和田家文書の安日彦・長脛彦の時代

和田家文書による日本列島への人祖の渡来は10万年前である。縄文時代は1万2千年~1万2500年前である。それより以前は石器時代となるが、日本列島には数多くの石器時代の出土物がある。人祖が列島に到達したのが10万年前なら中期旧石器時代末期と言う事になる。日本列島に石器が出現したのは、11万~12万年前の中期旧石器時代からである。11万~12万年前の出雲市の砂原遺跡から石器が発掘されている。岩手県の中央を南北に流れる北上川の東側に広がる北上高地の中ほどにある遠野市の金取遺跡からも石器が出土している。この遺跡は9万~3万5千年前(中期旧石器時代)の遺跡とされている。

周の時、天下太平、越裳白雉を献じ、倭人鬯草を貢す。『論衡』巻8

成王の時、越裳、雉を献じ、倭人鬯草を貢す。『論衡』巻19

周の成王(前1115年~1079年)の時代に日本列島から周王を訪問する倭人がいたのだ。紀元前11世紀の事である。出土事実と和田家文書は共に日本列島の稲作の開始を前10世紀とし、稲が齎されたのは寧波、中国大陸からと和田家文書は記述する。稲を持って日本列島に渡る者がいれば、鬯草を持って中国大陸に渡る者も居る事は理の当然である。

殷の道衰え、箕子、去りて朝鮮に之く。其の民に教うるに、礼儀・田蚕・織作を以てす。『漢書』燕地

箕子の時代は周王朝の初期である。恐らく住み着いた場所は平壌辺りだろう。彼らは朝鮮の民に田を教え、織物を教え、中国皇帝に対する礼儀を教えた。当然先進の農耕器具を持って来ていただろう。縄文晩期、日本列島人が学んだ水田は周田であった。

楽浪海中倭人有り、歳時を以て来献す、と云う『漢書』

楽浪郡とは漢の四郡の一つ。前漢の武帝の時とされる記事だ。恐らく倭人は箕子を通じて、或いは箕子に物品を託して中国皇帝に貢献した。歳時を以て来献と言うのは現在で言えばお歳暮を以てご挨拶に伺うようなものだろうか。

和田家文書には度々筑紫の日向の賊に追われる安日彦、長脛彦の著述が出てくる。その舞台は邪馬台国となっている。しかし、同時に同時代の人物として猿田彦が必ず登場する。猿田彦は邇邇芸の天孫降臨時代に登場する人物で、神武東征時期とは大きく時代が隔たるのだ。

古田武彦氏の九州王朝説での詳しい解明から、天孫降臨の舞台は北九州筑紫の博多湾岸が舞台となって居る。神武東征もこの地を発しているのだが、神武東征はそのずっと後の時代の西暦1世紀ごろの出来事なのである。稲作の渡来時期はと言えば紀元前10世紀頃になる。糸島平野の出土物が激変する時期は西暦2世紀であるから、天孫降臨はこの時期であろうと考えられてきた。

俾弥呼は3世紀の九州王朝の女王である。この俾弥呼を記述した魏志倭人伝には「伊都国に到着する。長官は爾支(にき)、副官は泄謨觚(せもこ)と柄渠觚(へくこ)。1000余戸が有る。世々、王が居た。皆、女王国に属する。 」「奴国に至る。長官は兕馬觚(しまこ)、副官は卑奴母離(ひなもり) 」とある。『魏志倭人伝』伊都国・奴国の官名「泄謨觚・柄渠觚・兕馬觚」は実は周代の青銅の祭器と儀礼に起因するものだった。青銅製の柄杓、つまり「爵」に基づく位階制度から来ていると言う。

  • 『周禮』に記す「爵と觚」の礼(⇒三献の儀)『周禮』(冬官考工記梓人)爵一升、觚三升。献ずるに爵を以てし、酬(こた)うるに觚を以てす。一獻に三酬、則ち一豆なり。
  • 『魏志倭人伝』東南陸行五百里、伊都國に至る。官を爾支と日い、副を泄謨觚・柄渠觚と日う。千余戸有り。世王有るも皆女王國に統属す。郡の使の往来して常に駐る所なり。東南奴國に至ること百里。官を兕馬觚 と日い、副を卑奴母離と日う。二萬余戸有り。 
  • 周「爵」に由来する「爵制」⇒倭国「觚」に由来する「觚制」
    「觚」は、形状・用途により「泄謨・柄渠・兕馬觚 」と名付けられ、倭国では「官名」になった。
  • 泄謨觚 「泄」(呉音セ、漢音セイ)「水+世」「泄・漏泄也(宋本廣韻)」緩やかに外へもれ出る・もらす意味。  「謨」(呉音モ、漢音ボ)「言+莫」「広くはかる」或は「古代の祭器」
    『周礼』(春官、鬯人)凡山川四方用蜃、凡埋事用概,凡副事用散。(注)杜子春云、謨當為蜃(略)鄭司農(*鄭衆の注釈のこと)云、脩・謨・概・散、皆器名。
    「觚」の形状は「口が大きく開きすぎ、実際の飲酒には不向き」 泄謨觚⇒「大きく開いた飲み口から酒が溢れ、漏れ出す(泄)、「蜃」に似た器(謨)のような杯(觚)」
  • 「柄渠觚」「柄」(呉音ヒョウ、漢音ヘイ)は「え・つか」の意味。「渠(呉音ゴ、漢音キョ)は、「溝、頭・首領(例:渠魁・渠帥など)」の意味。「柄渠觚」⇒「柄付きの渠を持つ杯(觚)」で「勺(杓)」にあたる。
  • 「兕馬觚 」「兕 」(呉音・漢音ともにジ)とは『山海経』に記す想像上の動物で、犀や馬に似た一角獣 。「馬」は「ウマ」 「兕馬觚 」⇒「兕馬觚 」の形をした酒器「觚 觥(じこう)」にあたる。 

「爵」や「觚」の「祭祀型青銅器」は、天孫降臨以前の祭器⇒倭人の周への朝貢は天孫降臨以前
⇒天孫降臨時には糸島平野は周に朝貢した倭人の子孫たちが統治していた。 糸島地域の領域の支石墓(紀元前2~6世紀ごろで天孫降臨以前)。東部の小田支石墓、西部の新村遺跡、前原市に志登支石群、三雲井田地域に三雲石ケ崎支石墓など多数ある。 だから邇邇芸の天孫降臨は紀元前2~6世紀ごろ と言う事になる。伊都国は「世々、王が居た。皆、女王国に属する。 」と書かれて居る。支配実権は失ったものの、伊都国において前時代の支配階級が権威付けのために遺されたのだろう。現在の天皇家のようなものである。

参考:正木 裕氏論文

和田家文書に度々出現する筑紫の日向の賊に追われる安日彦、長脛彦 の記述も案外筑紫の天孫降臨時の話で追われた故地は糸島かも知れない。もしそうだとすれば糸島を後に紀元前2世紀頃に近畿の東奈良に逃れた話が神武東征とごっちゃになって伝わった可能性もある。そうであれば大方の出土事実と合致する。

古事記が描く天孫降臨には邇邇芸の言葉が記されて居る。

「此の地は韓国に向かい、笠沙の御前に真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。故、此の地は甚だ吉き地。」

これは「筑紫の日向の久士布流多気(くじふるだけ)」に天下った時の邇邇芸の言葉だ。

明治期に比定された天孫降臨の地は宮崎県の高千穂の峯だが、筑紫と言う言葉は九州全土を指して居るのではない。筑紫は福岡県、それも筑前なのである。

日向峠と言う峠がある。筑前の糸島郡と博多湾岸との接点にあたる地域だ。高祖山の南。怡土村より室見川上流の都地に至る途中にある。

日向山は筑後に有り八女郡の矢部・大淵二村の山々を日向山と呼ぶ。日向神岩は矢部川渓流中にある。

筑紫一帯が日向地名の点在地なのである。

「高祖村、椚 24戸、五郎丸の内、日向山に、新村押立、とあらば椚村は此の時立しなる。べし。民家の後に有るをくしふるやまと伝う…」(福岡県地理全誌目録、怡土郡之部より)糸島郡の「三雲遺跡」の近辺が五郎丸と言う。高祖村中の三雲・高上・宇田川原等の総称だと言う。

筑紫の日向の高千穂のくしふるの岳

高千穂は「高い山々」の意味である。高くそそり立つ連山の意味の普通名詞である。高祖山と日向峠とくしふる岳が揃うのは博多湾岸のこの地なのである。通説の宮崎県の日向、高千穂の峯に「くしふる岳」は無い。また宮崎県の日向には、博多湾岸の吉武高木、平原、三雲等の様な豪華な副葬品を伴った王墓も無いのである。

此の地、糸島郡、高祖山付近から周囲を望めば

(北なる)韓国に向かって大道が通り抜け

(南なる)笠沙の地(御笠川流域)の前面に当たる。

(東から)朝日の直に照り付ける国。

(西から)夕日の照る国。

となる。始祖神話の源域は博多湾岸と糸島郡の領地域である。ここが九州王朝の首都圏であった。記紀神話は九州王朝の神話なのである。神武東征はこの地に生まれた人間がこの地を発して、奈良盆地を侵略する話だった。この地を出発した話が、この地を制圧した話と混乱しているのである。

この地の稲作は紀元前千年ごろにはじまって居る。菜畑・板付の縄文水田の編年は約3千年前。板付は放射線炭素年代測定法による年代検査で2千900年前、前930年頃、菜畑は更に古いと言う。それまでこの地に君臨していたのは猿田彦だと記紀にも和田家文書にも書かれているのだ。高砂族が稲作をもたらした、と和田家文書にあり、その時期は水田遺跡の経過年から紀元前千年頃だと知れるのである。

但し、高砂族が稲作を齎した後に南藩民が漂着し、侵略した記述がある。

和田家文書の記述は、博多湾岸の熊襲族の猿田彦が日向族に国を奪われた故事と、神武の奈良盆地への侵略・入植の故事とが合体されているのである。東北の安日彦、長脛彦の逸話と記紀に記載されている長脛彦の記述から、天孫降臨時期の長脛彦と神武東侵時代の長脛彦を混同したのである。恐らく寛政時代に書かれた当文書は記紀神話の神武東征にも深い影響を受けて書かれたのであろう。当の記紀神話自体も、どうやら天孫降臨時期の出来事を神武東征時の出来事として混同して記述しているのだから、ある意味致し方ない。(神武東征の記事はどうやら現在の吉野ケ里遺跡、お佐嘉の大室屋 を邇邇芸が攻略した折の説話が混入していると古田氏は推論されている。)

以下の図は吉武高木、須玖岡本、三雲、平原の三種神器出土地域と板付水田。古田武彦著「古代史の未来」より転載

和田家文書によると

…今より二千五百年前に、支那玄武方より稲作渡来して、東日流及び筑紫にその実耕を相果したりきも、筑紫にては、南藩民、航着し、筑紫を掌握せり。…筑紫の日向に猿田王一族と併せて勢をなして、全土を掌握せし手段は、日輪を彼の国とし、その国なる高天原寧波より仙霞の霊木を以て造りし舟にて、筑紫高千穂山に降臨せし天孫なりと自称しける。…

今より二千五百年前に、支那玄武方より稲作渡来して、東日流及び筑紫にその実耕を相果したりきも、筑紫にては、南藩民、航着し、筑紫を掌握せり。
 天皇記に曰く一行に記述ありきは、高天原とは、雲を抜ける大高峯の神山を国土とし、神なるは日輪を崇し、日蝕、月蝕、既覚の民族にして、大麻を衣とし、薬とせし民にして、南藩諸島に住分せし民族なり。
 高砂族と曰ふも、元来住みにける故地は、寧波と曰ふ支那仙霞嶺麓、銭塘河水戸沖杭州湾舟山諸島なる住民たりと曰ふ。
 筑紫の日向に猿田王一族と併せて勢をなして、全土を掌握せし手段は、日輪を彼の国とし、その国なる高天原寧波より仙霞の霊木を以て造りし舟にて、筑紫高千穂山に降臨せし天孫なりと自称しける。即ち、日輪の神なる子孫たりと。智覚を以て謀れるは、日蝕、月蝕、の暦を覚る故に、地民をその智覚を以て惑しぬ。例へば、天岩戸の神話の如し。
 当時、耶靡堆に既王国ありて、天孫日向王佐怒と称し、耶靡堆王阿毎氏を東征に起ぬと曰ふは、支那古伝の神話に等しかるべし、と天皇記は曰ふなり。(以下略)
 天正五年九月一日
  行丘邑高陣場住 北畠顕光」

詳細を読む: https://minsyu-rikken-jiyuu.webnode.jp/%e6%97%a5%e6%9c%ac%e6%9b%b8%e7%b4%80%e3%81%ae%e7%aa%93%e3%81%8b%e3%82%892/
今より二千五百年前に、支那玄武方より稲作渡来して、東日流及び筑紫にその実耕を相果したりきも、筑紫にては、南藩民、航着し、筑紫を掌握せり。
 天皇記に曰く一行に記述ありきは、高天原とは、雲を抜ける大高峯の神山を国土とし、神なるは日輪を崇し、日蝕、月蝕、既覚の民族にして、大麻を衣とし、薬とせし民にして、南藩諸島に住分せし民族なり。
 高砂族と曰ふも、元来住みにける故地は、寧波と曰ふ支那仙霞嶺麓、銭塘河水戸沖杭州湾舟山諸島なる住民たりと曰ふ。
 筑紫の日向に猿田王一族と併せて勢をなして、全土を掌握せし手段は、日輪を彼の国とし、その国なる高天原寧波より仙霞の霊木を以て造りし舟にて、筑紫高千穂山に降臨せし天孫なりと自称しける。即ち、日輪の神なる子孫たりと。智覚を以て謀れるは、日蝕、月蝕、の暦を覚る故に、地民をその智覚を以て惑しぬ。例へば、天岩戸の神話の如し。
 当時、耶靡堆に既王国ありて、天孫日向王佐怒と称し、耶靡堆王阿毎氏を東征に起ぬと曰ふは、支那古伝の神話に等しかるべし、と天皇記は曰ふなり。(以下略)
 天正五年九月一日
  行丘邑高陣場住 北畠顕光」

詳細を読む: https://minsyu-rikken-jiyuu.webnode.jp/%e6%97%a5%e6%9c%ac%e6%9b%b8%e7%b4%80%e3%81%ae%e7%aa%93%e3%81%8b%e3%82%892/

天正五年九月一日
  行丘邑高陣場住 北畠顕光

こう記載されている。この記述によれば二千五百年前に、支那玄武方より 高砂族が稲作を伴って北九州にやって来た。その後、紀元前2世紀頃には南藩民がやってきて筑紫を制圧したのだ。そうして「筑紫高千穂山に降臨せし天孫なりと自称」したのである。

古事記神代記には高天の原に成れる神の子として

天之御中主神

高御産巣日神

神産巣日神

を揚げるが「一人神となり身を隠した」とする。次に出てくるのは

宇摩志阿斯訶備比古遅神で次に

天之常立神で、この2柱も一人神となり身を隠したとする。

「上の件の5柱の神は、別天つ神」とあり、日本に渡来した種族の中でも特別な人々だと語る。次に神代7代が語られる。

国之常立神

豊雲野神

この2柱の神も一人神となって身を隠したとする。

以下はその後の神代7神で右は男神で左は女神。

  1. 宇比地邇神(うひぢにのかみ)・須比智邇神(すひぢにのかみ)
  2. 角杙神(つぬぐいのかみ)・活杙神(いくぐいのかみ)
  3. 意富斗能地神(おおとのぢのかみ)・大斗乃弁神(おおとのべのかみ)
  4. 淤母陀琉神(おもだるのかみ)・阿夜訶志古泥神(あやかしこねのかみ)
  5. 伊邪那岐神(いざなぎのかみ)・伊邪那美神(いざなみのかみ)

このうちの伊邪那岐神、伊邪那美神が国土を次々に創設したとする。単純に13代目である。2神はまず磤馭慮嶋(おのごろしま・博多湾の能古島)を造り、伊邪那美神が多くの神を産んだ中で火の神、火之迦具土神を産んだために死亡し、伊邪那岐神が火之迦具土神の頸を切ったとある。その後は出雲の黄泉平坂の戦闘を描いている。

火之迦具土神の死体から生まれた神々は

  1. 正鹿山津見神(まさかやまつみのかみ、迦具土神の頭から生まれる)
  2. 淤縢山津見神(おどやまつみのかみ、迦具土神の胸から生まれる)
  3. 奥山津見神(おくやまつみのかみ、迦具土神の腹から生まれる)
  4. 闇山津見神(くらやまつみのかみ、迦具土神の性器から生まれる)
  5. 志藝山津見神(しぎやまつみのかみ、迦具土神の左手から生まれる)
  6. 羽山津見神(はやまつみのかみ、迦具土神の右手から生まれる)
  7. 原山津見神(はらやまつみのかみ、迦具土神の左足から生まれる)
  8. 戸山津見神(とやまつみのかみ、迦具土神の右足から生まれる)

であり、山系列の名前である。尚、火之迦具土神を祀る火男火売神社(大分県別府市)は別府温泉の源である鶴見岳の2つの山頂を火之加具土命、火焼速女命の男女二柱の神として祀り、温泉を恵む神としても信仰されていると言う。後に述べるが、この鶴見岳が天の香具山である。

小舘衷三・藤本光幸編 東日流外三郡誌第一巻古代編110頁 北方新社によると、安日彦、長脛彦の系図は

  1. 山大日之国命(やまおほひのくにみこと)→
  2. 山祇之命(やまずみのみこと)→
  3. 山依五十鈴命(やまよりいすじのみこと)→
  4. 山祇加茂命(やまずみかものみこと)→
  5. 山垣根彦命(やまかきねひこのみこと)→
  6. 山吉備彦命(やまよしびひこのみこと)→
  7. 山陀日依根子命(やまだひよりねこのみこと)→
  8. 山戸彦命(やまとひこのみこと)→
  9. 安日彦・長脛彦(あびひこ・ながすねひこ兄弟)→
  10. 荒覇吐5王(あらはばきごおう)

となって居る。山はひっきょう邪馬壹国の邪馬である。仮説に過ぎないが、伊邪那岐・伊邪那美時期の火之迦具土神の一族が火の香具山を追われた。そこは天の香具山、別府の鶴見岳であった。火を噴く山、鉱山の山、鶴見岳の火之迦具土一族が以前から居た粛慎・靺鞨系の人々だ。その時間軸は伊邪那岐・伊邪那美神話の時代。伊邪那岐・伊邪那美は素戔嗚が出現する出雲神話の前、出雲神よりも古い時代の神である可能性が高い。

天の岩戸に天照が隠れた折の記述には

「天の金山の鐵(まがね)をとりて鍛人天津麻羅を求ぎて、科伊斯許理度賣命に科せて鏡を作らしめ、玉祖命に科せて、矢尺の勾玉の五百津の御須麻流の珠を作らしめ、天兒屋命、布刀玉命を召して、天の香具山の眞男鹿の肩を内拔きに抜きて、天の香具山の波波迦をとりて、占合ひまかなはしめて、天の香具山の五百津眞賢木を根こじにこじて、上枝に八尺の勾玉の五百津の御須麻流の玉を取り付け、中枝に八尺鏡を取り繋け、下枝に白丹寸手、青丹寸手を取り垂でて、この種種の物は、布刀玉命、布刀御幣と取り持ちて、天兒屋命、布刀詔戸言祷き白して、天手力男神、戸の掖に隱れ立ちて、天宇受賣命、天香山の天の日影を手次に繋けて…。」との描写があり、天の香具山は鐵(まがね)が採れる鉱山であり、この山の鹿や波波迦(草)でなければ占いが出来ない程の聖なる山であった。

先に伊邪那岐は鉄資源の採れる天の香具山(大分別府鶴見岳)の現地住民を制圧したと言う事になる。縄文晩期に鉄を求めて戦闘が行われうるのかどうかは疑問だが、その時に制圧され、土地を奪われた火の香具山の土蜘蛛、現地豪族が安日彦・長脛彦ではないかとも思うがこれは無理だ。いくら何でも時代が早すぎるし、稲作を伴って来た高砂族の時代は紀元前900年代なのだから。「古事記」の記載では最も初めの時期にストーリーを伴って活躍する伊邪那美・伊邪那岐である。或いは、古事記の伊邪那岐・伊邪那美物語自体が縄文期から弥生期に至る前段の時期の先住民による制圧物語が組み入れて語られているとも考えられる。そうなると伊邪那岐・伊邪那美神話は高砂族・日向族とは無関係な先住の民の物語と言う事になる。『古事記』邇邇芸命の尊称「天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命(アメニキシ・クニニキシ・アマツヒコホノニニギノミコト)」⇒「爾支」(「邇・岐」は「爾・支」と音・意味とも一致)邇芸速日も「邇芸ニキ」邇芸速日の子は「天香山命・宇麻志麻治命」で、火山・可也山・にぎの浜など「志摩」由来地名 である。

伊邪那岐と伊邪那美は天の御柱の左右から ぐるっと一廻りして出会ったところで伊邪那美が「あなにやし、えをとこを(ああ、なんて素敵な男性でしょう)」と伊邪那岐に声をかける。その後、伊邪那岐が「あなにやし、えをとめを(ああ、なんて素敵な乙女だろう)」と言い、まぐはひするが、生まれた子は「水蛭子」だったので葦の船に乗せて流した。次の子も「淡島」で子どもとして認め難かった。伊邪那岐と伊邪那美が高天原の天つ神に相談したところ、ふとまに(鹿の肩骨を焼く占い)をして「女から先に声をかけたので不具の子ができた。今度は男から先に声をかけて国生みをやり直しなさい。」とのご神託が下った。ふとまにのお告げ通りにして伊邪那岐と伊邪那美はこのあと淡路之穂之狭別島(あわじのほのさわけのしま=淡路島)から順調に国生みをして行ったと言う説話が古事記に有り、その後も死亡して醜くなった伊邪那美が伊邪那岐に拒絶され伊邪那岐が逃げ帰る物語が続いている所からも、或いは伊邪那岐による女権との闘いが出雲に於いて行われた寓話なのかもしれない。

或いは出雲における縄文的勢力は女権を主にした勢力で、それを打ち滅ぼした勢力の寓話が古事記に現れているのかもしれないのだ。ギリシャ神話のアマゾネスの敗北は紀元前3000年頃。してみると日本に於ける伊邪那岐・伊邪那美神話もまた、時間軸としては紀元前3000年頃の事となろう。世界の発達段階には同一の流れが有り、歴史の同時性と呼ばれる。それはどうしてかと言うと、人類の発達段階に応じた社会が来るからだ。農業・漁業・畜産を通じて、ある程度の備蓄が出来るようになると階級分化が起きる。持てる者と持たざる者の差が生まれてくる。そうなると富を守護するための軍事力が生まれ、男権が強くなるのだ。石器時代はシャーマンである女王の時代だが、それが新たな段階を迎えて崩れ、戦闘が出来る男王の時代へと移り行くのである。

急に時代は飛ぶが、3世紀までは奈良盆地・近畿地方の青銅文化は銅鐸文化であった。それが3世紀以降、突然廃棄され、作られなくなる。変わって銅鏡が作られるようになる。もしこの時に奈良盆地で敗れた勢力が東日流に流れたのであれば、何故東北地方に銅鐸が出土しないのであろうか?安日彦・長脛彦が近畿で敗北して東北に逃れたのであれば、その時期の祭祀の形である銅鐸を東北でも作らない筈は無いのだ。だが、東北で銅鐸は出土しない。返って銅鏡が出土する事実を説明できないのだ。東北地方では遮光型土器の後に青銅器ではなく、ダイレクトに鉄器が作られている。これは製鉄の技術を持った集団が移り住んだからではないのかと思うのである。

また「古事記」「日本書紀」に出現する中心の敵将は長脛彦のみで安日彦の記載は無いのである。和田家文書の長脛彦は安日彦の弟で副将である。兄の安日彦の方が大将、和田家文書の邪馬台国の王者は安日彦なのである。この点、どうやら古代情報が錯綜しているように思える。「古事記」には主将の安日彦は一切出て来ない。

そして何故か和田家文書を自家に保存していた和田喜八郎氏は、遠賀川の上流、嘉穂盆地に位置した弥生時代の遺跡、立岩堀田遺跡から出土した連弧文「日有喜」銘鏡(1号鏡)に酷似した前漢式鏡を所持して居たのだ。前漢鏡を持って安日彦・長脛彦が東日流に移り住んだとしたら、その時代はまさに紀元前2世紀ごろの事になるだろう。

近畿では日本製の三角縁神獣鏡が主に出土し、前漢鏡など出土しはしない。この事からも、安日彦・長脛彦の東日流への流転は神武東征などよりも、もっとずっと古い時代の出来事だと思われるのである。

上図:立岩堀田遺跡から出土した連弧文「日有喜」銘鏡(1号鏡)

前漢(紀元前206年 - 8年)の銅鏡を何故和田家が所蔵していたのか現在に置いてもは不明である。

「高砂族と曰ふも、元来住みにける故地は、寧波と曰ふ支那仙霞嶺麓、銭塘河水戸沖杭州湾舟山諸島なる住民たりと曰ふ。筑紫の日向に猿田王一族と併せて勢をなして、全土を掌握せし手段は、日輪を彼の国とし、その国なる高天原寧波より仙霞の霊木を以て造りし舟にて、筑紫高千穂山に降臨せし天孫なりと自称しける。即ち、日輪の神なる子孫たりと。智覚を以て謀れるは、日蝕、月蝕、の暦を覚る故に、地民をその智覚を以て惑しぬ。例へば、天岩戸の神話の如し。当時、耶靡堆に既王国ありて、天孫日向王佐怒と称し、耶靡堆王阿毎氏を東征に起ぬと曰ふは、支那古伝の神話に等しかるべし、と天皇記は曰ふなり。(以下略)
 天正五年九月一日
  行丘邑高陣場住 北畠顕光」(丑寅日本史総解)

伊邪那岐と言う名前を分解すると伊の邪馬の那の岐(城)。伊邪那岐の岐は男性を表す接尾語で伊邪那美の美は女性を表す接尾語だから主要な音はイサナである。九州倭政権の倭は(い)と読む。長脛彦は長い州の根の場所。川沿いの中州の始まりの場所だとすれば、全国どこにでもありそうな名前である。「彦」は軍事将軍の官名だと思われる。

対馬に日本最古の阿麻氐留神社がある所を見れば、天孫降臨以前の天照らの居場所は対馬であったと考えられる。朝鮮半島から北九州一円に根を張った海洋族である。この対馬から博多湾岸に天下った。やがて九州全土を侵略したのであろう。この時の敗者である安日彦、長脛彦は陸戦に敗れて海流に乗って東日流に流れて行ったものか。東北地方の古代水田は今の所、紀元前400年頃のものが出土して居る。

おおよその時代区分 出土地域 出土物
縄文時代後期から晩期 青森県の風張遺跡 約2800年前と推定される米粒
縄文時代後期(約3500年前) 岡山県南溝手遺跡
同県 島岡大遺跡
土器内プラント・オパール
縄文時代晩期 宮崎県桑田遺跡 ジャポニカ種のプラント・オパール
縄文時代後期・末期(炭素年代測定で4000 - 2300年前) 宮崎県上ノ原遺跡 陸稲・イネ、オオムギ、アズキ、アワ
縄文時代晩期後半(紀元前9世紀) 福岡市板付遺跡 水田遺構
紀元前8世紀
 
高知平野
 
水田遺構
紀元前7世紀
 
山陰・瀬戸内
 
水田遺構
紀元前750〜550年頃 畿内の河内平野 水田遺構
紀元前4世紀 津軽・砂沢遺跡 水田遺構
紀元前3世紀 津軽・垂柳遺跡 水田遺構
紀元前3世紀 関東地方西部 水田遺構
高砂族と曰ふも、元来住みにける故地は、寧波と曰ふ支那仙霞嶺麓、銭塘河水戸沖杭州湾舟山諸島なる住民たりと曰ふ。
 筑紫の日向に猿田王一族と併せて勢をなして、全土を掌握せし手段は、日輪を彼の国とし、その国なる高天原寧波より仙霞の霊木を以て造りし舟にて、筑紫高千穂山に降臨せし天孫なりと自称しける。即ち、日輪の神なる子孫たりと。智覚を以て謀れるは、日蝕、月蝕、の暦を覚る故に、地民をその智覚を以て惑しぬ。例へば、天岩戸の神話の如し。
 当時、耶靡堆に既王国ありて、天孫日向王佐怒と称し、耶靡堆王阿毎氏を東征に起ぬと曰ふは、支那古伝の神話に等しかるべし、と天皇記は曰ふなり。(以下略)
 天正五年九月一日
  行丘邑高陣場住 北畠顕光」

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丑寅日本記 日本国古史正伝 稲作渡来

「狩猟漁労の定着生々より、農耕をなせる民族になりけるは、凡そ二千年前に志那より漂着せし郡公子一族の布教せるものなり。更には、山靻人の帰化定住にて金銀銅鉄の採鉱に技を修めたり。亦、既にして信仰を心に入れし民族にて、稲作をして民族併合し此の国を日本国とて国号せしは、古代丑寅の住民にして、荒覇吐王国を建国せるは2千五百年前のことなり。邪靡堆より阿毎氏の一族、西国に騒動あり、敗れてこの地に大挙落着し、民族を併せ、王宮ハララヤを築き国を治るの創めは二千年前の歴を明らかにせり。  文化2年十一月六日 秋田 孝季」

文化2年は1804年である。1804年時点での2500年前と言えば紀元前700年。これが荒覇吐神王国建国時期。それよりも500年遅れて郡公子一族が渡来。では郡公子一族渡来は紀元前200年となる。実際の水田の出土事実は紀元前4世紀だから200年のずれはあるが、古伝承としてはこの辺りが本当の所なのだろうか。出土事実からの今現在の歴史学では、稲作渡来の時期は紀元前923年,東北の稲作の始まりは紀元前4世紀の事である。

大阪府東大阪市にある 石切劔箭神社(いしきりつるぎやじんじゃ)は 長脛彦との関連があるのではないかと言われて居る。進藤治によると「石切さんは長髄彦と深いかかわりがある。」「石切さんには長髄彦がお祀りしてある。」等の口伝があるという 。進藤氏は「石切」の音を i-si-kir・i と分解しアイヌ語で解釈することで、「長髄彦」と訳出可能であると指摘して居る。同じ結論を大山元も指摘しており、「石切」 i-si-kiri はアイヌ語で「その・長い・彼の足」の意味になるという。