前6300~6400年頃
九州の南端海上の硫黄島(喜界島)が一大爆発を起こし、火山灰が西日本を覆う。鹿児島県は有明海付近を除き全滅。熊本県や大分県、宮崎県は準壊滅状態となり、無事に済んだ地域は北部九州(長崎県・福岡県)と北部中国地方(島根県など)であった。古事記・日本書紀に描かれている古代神話は、築紫と出雲中心。日本神話は、この大災害の後の時間帯に生まれたものである。
古事記・日本書紀のもっとも古い時代の神、伊弉諾・伊弉冉は淡路島・和歌山・三重を舞台としており、喜界島爆発以降の石器時代~縄文時代の神の形を現して居ると考えられる。伊弉諾の墓は淡路島にあり、伊弉冉の墓は和歌山県から三重県寄りの場所にある。
伊弉冉が死して行ったと言う黄泉の国とはどこか。「泉」は「泉州(大阪府)」である。「黄」は「紀州(和歌山県)」である。「紀州と泉州」和歌山県から大阪府にかけての地帯が黄泉の国なのである。日本書紀「第六・一書」の「飡泉之竈(よもつへぐい)」。この中の「飡 」とは何か。「さの」である。関西空港の側に「泉佐野」がある。「へぐい」とは料理の事。恐らく紀州と泉州の神々を天孫族の神々に集合した形だと見える。
前1042年~前1021年周の成王の時代
『論衡』
「周時天下太平 倭人來獻鬯草」(異虚篇第一八)
周の時、天下太平にして、倭人来たりて暢草を献ず
「成王時 越裳獻雉 倭人貢鬯」(恢国篇第五八)
成王の時、越裳は雉を献じ、倭人は暢草を貢ず
周が殷を滅ぼして新しい国づくりをやっと完成した成王の時₍紀元前1100年頃₎、遥かに遠い地域に居住する倭人と越常とがお祝いの品を持って来た。近いところの連中は、周をあんまりいい目で見てくれてなかったようだが、遠い日本やベトナムからは物を持って来た。
「海偶、日を出す、率俾せざるは罔し」 『尚書』の中で、会話に出た周公の言った言葉として状況が描かれている。 「遥かに海の向こうの、太陽の出る国からも、使節団が来た」と言う周公の喜びの言葉がそのまま書かれている。 この事は他の文献にも出て来る。
「周時天下太平 越裳獻白雉 倭人貢鬯草 食白雉服鬯草 不能除凶」(儒増篇第二六)
「周の時は天下太平、越裳は白雉を献じ、倭人は鬯草を貢す。白雉を食し鬯草を服用するも、凶を除くあたわず。」
成王は希少な白い雉を食べて珍しい鬯草を服用しても、その王朝は長くは続かなかった。と言う教訓と共に倭人は中国の歴史に出現する。縄文時代後期の事である。鬯草とは酒に入れて薬としたものと考えられ、ウコンではないかと言われている。
・燕は₍紀元前1100年頃 - 紀元前222年₎なのでその頃の文献『山海経』第十二「海内北経」
「蓋國在鉅燕南 倭北 倭屬燕」
「蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり。 倭は燕に属す。」
この蓋國 は現在の朝鮮半島北半分、平壌近辺と考えられてきた。燕 は現在の北京を中心とする国だった。鉅燕 はその東、遼東半島北辺部を指す。現在の渤海が鉅海と称されていたと言う。この文章に「海を渡って」とは書かれて居ない。この文章の倭とは、朝鮮半島南部を指す。この倭とは、朝鮮海峡の両岸、つまり韓国と九州にまたがる地域だ。海洋民族が海峡の両岸にまたがる居住地域を持つ事は自然である。黒曜石の鏃の分布は一方では光州、他方では下関近辺に及んでいる。また光州の大字・咸平、小字・草浦里にある遺跡で、三種の神器が出土し、咸平草浦里遺跡は紀元前二世紀の初めごろの遺跡だと言われている。
日本国内の出土物で三種の神器といえば、吉武高木遺跡が一番古くて、弥生中期初、紀元前100年と言われている。咸平草浦里遺跡の方が100年は早い(放射性炭素年代測定によらないので実は吉武高木遺跡の方が古い可能性あり)。出土分布図も朝鮮海峡の両岸にまたがっているのだ。倭人とは朝鮮海峡にまたがる両岸の地域に居住していた古代の海洋民の事なのである。
倭国はこの頃から燕を通じて中国に朝見していた。つまり中国の燕 に政治的に繋がっていたのだ。そうでなければ「倭は燕に属す。」とは記述されない。
・『山海経』海経第4巻 第9 海外東經
下有湯谷 湯谷上扶桑有燕十日所浴 在黑齒北 居水中 有大木 九日居下枝 一日居上枝
₍下に湯谷があり、湯谷の上に扶桑があり、10の太陽が水浴びをする。黒歯国の北であり、大木は水中にあり、9の太陽は下の枝に、1の太陽が上の枝にある₎
『山海経』海経巻9 第14 大荒東經
大荒之中 有山名曰孽搖頵羝 上有扶木 柱三百里 其葉如芥 有谷曰温源谷 湯谷上有扶木 一日方至 一日方出 皆載於烏
(大荒(辺境)の中に孽搖頵羝(げつよういんてい)という山があり、山の上に扶木がある。高さは300里(130m)、その葉はカラシナに似る。温源谷(= 湯谷 ?)という谷があり、湯谷の上に扶木がある。1つの太陽が来ると1つの太陽が出て行き、太陽はみな烏を載せている)
湯谷と言うのは関東、千葉県や、埼玉県、茨木県、神奈川県あたりだと古田武彦氏は比定しておられた。千葉、北関東の神社には沿海州ウリチ族の射日神事が残る。ウリチ族とは大陸のシベリアの彼方、黒竜江流域に住んで居た人々である。「日本書紀」「古事記」では「粛慎」と呼ばれている。
関東地方には3本足の烏が描かれた3つの太陽を射る神事を行う神社が数多くある。古代世界には複数の太陽が有り、それに投石、あるいは弓を射て1つの太陽にした、と言う神話をベースにした神事である。そうすると「大荒(辺境)の中に孽搖頵羝(げつよういんてい)という山 」・・・この山は現在の富士山の事と考えられる。扶桑とは何の木なのか不明だが、以外に現在の富士山に多い樹木かもしれない。豊富な温泉が関東にはある。
黒歯国とは南米チリやペルーの辺りの国だから、その北に当たると言う表現に関東地方はピッタリだ。
3本足の烏は太陽の精とされ、西王母の使者ともされている。よく八咫烏などと言うが、元々は粛慎の太陽信仰の神であった可能性が高い。扶桑国とは関東の王者の国の事であり、周の時代に中国の官吏が関東に遊んだ記録と読める。
もっとも、古代研究がもっと進んだ頃、古田武彦氏は、「扶桑国」とは九州王朝の美称であるとされた。
・紀元前1世紀頃『漢書』地理志燕地条
「然東夷天性柔順、異於三方之外、故孔子悼道不行、設浮於海、欲居九夷、有以也夫。樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云」
「然して東夷の天性柔順、三方の外に異なる。故に孔子、道の行われざるを悼み、設(も)し海に浮かばば、九夷に居らんと欲す。以(ゆゑ)有るかな。楽浪海中に倭人あり、 分ちて百余国と為し、 歳時をもつて来たりて献見すと云ふ。」
この文章は孔子が自国の不道徳を嘆く余り、中国王朝に従順で道徳に溢れる日本に渡りたいと言った、と言うことを述べている。楽浪海中の倭人は歳時をもつて来たりて献見すと云ふのに、なんたることなのか、私はいっそ倭人の住む国に行ってしまいたい、という孔子の嘆きである。
・『漢書』地理志呉地条
「會稽海外有東鯷人 分爲二十餘國 以歳時來獻見云」
「会稽海外に東鯷人あり、分ちて二十余国と為し、歳時をもつて来たりて献見すと云ふ。」
「鯷₍テイ₎」は大きなナマズの意味である。きっと大ナマズを持って朝見してきたのだろう。古田武彦氏はこの国を摂津の東奈良遺跡の王者、佐本比古、佐本姫、佐本城の有った王朝だとされている。崇神・垂仁に剋された地域を、銅鐸祭司圏の王者と読まれた。だが、私はこの国を銅鐸祭司圏の雄と見る事は出来ない。和田家文書では明確に荒神谷、加茂岩倉遺跡出土銅鐸廃棄を示唆しているのに,東鯷国についての記述が全く無いからだ。滋賀県大津市内の粟津貝₍粟津貝塚は4000年前から5000年前くらいに形成されたと考えられている。9千年以上も前のヒョウタンの種子や、ヒシやクリやコナラの果皮の破片も発見された。₎からギギからコイ、ナマズ、フナ、ワタカ、スッポンなどが出土した。この遺跡は粟津湖底遺跡と呼ばれることもあると言う。ここが原初「東鯷国」だと思う。琵琶湖南端部の瀬田川付近に見られる湖底の遺跡が東鯷国だと思うのだ。つまり,近畿には大した豪族は居なかった。所謂”天皇”と言うほどの存在は全く出現して居なかったと考えるのだ。和田家文書には「孝元は荒覇吐族」「崇神は韓から攻めて来た。」と書かれている。東奈良遺跡は「東鯷国」の進出した副都ではないかと思う。
「東鯷国」は「呉」に属していたと考えられ、「燕」「魏」傘下の倭国とは犬猿の仲で有ったと思われる。魏志倭人伝に出現する「狗奴国」はここだった。ここの男王「卑弥弓呼」との交戦の為に「魏」に援助を求めたと考えられる。銅鐸祭司圏VS三種の神器祭祀圏の激突である。この「東鯷国」は3世紀初頭に中国文献から姿を消す。それと同時に銅鐸は作られなくなる。
残存する7世紀成立の「国記」を以下に引用する。蘇我氏が編纂した、あの「国記」である。
「太古に耶靡堆大王あり、箸香の蘇我郷に君臨す。祖は阿毎氏とて、加賀の犀川三輪山郷の出たりと曰ふなり。箸香に移りきは、春日氏、大伴氏、和珥氏、土師氏、物部氏、羽田氏、巨勢氏、平群氏、葛城氏、中臣氏らこぞりて和泉、河内、耶馬臺の地に大王を以て一統の国司を治む明日香、河木野、河泉河にたむろせる豪族の一統を耶馬臺大王とて、耶靡堆大王を合議に決して迎へたるものなり。耶馬臺国とは摂津より明石、更に岸和田、更には山城、奈良の域に大王を以て一統せむは、各々地豪を以て治統の叶はざる故、以ての耶靡堆大王の迎入れたり。」国記より。
「大王宮を箸香山に置きてより、此の山を三輪山と稱したり。先づ大伴氏、物部氏、和珥氏、蘇我氏の大王併合と相なり、續きて羽田氏、巨勢氏、土師氏、平群氏の併合となるや、葛城氏、中臣氏の併合相成りて、是を耶馬臺国と盟約したり。」国記より。
「是を綴りたるは国記、天皇記にして、更に稲葉氏、高石氏、羽曳氏、百舌氏、高取氏、門眞氏、吹田氏、大山氏、伏見氏、木津氏、香芝氏、生室氏、名護氏等相加はりて、大王を即位せしめ、国を倭国と號したり。」国記より。
「凡そ支那年号の泰始己酉年にして、北魏の皇興三年の事なり。」国記より。
支那年号の泰始己酉年は469年己酉である。西暦469年に於いても近畿は阿毎氏を合議の上天皇に迎えた。蘇我氏が自らは滅亡させられながら死守した「国記」が、こう書いているのである。「各々地豪を以て治統の叶はざる故、以ての耶靡堆大王の迎入れたり。」と言うのは所謂「継体」の事かもしれない。加賀の犀川三輪山郷の阿毎氏が近畿の天皇となったと読める。
・紀元前649年 東日流で荒覇吐王国建国 「和田家文書」より
・紀元前192年 所謂「神武東征」日向族の佐奴が猿田彦王と共に、「攝津の国内なる竜王山」で国を建てる。「国記」より
・紀元前214年~前158年 対馬の阿麻氐留が、須玖岡本の王が亡くなった後の政治空白を利用して、孫の邇邇芸に博多湾岸を侵略させる。所謂天孫降臨である。博多湾岸、菜畑、板付の縄文集落を攻め落とす。鳥取市の青谷上寺地遺跡は名高い弥生の戦争遺跡である。その後、大国主の子の事代主を入水自殺に追い込み、支配領域を簒奪する。
「新撰姓氏禄」の史料批判により、九州王朝説では天孫降臨期を欠史8代の最終「孝元」の皇紀214年~158年としている。理由は孝元を祖とする氏族が他者よりもずば抜けて多く108氏族であり、弥生の出土事実とも整合し、「孝元」とされているのは実は邇邇芸の事では無いかと古田武彦氏も言われていたと言う事である。勿論、九州王朝説の研究者、古賀達也氏、三宅利喜男氏の論文による。
・紀元前20年 三国遺事 金閼智脱解王代条₍新羅建国以前₎
「春二月に、瓠公を馬韓に派遣して、外交関係を結ぼうとした。馬韓王が瓠公に『辰・卞二韓は、わが属国であったのが、近年には貢物も送らない。大国に仕える礼が、これで良いと思うのか』と言った。これに対して瓠公は『我国は二聖が国を建ててから人心が安定し、天の時が和して豊作となり、倉庫は満ち、民が互に敬い譲るので、辰韓の遺民から卞韓、楽浪、倭人に至る迄、恐れ、かつ、従わない者は無い。しかし、吾王は謙虚で、下臣を遣わして国交を結び交わそうとするのは、過ぎたる礼と言うべきでありますよ。それなのに、大王はかえって怒り、兵を似て脅かすのは、これはどういう事なの?』と言った。馬韓王はますます怒って瓠公を殺そうとしたが、左右の臣たちが諫めてやめさせ、許して帰した。これより先、中国人たちは秦国の乱に苦しみ、東方へ亡命してくる者が多かったが、かれらは馬韓の東に多く住み着いて、辰韓人たちと雑居していた。この時にかれらの数が多く、栄えたので、馬韓ではこれを忌み嫌って責めたものである。瓠公という人は、その族姓がつまびらかではないが、元は倭人で、はじめ瓠を腰につって海を渡って来たために瓠公と称した。」
瓠公は、新羅建国時の新羅の重臣である。瓠公は、多婆那國の出身だと言う事である。三国志の書かれた時代は一里75mであるから、この多婆那國は、博多湾岸から1里ならば現在の関門海峡付近にあった国であろうと考えられて居る。
・紀元前50年₍新羅本紀₎
「倭人達が兵を率いて辺境を侵そうとしたが、始祖に神徳があるということ聞いて、すぐに帰ってしまった。」
倭人は何がしたかったんだろうか。まったく意味不明である。「始祖に神徳」って一体何なんだ?
・西暦14年 倭人が兵船百余隻で海辺に侵入。三国史記(新羅本紀)
・西暦57年 九州王朝「倭奴國」成立。
・西暦57年『後漢書』東夷伝
「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」
建武中元二年(57年)、倭奴国、貢を奉じて朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武賜うに印綬を以てす。
・西暦57年 4代王「脱解尼師今(一云吐解)立。時年六十二。姓昔。妃阿孝夫人。脱解本多婆那國所生。其國在倭國東北一千里」脱解は多婆那国で生まれ、その国は倭国東北一千里にあり。三国史記(新羅本紀)
第4代新羅王、脱解尼師今₍だっかいにしきん₎は姓を「昔₍ソク₎」名を「脱解₍タルヘ₎と言う。元々は多婆那国の生まれである。と書いてある。多婆那国は今の関門海峡辺り、遠賀川流域から門司、小倉周辺だと考えられる。2千年も前の世界では、現在の様な国は存在しなかった。各民族ごとに、生活の場を持って居ただけである。当時の朝鮮半島と西日本、九州地方は同一文化圏にあったのであり、ほんのご近所だった。民族ごとの棲み分けや、呼び名は有ったが、明確な国家意識は希薄だったのだ。この頃は、韓国人とか日本人とか言う感覚は無く、往来は活発だったのである。
・西暦59年 夏の五月に倭国と修交し、使者を派遣し合った。三国史記(新羅本紀)
・西暦73年 倭人が木出島を侵して来たので、王は角干羽烏を派遣して、これを防がせたが、勝てずして羽烏が戦死した。
・西暦107年『後漢書』東夷伝
「安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」
安帝、永初元年(107年)倭国王帥升等、生口160人を献じ、請見を願う。
この時倭國王帥升は周の太白の末裔だと自ら語っている。太白の末裔が春秋戦国時代の呉王である。姓は姫(き)氏。この呉と同盟していた楚の王姓は熊氏である。おそらく楚系渡来人を「熊襲」と呼んだのではないだろうか。
・121年 夏四月に倭人が東の辺境を攻めた。三国史記(新羅本紀)
・123年 春三月に倭国と講和した。三国史記(新羅本紀)
・西暦106-125年『北史』倭国伝
安帝時、又遣使朝貢、謂之倭奴國
安帝の時(106-125年)また遣使が朝貢、これを「倭奴国」という
・西暦106-125年『隋書』倭国
安帝時、又遣使朝貢、謂之倭奴國
安帝の時(106-125年)また遣使が朝貢、これを「倭奴国」という
『旧唐書』倭国・日本国伝
倭國者、古倭奴國也。
倭国とは、古の「倭奴国」なり
・107年『後漢書』の安帝紀の永初元年
「冬十月,倭國遣使奉獻。辛酉,新城山泉水大出」
・125年₍延光4年₎の金石文を持つ銘板が博多湾に注ぐ室見川河口から出土。
金石文は「高暘左 王作永宮齊鬲 延光四年五」
意味は「高く日輪の輝く国。 倭王は宮殿と見事な宝物を収蔵した。これは125年の5月の事である。」107年の倭国王帥升の次代の王であろうか。
・158年 倭人が交際のために訪れた。三国史記(新羅本紀)
・173年 倭の女王卑弥呼が使わした使者が訪れた。(「(阿達羅尼師今)二十年夏五月。倭女王卑彌乎。遣使来聘」)三国史記(新羅本紀)
この頃に女王卑弥呼が使者を送るとすれば238年の魏への拝謁時期よりも60年も前の事となってしまう。古代中国人が「年すでに長大」と言う年齢は凡そ30代であると言うから、計算が合わなくなる。恐らく「後漢書・倭伝」の「桓・霊の間、大いに乱れ、更々相攻勢伐し、歴年主無し。一女子有り、名を卑弥呼と言う。…是に於いて共立して王と為す」桓帝(146~167年)と霊帝(168~187年)の間頃、倭国に大乱が勃発したと考える考古学者も多い。238ー(70~80年)=158年~168年頃となる。卑弥呼の遣使は238年₍景初2年₎、それに対して男王の在位期間は「とどまること7、80年(この当時は2倍年歴なので35年から40年間)」。これを范曄が「桓・霊の間(167~168年)」と書いたのを下敷きにして、三国史記の編者は倭国大乱の時期を「桓・霊の間(167~168年)」と誤解した上で、その直後の時期に卑弥呼の使者の記事を挿入したのだろうと思われる。
・193年 倭人が大飢饉となり千余人にも及ぶ避難民到来。三国史記(新羅本紀)
・208年 夏4月、倭人が国境を侵す。奈解王は将軍昔利音に反撃させた。三国史記(新羅本紀)
・232年 夏四月に倭人が金城を包囲。三国史記(新羅本紀)
・233年 五月 倭兵が東辺を攻めた。三国史記(新羅本紀)
・233年 助賁王の四年の七月に、倭人が侵攻して来たので、昔于老は、沙道でこれを迎え撃ち、風に乗じて火を放ち敵の戦艦を焼いた。敵は溺死してほとんど全滅した。三国史記(列伝)
・238年₍景初2年₎邪馬壹国の女王俾弥呼、帯方郡を通じて魏に使者を送り、「親魏倭王」の封号を与えられる。大夫の難升米と次使の都市牛利を帯方郡に派遣して天子に拝謁することを願い出た。帯方太守の劉夏は彼らを都に送り、使者は男の生口(奴隷)4人と女の生口6人、それに班布2匹2丈を献じた。12月、皇帝はこれを歓び、女王を親魏倭王と為し、金印紫綬を授け、銅鏡100枚を含む莫大な下賜品を与え、難升米を率善中郎将と為し、牛利を率善校尉と為した。この頃、対呉政策で吉野ケ里に軍事施設を創る。「魏志倭人伝」の著者陳寿は元々西晋朝の支管だったが、「魏→西晋」間は禅譲と言う権力交代で有ったから、俾弥呼の上表文は、当然、魏朝から西晋朝に受け継がれて分書庫に置かれていた筈である。恐らく邪馬壹は”やまい”と読んだのであろう。邪馬(やま)は山、宮殿のある高台で、壹は壱。魏朝に対する二心無き国、と言う意味だと言う。倭(い)国、九州倭政権は「いこく」と呼ばれた。
・239年₍景初3年₎明帝₍魏の皇帝₎が死去し、斉王が魏の皇帝となる。
・240年₍正始元年₎帯方太守弓遵が建中校尉梯儁らを詔書と印綬を持って倭国に派遣。倭王の位を仮授して下賜品を与えた。
・243年₍正始4年₎魏に使者として大夫伊聲耆、掖邪狗らを送り、奴隷と布を献上。斉王は掖邪狗らを率善中郎将と為した。
・245年₍正始6年₎斉王は、帯方郡を通じて難升米に黄幢を下賜するよう詔した。
₍しかし同年からの濊との戦いに続く韓との戦いで、太守弓遵が戦死。実行されなかった。₎
・247年₍正始8年₎帯方郡に新任者の王が着任する。女王俾弥呼は載斯烏越を使者として派遣。狗奴国との戦いを報告した。
邪馬壹国に帯方郡から塞曹掾史張政らが援軍として派遣される。女王俾弥呼、心労が祟ってか「俾弥呼以死」。俾弥呼の宗女壹與が後を継いで女王となる。女王壹與は、掖邪狗ら20人に張政らを都に送らせた。掖邪狗らはそのまま帝都に向かい男女の生口30人と白珠5000孔、青大句珠2枚、異文の雑錦20匹を斉王に貢いだ。つまり、獅子身中の虫だった狗奴国を滅亡させることに成功したのだ。233年から249年迄の16年間、邪馬壹国は国内の敵との抗争で、新羅を攻めるどころでは無かったのだ。その後、元気に新羅を攻めている所を見ると、国内的には安定期に入ったと考えられる。
卑弥呼が死去すると塚がつくられ、100人が殉葬された。その後男王を立てるが国中が服さず更に殺し合い1000余人が死んだ。と記載されているので案外「俾弥呼以死」は245年₍正始6年₎以降の詔の後くらいかもしれない。俾弥呼の墳墓は円形で小さかったと考えられ、現在迄の出土遺跡の中では、平原遺跡が俾弥呼の墳墓であると考えられる。夥しい数の銅鏡が出土したことは言うまでもない。
銚子塚古墳 ₍福岡県糸島郡二丈町 ₎からは黄金で張り詰めた後漢式鏡が出土している。金メッキされた鏡である。金メッキするのも技術が要る。その頃の日本人に金メッキする技術があるとは思えない。当然中国から技術者を呼んできて金メッキして貰った筈である。 原材料の金は何処から入手したのか。そこに塗られている金は何物か。その金は俾弥呼が中国皇帝から貰った金八両ではないか。 金八両は中国でも貴重品だし、現在でも貴重である。金は腐らないから必ず出土する。黄金の出土品が出たところが邪馬壹国である。放射性炭素年代測定法を使って測定すれば正確な年代が解るだろうが、三世紀になる可能性がある。年輪年代測定法でも大体百年ぐらい遡る。銚子塚古墳は西晋の滅亡の直前という時期の可能性がある。恐らく俾弥呼の子や孫の時代の古墳だろう。
・249年 夏四月に倭人が舒弗邯、昔于老を殺した。三国史記(新羅本紀)
・253年 倭国の使臣、葛那古が来朝して客館に滞在していた。昔于老はその接待の役に任ぜられた。彼は倭の使臣に戯れて「近いうちに汝の王を塩作りの奴隷にし、王妃を炊事婦にする」といった。倭王はこれを聞いて怒り、将軍の于道朱君を派遣して、わが国に攻めて来たので、大王はこれを防ごうと柚村に出て居た。昔于老は大王の所に行って「今度のこの患は、私が言葉を慎まなかったのが原因でありますので、私がその責に当ります」といって、ついに倭軍の所に行って「前日の言は、ただ冗談に言っただけである。どうしてそのような言を信じて、軍を起こしてこのように攻めてくるのか」といった。倭人はこれには答えないで、彼を捕まえて、積み柴の上において焼き殺してから去って行った。この時、昔于老の子は幼くして、能く歩くこともできなかったので、人が彼を抱いて馬に乗って帰ってきた。この子は後に訖解尼師今₍十六代王₎になった。未鄒王₍十三代王₎の代に倭国の大臣が来た時、昔于老の妻は国王に乞うて、家に倭国の使臣を招待して酒宴を設け、彼らが酒に酔うや、力の強いものに彼らを庭に引きおろし焼殺して、夫を焼殺された恨みをはらした。これに倭人は怒り、金城に攻めて来たが、勝てずして引き返した。三国史記(列伝)
・265年₍咸熙2年₎魏朝、西晋朝に権力移譲。西晋は呉を滅ぼして後漢後期以来100年間の3国時代を終わらせた。3国時代に、魏の天子となった曹操の子が文帝である。「曹家」は中国の名家の1つであり、中国では現在も3世紀の魏を「曹魏」と呼ぶ。俾弥呼が朝見した相手は、この曹魏の明帝、曹操の孫である。魏の歴史は短く、220年~265年、僅か45年間しか続かなかった。極東アジア世界は、大動乱期であったのである。
・266年₍泰初2年₎晋の武帝に女王壹與が朝見。新たな貢献先、西晋朝への挨拶が必要となった。また、新羅との交戦で国際社会に向けてのアナウンスが必要だと考えたのだろう。
・267年中国,西晋の泰始3 (267) 年武帝が公布し泰始律令成立。翌年頒行された
・280年₍呉の滅亡₎- 297年₍筆者陳寿の没年₎『三国志』魏書巻三十 烏丸鮮卑東夷伝 倭人条(いわゆる『魏志倭人伝』)
「倭人在帶方東南大海之中 依山島爲國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國」
倭人は帯方の東南の大海の中におり、山の多い島のうえに国や邑₍むら₎をつくっている。もとは百あまりの国があり、その中には漢の時代に朝見に来たものもあった。いまは使者や通訳が往来するのは三十国。と言う記述である。
東夷伝の韓伝冒頭にも倭という記載がある。
「韓在帶方之南 東西以海爲限 南與倭接 方可四千里」(『魏志』韓伝)
韓は帯方の南に在り。東西は海をもって限りとなし、南は倭と接する。方4千里ばかり。
つまり、韓と倭国は領地を接していた。朝鮮半島に倭国の一部分が有ったのだ。だから領地の境界問題で常に新羅と闘っていたのだ。もう既に、「魏志倭人伝」での考察で天孫降臨の地は須玖岡本遺跡で有り、邪馬壹国は博多湾岸であるとはっきりしているので、今更、「魏志倭人伝」の考察は避ける。俾弥呼の都は博多湾岸に有った。それは吉武高木遺跡₍吉武高木遺跡3号木棺墓は「日本最古の王墓」₎、須玖岡本遺跡、三雲遺跡、平原遺跡などいずれも博多湾岸である。
古事記に出現する「高木神」は間違いなく吉武高木の王者であるし、「少那彦名神」は須玖岡本遺跡の王者である。当然、邪馬壹国の女王はその皇統を引き継いだ博多湾岸の王者である。俾弥呼の宗女、壹與は「一與」であり、この後の時代に漢風名を名乗る倭の5王と同じく、「壹国」の「與」なのである。一体、どうしたら、近畿の豪族が新羅と日常的且つ恒常的に交戦し得るのか。朝鮮半島に領域を持ち、一衣帯水の地に皇統を総て居た者ではないと、任那、安羅を経営など及びもつかない。それが世界の常識では無いか。
・287年 夏四月に倭人が一礼部を襲う。1千人を捕虜にして立ち去った。三国史記(新羅本紀)
・289年 夏五月に、倭兵が攻めてくるということを聞いて、戦船を修理し、鎧と武器を修理した。三国史記(新羅本紀)
・292年 夏六月に倭兵が沙道城を攻め落とす。三国史記(新羅本紀)
・295年 春 王が臣下に向かって「倭人が、しばしばわが城邑を侵して来るので、百姓が安じて生活することが出来ない。私は百済と共に謀って、一時海を渡って行って、その国₍倭₎を討ちたいが、皆の意見はいかがか?」と聞いた。これに対して、舒弗邯、弘権が「われわれは海戦に不慣れでございます。冒険的な遠征をすれば、不測の危険があることを恐れます。いわんや百済は偽りが多く、常に我が国を呑み込もうと野心をもっておりますから、彼らと共に謀ることは困難だと思います」と答えた。王はこれを聞いて「それもそうだ」と言った。三国史記(新羅本紀)
・300年 春正月に、倭国と使者を派遣しあった。三国史記(新羅本紀)
・312年 春三月に、倭国の国王が使臣をつかわして、息子のために求婚したので、王は阿飡の急利の娘を倭国に送った。三国史記(新羅本紀)
阿飡と言うのは官位の一つで等級として6番目の役人の位。大臣の下の次官クラスだと考えられる。金海地区の金官伽耶・任那加羅、安羅₍咸安₎卓淳₍昌原₎には九州王朝が派遣した現地の官僚や軍人が常駐していたから、ここで言う「倭国の国王」とは、朝鮮半島に常駐した高官的な現地王だっただろう。これまでのところ全羅南道に11基、全羅北道に2基の前方後円墳が確認されている。金海の良洞里遺跡からは三種神器も出土している。日本側の記録が残って居ないことが残念である。
・316年 西晋の愍帝、前趙₍匈奴₎に滅ぼされる。愍帝は、僅か18歳の皇帝であった。一応建康に東晋朝が成立した。楽浪郡、帯方郡は形式上、東晋に属してはいたが、政治上・軍事上の空白を招き、亀裂を生じる事となった。所謂、東夷の地域は一大修羅場と化した。朝鮮半島、北九州激動の時代である。「魏志倭人伝」を書いた陳寿が297年₍元康7年₎に没しているから、陳寿の死後、19年後の出来事である。陳寿の子供達も恐らく国家滅亡の苦難に遭遇した事だろう。陳寿は邪馬壹国を実際に訪れ、その国土を見た。当然俾弥呼とも会っている。その近しい国の滅亡に、当時の関係諸国は驚愕したであろうし、格別の感想を抱いただろう。この316年の政変について、建前上、日本の支配者であった風を装っている近畿天皇家の公的歴史書である、古事記、日本書紀共に何らの記載も無い。この当時の極東アジア動乱期には、近畿天皇家など影も形も無かった。恐らく豪族ですら無かっただろう。
3世紀の「三国志」における「臺」は「天子とその直属官庁」の意味であった。至高の場所を指す言葉であり、使用例が限られていた。魏晋朝(西晋)では明らかに「臺」は一文字で天子の領域を示す漢字であった。しかし、三国期の前段階である漢の時代にはその至高性が失われて単に盛り土を言うようになった。それが次第に盛り土の上に建てられた宮殿の事を指す言葉となったのである。3世紀までの九州倭政権は邪馬壹国であり、それ以降5世紀までは邪馬臺国と呼ばれた。どちらも筑紫の王朝のことである。
・344年 倭国が使者をつかわして、婚姻を請うたが、すでに以前に女子を嫁がせたことがあるので断った。三国史記(新羅本紀)
312年の阿飡の急利の娘の結婚はあまり幸福なものでは無かったようである。何やら国交の不正常を感じる。
・345年 二月に倭王が、書を送って国交を断ってきた。三国史記(新羅本紀)
・346年 倭兵が風島に来て、進んで金城を包囲して攻めて来た。三国史記(新羅本紀)
・364年 倭兵が大挙して侵入してきた。倭人は多数をたのんで、そのまま直進して来る所を伏兵が起ってその不意を討つと、倭人は大いに敗れて逃走した。三国史記(新羅本紀)
・369年₍泰和4年₎倭王旨に百済の肖古王が七支刀を贈呈する。友情の証である。倭王旨は、恐らく壹與の曽孫世代だろう。俾弥呼の宗女、壹與は、266年₍泰初2年₎に生存が確認されるからだ。あの時から、103年が経っている。ところが近畿天皇家の歴史書である日本書紀には、この七支刀の事がなんとこの俾弥呼、壹與の時代だと勘違いされて記述されている。日本書紀の神功摂政49年条に百済系3資料₍「百済記」「百済本記」「百済新撰」₎からの切り貼りと思われる高句麗の好太王との激戦の記録がある。この記事には七支刀を贈呈する折に倭国を訪れた百済の久氐と同じく百済の肖古王₍在位346年~374年₎の記述がある。しかも神功52年の項に七支刀の贈呈記事が有る。つまり日本書紀を編纂した文官は、4世紀の出来事を3世紀の出来事として完全に錯覚しているのである。4世紀末の百済の肖古王が朝鮮半島内を共に激戦した同盟国である倭王に異形の黄金剣を作成して贈呈した。この歴史的な推移も経過も全く知らずに単に他国の資料から抜き書きして、あたかも近畿天皇家が日本列島の主権者で有ったかのように装っているのである。歴史を他から切り取ってきて自らの歴史に移植を図る、こんな事をしなければならないと言う事は、近畿天皇家には実は歴史は無いのである。自らに歴史があるのであれば、他から剽窃する必要は無いであろうから。
・369年₍泰和4年₎神功皇后49年(己巳249・実年369年)春三月に、荒田別・鹿我別を以て将軍とす。則ち久氐等と共に兵を勒₍ととの₎へて度りて、卓淳国₍とくじゅんこく₎に至りて、将に新羅を襲はむとす…(略)。
即ち木羅斤資・沙沙奴跪に命して、精兵を領ゐて、沙白・蓋盧₍かふろ₎と共に遣しつ。倶に卓淳に集ひて、新羅を撃ちて破りつ。因りて、比自㶱・南加羅・喙国・安羅・多羅・卓淳・加羅七国を平定₍ことむ₎く。仍ち兵を移して、西に廻りて古爰津に至り、南蛮の枕弥多礼を屠き、百済に賜ふ…(略)。
石上神社の七支刀銘文
(表)泰₍和₎四年(*己巳三六九)五月一六日丙午正陽造百練□七支刀出辟百兵宜供供₍侯₎王
(裏)先世以来未有此刀百濟(王)世□奇生聖音故為倭王旨造₍傳示後₎世
七支刀の贈呈は百済王から倭王への「七ヶ国平定」と領土確保のお礼である。比自㶱・南加羅・喙国・安羅・多羅・卓淳・加羅七国を平定して百済王の領土としてあげたから、それを記念して、7か国=七支の黄金刀を作って百済が倭王にプレゼントしたのである。筑後みやま市₍旧瀬高町太神₎のこうやの宮₍磯上物部神社₎に七支刀を持つ百済の官僚の人形が伝世している。倭王旨の和名は玉垂命と言った。玉垂命の369年の三瀦遷宮₍大善寺玉垂宮への遷都₎を祝す為に百済は刀を造り、七か国平定に因んで七支刀という特異な形状の黄金刀を倭王の為に作成した。そして新羅戦後の372年に遷宮式典が開催され、諸国からの参賀・朝貢の中で七支刀が贈られた。この式典を模してこうやの宮の人形が造られた。
・390年 新羅王第十七代、那密王即位三十六年に、倭王の使者が来朝して「わが王が大王の神聖であられることを聞いて、臣に百済の罪を大王にあげるようにといわれました。願わくば大王の王子お一人をつかわせて、わが君に誠意を御示しくださいませんか」と言った。そこで王は三男の美海を送った。美海の年は十歳で、言葉や動作も未熟であったので、内臣の朴娑覧を副使として付き添わせた。倭王は彼らを抑留し、三十年も帰さなかった。 三国遺事
390年は倭王旨₍玉垂命₎の没年である玉垂命の没年は応神元年₍270年・実年390年₎と合致する。
玉垂命には「九体の皇子」がいたという。
(1)斯礼賀志命神、(2)朝日豊盛命神、(3) 暮日豊盛命神、(4)渕志命神、(5)谿上命神、 (6)那男美命神、(7)坂本命神、(8)安子奇命神、(9)安楽応宝秘命神だ。
『高良社大祝旧記抜書』₍元禄15年成立₎によれば、長男斯礼賀志命は朝廷に臣として仕え、次男朝日豊盛命は高良山高牟礼で筑紫を守護し、その子孫が累代続くとある。
つまり、
九州王朝:玉垂命 ーー 長男斯礼賀志 ーー 次男朝日豊盛 ーー ₍この系統が継ぐ₎という系列だ。こうなると広開土王碑碑文に出現する倭王の和名は朝日豊盛、漢風名は倭王賛だと言う事になる。九州倭政権の女王、玉垂命の若き皇子、朝日豊盛₍倭王賛₎が好太王の好敵手であったのだ。
・391年₍辛卯年₎ 広開土王碑碑文より
「百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡海破百殘加羅新羅以為臣民」₍百済と新羅は高句麗属民で朝貢していた。しかし、倭が辛卯年₍391年₎に海を渡り百済・加羅・新羅を破り、臣民となした。₎
少なくとも高句麗から見た南朝鮮は、倭国の侵略を受け、倭国の臣民となされていたのだ。
この時代は、倭王旨から22年しか経過して居ない。倭王旨の息子、倭王讃は、391年に百済・加羅・新羅を侵略し、従属国にしたのだ。恐らく軍事の天才であったであろう。上表文から「倭王武」ばかりにスポットライトが当たりがちだが、倭王旨、倭王讃こそ、優れた武人だったと思われる。日本の大多数の歴史家は真実の歴史を知らない。
・393年 倭人が来て金城を包囲し、5日も解かなかった。三国史記(新羅本紀)
・397年 夏五月 阿莘王は倭国と友好関係を結び、の腆支を人質として倭に送った。太子三国史記(百済本紀)
百済との緊密な関係が偲ばれる。これ以降、運命の白村江₍663年₎迄、倭国と百済の濃密な兄弟関係が続くのである。
・402年 三月に倭国と通好して、奈勿王の子、未斯欣を人質として倭に送った。三国史記(新羅本紀)
・402年 壬寅の年に、倭国と和親を結ぶ時、倭王は奈勿王の子の未斯欣を人質として請うた。実聖王はかつて奈勿王が自分を高句麗へ人質として遣わした事を恨んでいたので、その恨みをその子で晴らそうと思っていた。それ故に、倭王の請いを拒まないで未斯欣を倭国に派遣した。三国史記(列伝)
この397年と402年の百済、新羅両国からの人質を要求した倭王は讃だろうと考えられる。
・402年 五月 使者を倭国に遣わして、大きな珠を求めた。三国史記(百済本紀)
402年、倭国は新羅からは皇子を人質に取り、百済には大きな珠、つまり大粒真珠を贈呈している。倭国と百済は互いに貴宝を贈りあう関係となって居たのだ。九州倭政権は太平洋にも派遣を伸ばして居た。この大粒真珠が、たとえコンク・パール₍バミューダ諸島からフロリダ州南部、西インド諸島、メキシコ湾を含むカリブ海産出。₎で有ったとしても、私は驚かない。匈奴に対する倭奴。九州倭政権は女王俾弥呼の時代から、裸國・黒齒國と言う中南米の国々をもその領有下に置いて居たと考えられて居るからだ。それほどの大国だと認識していたからこそ、中国は倭国に金印を与えていたのだ。金印は、それほど希少な下朝物である。誰にでも与えられた訳ではない。
・403年 春二月 倭国の使者が来たので、阿莘王は彼を迎えて慰労し、特に厚く遇した。三国史記(百済本紀)
・405年 腆支太子は倭国において阿莘王の訃報を聞き、哭泣しながら帰国する事を請うた。倭王は、兵士百名を伴わせて、護送した。三国史記(百済本紀)
・405年 倭兵が明活城を攻める。三国史記(新羅本紀)
腆支を百済に送り届けた倭軍は、そのまま現地の倭軍に合流し「阿莘王の弔い合戦じゃぁ」とばかりに新羅を攻めたのであろう。明活城も迷惑だっただろう。「儂らの王は百済王と仲良しやけん、ついでに新羅の明活城ば攻めてから帰国ばしよっとよ。」と言う声が聞こえて来そうである。
・407年 春三月 倭人が東辺を侵し、夏六月にまた南辺を攻める。三国史記(新羅本紀)
・408年 春二月、王は、倭人が対馬島に軍営を設置し、兵器・武具・資財・食糧を貯え、我が国を襲撃することを企てているとの情報を手に入れた。倭兵が出動する前に、精兵を選んで兵站を撃破しようと考えたが、舒弗邯の未斯品曰く「兵は凶器であり戦は危険な事です。ましてや大海を渡って他国を討伐し、万が一に勝つことができなければ、後で悔やんでも仕方ありません」王はこの意見に従った。三国史記(新羅本紀)
・413年₍義熙9年₎東晋の安帝に高句麗・倭国及び西南夷の銅頭大師が貢物を献じる。『晋書』安帝紀、『太平御覧』
東夷の高句麗と倭国が一緒に朝見したとすれば、倭王讃が新羅との交戦で高句麗と一時的に同盟したらしく思われる。しかし、そのすぐ後に西南夷が続けて記述されているので、413年に高句麗と倭国と西南夷が貢献して来たと言うだけの記述だろう。東晋の安帝は劉裕に殺され、滅亡は420年である。その後は劉裕が形式上権利を禅譲され、宗朝を建国する。
・418年 夏 使者を倭国につかわし、白絹を十反を送った。 三国史記(百済本紀)
・418年 高句麗への人質(卜好)が堤上奈麻と共に帰った。倭国への人質(未斯欣)が逃げ帰った。三国史記(新羅本紀)
・421年₍永初2年₎発足したばかりの宗に倭王讃が朝見する。『宋書』夷蛮伝
倭王讃が朝見した相手は、中国南北朝時代の南朝、劉宋である。倭王讃は、劉宋の冊封体制の旗下の将軍となる事を望んだ。劉宋劉宋の劉宋の劉宋の初代王、武帝から除授の詔をうける。「安東将軍倭国王」となされる。安東将軍とは中国の3国時代からの将軍の官位である。
・425年₍元嘉2年₎司馬の曹達を遣わし、宋の文帝に貢物を献ずる。(『宋書』夷蛮伝)
倭王讃には司馬の官が居たのである。朝鮮半島を戦場として駆け巡って居たのだから当然と言える。しかし「曹達」とは。魏の天子曹操と同じく曹家の出であると思われる。316年₍建興4年₎の西晋の滅亡時期に、曹家の一員が倭国に亡命していたのだろう。朝鮮半島の楽浪郡、帯方郡などに居た曹家の一員だったとすれば、西晋の滅亡を受けて倭国に亡命したとしても不思議はない。倭の5王の王朝には「司馬の官」が有った。日本書紀、古事記には「司馬の官」など一切登場しない。こんな官僚名は出現せず、「臣」とか「連」とかばかりが出て来るのだ。倭の5王を近畿天皇家だと考えるとか、ナンセンスの極みである。
・428年 倭国からの使者が来たが、随行者が五十名であった。三国史記(百済本紀)
・430年₍元嘉7年₎1月、宋に使いを遣わし、貢物を献ずる。(『宋書』文帝紀)
・431年 倭兵が、東の辺境に攻めて来て、明活城を包囲したが、功なくして退いた。三国史記(新羅本紀)
・438年₍元嘉15年₎
これより先₍後の意味以下同₎、倭王讃没し、弟珍立つ。この年、宋に朝献し、自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」と称し、正式の任命を求める。『宋書』夷蛮伝
4月、宋文帝、珍を「安東将軍倭国王」とする。 『宋書』文帝紀
珍はまた、倭隋ら13人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍にされんことを求め、許される。『宋書』夷蛮伝
・440年 倭人が、南の辺境に侵入。夏六月にまた東の辺境を攻める。三国史記(新羅本紀)
・443年₍元嘉20年₎倭国王済、宋・文帝に朝献して、「安東将軍倭国王」とされる。『宋書』夷蛮伝
珍と済の続柄は書かれていない。父子、兄弟と言う関係では無かったのだろう。
・444年 夏四月に、倭兵が金城を十日包囲して、食料が尽きて帰った。三国史記(新羅本紀)
・451年₍元嘉28年₎、倭王済、宋朝・文帝から「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」を加号される。
安東将軍はもとのまま。『宋書』倭国伝
7月、「安東大将軍」に進号する。『宋書』文帝紀
また、倭王済と共に朝見した23人も宋朝から将軍号・郡太守号を与えられる。『宋書』夷蛮伝
・459年 夏四月に、倭人が兵船百余隻を以って東辺を襲い、月城を囲んで進撃したが、追撃してこれを破る。三国史記(新羅本紀)
・460年₍大明4年₎倭王済、12月、孝武帝へ遣使して貢物を献ずる。
・462年₍大明6年₎3月、宋・孝武帝、済の世子の興を「安東将軍倭国王」とする。『宋書』孝武帝紀、倭国伝
・462年 夏五月に、倭人が活開城を襲い破り、一千名を捕らえて連れ去った。三国史記(新羅本紀)
・463年 倭人が歃良城(梁山市)を攻めるも勝てずして去った。三国史記(新羅本紀)
・476年 倭人が東辺を攻める。三国史記(新羅本紀)
・477年 倭人が兵をあげて五道に侵入したが、ついに何の功もなく帰った。三国史記(新羅本紀)
・477年₍昇明1年₎11月、遣使して貢物を献ずる。『宋書』順帝紀
これより先、興没して弟の武立つ。武は自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王」と称する。『宋書』夷蛮伝
・478年₍昇明2年₎上表して、自ら「開府儀同三司」と称し、叙正を求める。順帝、武を「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」とする。『宋書』順帝紀
・479年₍建元1年₎南斉の高帝、王朝樹立に伴い、倭王の武を「鎮東大将軍」(征東将軍)に進号。『南斉書』倭国伝
・482年 五月に倭人が辺境を攻める。三国史記(新羅本紀)
・486年 夏四月に倭人が辺境を攻める。三国史記(新羅本紀)
・500年 春三月 倭人が長峯鎮を攻め陥した。三国史記(新羅本紀)
・502年₍天監1年₎4月、梁の武帝、王朝樹立に伴い、倭王武を「征東大将軍」に進号する。『梁書』武帝紀
478年の倭王武の朝貢は自らの即位挨拶の為である。479年と502年の記録はそれぞれ南斉・梁の建国時₍479年・502年₎のもので、将軍号が授与されているのは倭国が新王朝に祝賀の朝貢をしたからだろう。当時の周辺諸国は新王朝の誕生に素早い動きをしている。478年₍昇明2年₎5月の倭王武の上表文は端麗な中国語で書かれており、5世紀時点の倭の王者自身が語った倭王朝の歴史が端的に語られている。この翌年の479年4月に宗王朝は滅亡している。倭王武は479年にも新王朝に朝貢して祝賀の挨拶を述べたであろう。しかし、この時、倭王武は中国南朝の権威が落ちてきているのを感じただろう。鶴峯 戊申の「襲国偽僣考」によれば継体16年壬寅、梁の普通3年(522年)に「善記」と言う年号を立てている。
「封国₍中国から倭王の任命を受けて来た我が国₎は偏遠にして藩₍地方を鎮めて天子の守りとなる国₎を外に作る。昔より祖禰躬(みずか)ら甲冑をつらぬき、山川を跋歩し、寧処(安心して生活する)に遑(いとま)もありませんでした。東は毛人を征すること55国、西は衆夷を服すること66国、渡りて海北₍朝鮮半島₎を平らげること95国。(中略)代々に渡って天子に拝謁し、朝貢の歳を違える事はありませんでした。臣下である私は、愚なれども忝(かたじけなく)も先祖の偉業を受け胤(つ)ぎ、馬を駆って統一した国々を率い、…自然の大道に帰し、(南朝の天子を中心とする秩序に従って来ました。)、道は遥か百済の彼方に連なり武装して軍船を整えてまいりました。₍朝鮮半島への出兵の用意を整えて来た。₎…私をどうか開府儀同三司₍「府」を開く特権を得た者の称号₎の任の者と見做し、私以外の者にも位や称号を与え、それによって、中国の天子に、忠節を勧むことにしております。」
・508年₍天監7年₎高句麗「「高驪王樂浪郡公雲,乃誠款著,貢驛相尋,宜隆秩命,式弘朝典。可撫東大將軍、開府儀同三司,持節、常侍、都督、王並如故」」
・521年₍普通2年₎百済の餘隆₍武寧王 在位502-523年₎
「行都督百濟諸軍事、鎮東大將軍、百濟王餘隆,守籓海外,遠脩貢職,乃誠款到,朕有嘉焉。宜率舊章,授茲榮命。可使持節、都督百濟諸軍事、寧東大將軍、百濟王」に進号する。
倭王武の時代の中国の王朝は宋、斉、梁と目まぐるしく交代した。倭王武は南斉(502年に滅亡)になって、中国への貢献を止めたと見られる。確実に倭王武は中国王朝への気持ちを無くしたのである。中国南朝の陳は589年には北朝系の隋に滅ぼされている。
倭王武の朝貢(478年)以降は、倭国は中国の史書から消える。倭王は自ら天子となり、年号を建て、日本列島と朝鮮半島南部を納める事にした。倭王武は中国王朝から独立したのである。それは522年善紀建元の年である。倭王武の元号である善紀は525年に終わって居る。倭王武は478年に即位し522年に死去している。47年間の在位である。
・503年人物画像鏡を百済の武寧王が倭王武の弟、年に贈呈している。
金石文は「癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長泰遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟」
要約すれば、癸未₍503年₎の年八月 日十大王、年、男弟王₍弟₎が意柴沙加₍いしさか₎の宮におられる時、斯麻₍武寧王₎が長泰を念じて開中費直₍かわちのあたい₎、穢人₍漢人₎今州利の二人らを遣わして白上同₍真新しい上質の銅₎二百旱をもってこの鏡を作る。となる。
九州倭政権は俾弥呼の時代から実務は弟が摂り、姉が神に仕える兄弟統治である。石坂と言う小字地名は太宰府の近辺に有る。人物画像鏡は現在和歌山県橋本市の隅田神社に保存されている。恐らく日十大王、年は倭王武の弟なのである。