亀ヶ岡式文化は、今から約3000年ほど前に始まり、紀元前3-4世紀に終末を迎えた。
あの印象的な遮光器土偶が列島各地に広がって分布していたのだ。東北から北海道南部、関東・中部地方、更に近畿地方まで広がりがある。
和田家文書ではこの土偶を荒覇吐神の似姿だとしている。紀元前3-4世紀迄列島を席巻していたこの祭祀土器は土器文明の華だろう。時代は次第に土器の時代から青銅器の時代へ移り変わって行った。その中で遮光器土偶に代わって作られるようになったのが銅鐸であったと思われる。
「丑寅日本史総解」“荒覇吐要源抄”
「日本国之国、坂東より丑寅を曰ふ。
人跡十万年乃至十五万年の古歴に在りて、古来よりアラハバキイシカホリガコカムイを信仰す。国土、国民、能く治まりて、七族併合し、亦、信仰も一統にして、更に西南へ皆、人相捗りぬ。依て、坂東より西を倭国と称し、その国主ぞ耶靡堆王阿毎氏とせり。
今より二千五百年前に、支那玄武方より稲作渡来して、東日流及び筑紫にその実耕を相果したりきも、筑紫にては、南藩民、航着し、筑紫を掌握せり。
天皇記に曰く一行に記述ありきは、高天原とは、雲を抜ける大高峯の神山を国土とし、神なるは日輪を崇し、日蝕、月蝕、既覚の民族にして、大麻を衣とし、薬とせし民にして、南藩諸島に住分せし民族なり。
高砂族と曰ふも、元来住みにける故地は、寧波と曰ふ支那仙霞嶺麓、銭塘河水戸沖杭州湾舟山諸島なる住民たりと曰ふ。
筑紫の日向に猿田王一族と併せて勢をなして、全土を掌握せし手段は、日輪を彼の国とし、その国なる高天原寧波より仙霞の霊木を以て造りし舟にて、筑紫高千穂山に降臨せし天孫なりと自称しける。即ち、日輪の神なる子孫たりと。智覚を以て謀れるは、日蝕、月蝕、の暦を覚る故に、地民をその智覚を以て惑しぬ。例へば、天岩戸の神話の如し。
当時、耶靡堆に既王国ありて、天孫日向王佐怒と称し、耶靡堆王阿毎氏を東征に起ぬと曰ふは、支那古伝の神話に等しかるべし、と天皇記は曰ふなり。(以下略)
天正五年九月一日
行丘邑高陣場住 北畠顕光」
と和田家文書にはあり、耶靡堆国の日向王佐怒によって安日彦、長髄彦兄弟は東日流に追われたと言う。
「丑寅日本記 第八」“安倍抄記之序”
第一章に曰く。
筑紫王たる猿田彦王、是なる流民族長佐怒王に自国を献じて、民を併せしに、その東征ぞ破竹の勢にして、豊の国を略し、遂にして赤間の速水峡を渡りて山陽、山陰、の国を略しむ。内海、南海道、を併せし間、七年にして、遂には西海王たる出雲王を併せて、国ゆづりの議、成りて耶靡堆国を攻め、浪速の戦に始まりて、地王の阿毎氏安日彦王、その舎弟長髓彦王らを東国に逐電せしめたりと曰ふ。
流民族長佐怒王が筑紫王たる猿田彦王と共に豊の国、山陽、山陰、の国を攻略し、遂には西海王たる出雲王をも併呑したとある。出雲王は別名「西海王」と称されていたのだろう。
出雲風土記中の「国引き神話」については故古田武彦氏が古代出雲の渡来範囲、生活圏を分析しておられた。
①志羅紀の三崎₍新羅₎
②北門の佐伎の国₍北朝鮮、ムスタン岬₎
③北門の良波の国₍ロシア、ウラジオストック₎
④高志の都都の三崎₍越₎
出雲の隠岐の島もウラジオストックも豊かな黒曜石の産地である。
「故、其の大年神、神活須毘神の娘、伊怒比売を娶りて生む子。大国御魂神。次に韓神。次に曾富理神。次に白日神。次に聖神。」
神代記、大国主神、大年神の神裔
「日向の襲の高千穂の添山の峰。添山、此れを曾褒里能耶麻と云う。」
神代記、第九段、第六、一書。天孫国臨。
曾富理神は添山だという。
大国御魂神は大国₍出雲₎。
韓神は釜山周辺の加羅を中心とする地域。
白日神は筑紫のまたの名。白日別のこと。須玖岡本遺跡のそばに白木原がある。原₍ばる₎は平原。木は城₍き₎。
聖神が日₍白木原₎の後ろの地域。日の後の地域だ。日尻だろう。白木原の南の地域、太宰府から久留米辺りの地域だろう。
大国₍出雲₎と北の加羅国、南の博多湾岸とその周辺に覇を唱えていた。これが出雲初現の神、須佐乃男の最初の勢力範囲ではなかろうか。つまり朝鮮半島の南端の地域と、北九州から山口県、島根県迄の範囲が須佐乃男の版図だった。