、シュメール族、シキタイ族、ギリシア族、モンゴル族ら多彩なり。丑寅日本国に住みては、信仰は先住のモンゴル、シュメール神なるブルハン及びアラハバキ神を以って一統さる他は自在たり。」

北鑑第12巻より

「東日流とは日高見国の国末にて、古代に於てをや、氷原を以て海を閉し、支那の地に到るを歩めし世ありき、渡り来たる阿曽辺族、次には津保化族を以て人住む国となりける地なり。抑々、わが東日流の国ぞ、安東浦、曽止浦の海幸に豊けきところなりせば、古人の祖住ぞ今なる倭の国より古けき国とぞ曰ふ。
 北辰に続く広大なる国土ぞ、日輪の不沈国ありて、丸き日輪も四角に神変せるぞ拝せらるなり。これなる氷原国ぞ、みな日下将軍の国土にして、蝦夷とぞ軽笑に化外せる倭朝の不知るところなり。
 地の果まで日下の国は続きけるに、安東水軍ぞ古代より海征をなしたるは、その幸を求むる故なりき。われら人祖の祖血は世界皆一族にして、いかで人のうえに人ぞあるべきか、また富貴貧賎ぞ如何に以て人の世にのみあるべきぞ。人の道には父母に孝し、導くものを尊敬せる他に何事を以て争ふぞ。
 荒吐族は古来より全能の神なる天地水の荒吐神を平等摂取の神となし崇拝しきたり。
 人とし殺伐、欲と盗、自望勝手たるを赦すことなく一族を護りきに、倭人はこれを夷賊とて永き征伐の歴史を遺したるに、如何なる悔もなきは忿怒やるかたなき外道の制悪にして永代忘却を赦さざる憎恨なり。
 凡そ生を世に人身をして受け、陽陰少かに五十年を限りとし、生々流転安きことなき無常一刻の夢になにをか以て争ふるぞ。
 冬寒永き日高見の国に到る一刻の陽期にまかなふる衣食住の備を奪ふるは倭朝の輩にて、これに応ぜざれば蝦夷の反きとぞ征夷の刃ぞあらましぬ。依て荒吐族は古来より一汁一食たりとも私にせず、生々相互の分ちあふ生命の保つを暮しとせり。
 これを犯すものは、いかなるものとて一族を挙げて討つべくは生きるべく人の道にして、神ぞあらばいづれが正邪ぞ知るべきところなり。北辰の民はかくして生命を今に保つきたるなりと伝はり、平等なる人の生々を子孫に遺しけるは尊ときところなり。
 かくある荒吐族の生命ぞ、今尚以て征夷の軍配とどむなく、いつぞやこれを討破らむ陽光当るべき日の近からむ兆ぞあらめ。
 神ぞ知るべくを以て筆をとどむるなり。
  元禄十年五月    藤井伊予」

東日流外三郡誌 抜抄篇第三 藤井伊予 元禄十(一六九七)年五月 一巻64~65より 

日本列島の始まりはクリル族、ギリヤーク族、オロッコ族、オロチョン族、チングース族、ウデゲ族、ブリヤート族、シュメール族、シキタイ族、ギリシア族、モンゴル族の混血である津保化族の石器時代の渡来である。

 




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狩猟を主体とした阿蘇部族は岩木山₍青森県弘前市および西津軽郡鰺ヶ沢町に位置する火山₎の噴火で滅んだと言われている。

一度は米大陸に移住した津保化族だったが何らかの事情で祖先の地に帰ろうとしたらしい。アジア大陸のバイカル湖周辺を目指して引き返す途中青森県の下北半島根付けに漂着した。宇曽利、糠部、都母に一旦定着した後、次第に西に移動し、三内丸山などに移り住んだ。三内丸山遺跡は5500年前から始まっている。三浦半島の田戸遺跡も5000年前の遺跡とされている。

亀ヶ岡石器時代遺跡は4000年前頃に始まるとされる。八甲田山の大噴火により、難を逃れて亀ヶ岡などへ移動した。印象的な遮光器土偶で知られる亀ヶ岡土器は近畿にまで及び、九州にも影響を与えている。これを亀ヶ岡文化圏とすると、石器時代にも列島を覆う祭司圏が広がっていた。和田家文書では荒覇吐神の似姿として遮光器土偶が描かれており、日本列島の最初の民族、津保化族の神の姿を知る事になった。

 

「渡島住民をアイヌとて忌み嫌ふべからず。彼の民こそ古き世より神の古道を遺せし民なり。クリル族、ギリヤーク族、オロッコ族、オロチョン族、チングース族、ウデゲ族、何れも古祖にして血の縁れる民なるを異にする勿れ。山靼は大陸にして擴し。西果てに紅毛人国あり、黒人国ありて、吾等は黄色人種に屬す。その渡れる方處世界果つる国に住居して、古代の證を遺しつる人の種族なり。」

和田家文書  丑寅日本国古事抄 語部録抄壹之巻 より

「丑寅日本国にては紅毛人の歸化をも認めき故に、かく知識を得たるゝなり。知らざるは知識を山靼に求むは、何事の支障もなかりき。古にして奥州は青眼、紅毛頭髪の民、多かりしと今に傳ふなり。

人の種になれるは、ブリヤート族、シュメール族、シキタイ族、ギリシア族、モンゴル族ら多彩なり。丑寅日本国に住みては、信仰は先住のモンゴル、シュメール神なるブルハン及びアラハバキ神を以って一統さる他は自在たり。」

北鑑第12巻より

「東日流とは日高見国の国末にて、古代に於てをや、氷原を以て海を閉し、支那の地に到るを歩めし世ありき、渡り来たる阿曽辺族、次には津保化族を以て人住む国となりける地なり。抑々、わが東日流の国ぞ、安東浦、曽止浦の海幸に豊けきところなりせば、古人の祖住ぞ今なる倭の国より古けき国とぞ曰ふ。
 北辰に続く広大なる国土ぞ、日輪の不沈国ありて、丸き日輪も四角に神変せるぞ拝せらるなり。これなる氷原国ぞ、みな日下将軍の国土にして、蝦夷とぞ軽笑に化外せる倭朝の不知るところなり。
 地の果まで日下の国は続きけるに、安東水軍ぞ古代より海征をなしたるは、その幸を求むる故なりき。われら人祖の祖血は世界皆一族にして、いかで人のうえに人ぞあるべきか、また富貴貧賎ぞ如何に以て人の世にのみあるべきぞ。人の道には父母に孝し、導くものを尊敬せる他に何事を以て争ふぞ。
 荒吐族は古来より全能の神なる天地水の荒吐神を平等摂取の神となし崇拝しきたり。
 人とし殺伐、欲と盗、自望勝手たるを赦すことなく一族を護りきに、倭人はこれを夷賊とて永き征伐の歴史を遺したるに、如何なる悔もなきは忿怒やるかたなき外道の制悪にして永代忘却を赦さざる憎恨なり。
 凡そ生を世に人身をして受け、陽陰少かに五十年を限りとし、生々流転安きことなき無常一刻の夢になにをか以て争ふるぞ。
 冬寒永き日高見の国に到る一刻の陽期にまかなふる衣食住の備を奪ふるは倭朝の輩にて、これに応ぜざれば蝦夷の反きとぞ征夷の刃ぞあらましぬ。依て荒吐族は古来より一汁一食たりとも私にせず、生々相互の分ちあふ生命の保つを暮しとせり。
 これを犯すものは、いかなるものとて一族を挙げて討つべくは生きるべく人の道にして、神ぞあらばいづれが正邪ぞ知るべきところなり。北辰の民はかくして生命を今に保つきたるなりと伝はり、平等なる人の生々を子孫に遺しけるは尊ときところなり。
 かくある荒吐族の生命ぞ、今尚以て征夷の軍配とどむなく、いつぞやこれを討破らむ陽光当るべき日の近からむ兆ぞあらめ。
 神ぞ知るべくを以て筆をとどむるなり。
  元禄十年五月    藤井伊予」

東日流外三郡誌 抜抄篇第三 藤井伊予 元禄十(一六九七)年五月 一巻64~65より 

日本列島の始まりはクリル族、ギリヤーク族、オロッコ族、オロチョン族、チングース族、ウデゲ族、ブリヤート族、シュメール族、シキタイ族、ギリシア族、モンゴル族の混血である津保化族の石器時代の渡来である。

 




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