日本書紀は外国文書と他王朝歴史のコピペで出来ています。近畿にあたかも古代からの王朝が有ったと歴史を捏造する必要があったからです。その必要とは過去も現在(7世紀初頭)も唐王朝に逆らわない従順な国であった事を示す必要です。7世紀初頭に書かれた国定教科書(日本書紀)には唐王朝の利害が多分に含まれ、文書は見事な漢文で記述されて居ます。白村江で唐・新羅連合軍と闘った国は無かったし、こともあろうに中国王朝に「日出処の天子」を名乗り文書を送る様な不届きな国は無かったのだと示す必要があったのです。
と言う訳でコピペ日本書紀の実録。
西暦 | 海外 資料 |
海外文書 記述年 |
日本書紀記述年 | 内容 |
240年 | 魏志倭人伝 | 正始元年 | 神功紀40年 | 建忠校尉梯携らを遣わして、詔書や印綬をもたせ、 倭国に行かせた。 |
243年 | 魏志倭人伝 | 正始4年 | 神功紀43年 | 倭王はまた、使者の大夫の伊声者掖耶ら八人を遣わして、 献上品を届けた。 |
375年 | 三國史記 | 肖古王没年 | 神功紀55年(255年) | 百済の肖古王が薨じた。 |
266年 | 魏志倭人伝 | 泰始2年 | 神功紀66年(266年) | 倭の女王が何度も通訳を重ねて、貢献したと記している。 |
369年 (480年 説もある) |
七支刀金石文 | 泰和4年 | 神功紀52年(252年) | 久氐らは千熊長彦に従ってやってきた。七枝刀を一口、 七子鏡を一面、および種々の重宝を奉った。 |
385年 | 三國史記 | 枕流薨・辰斯立 | 神功紀64年(265年) | 百済の枕流王が薨じた。 王子の阿花が年若く、叔父の辰斯が位を奪って王となった。 |
「百済の肖古王が薨じた。」記事は実際の年代375年から丁度120年の開きがある。 「百済の枕流王が薨じた。」 記事も実際年代385年から丁度120年間の開きがある。日本書紀は西暦240年から385年までの145年間を何とか埋めようとしていたらしい。
西暦 | 海外 資料 |
海外資料記述年 | 日本書紀 記述年 |
内容 |
455年 | 百済新撰 | 455年 | 雄略二年(458年) | 己巳年に蓋歯王立つ。天皇阿禮奴跪を遣して、 來りて女郎を索はしむ。 百済、慕尼夫人の女を荘飾らしめて、 適稽女郎と曰ふ。 天皇に貢進るといふ。 |
455年 | 百済新撰 | 455年 | 允恭18年 (429年) |
蓋歯王立 |
百済新撰の455年記事と雄略紀とは3年間ズレている。さらに同じ「蓋歯王立」記事がいいように分けて雄略二年(458年)と允恭18年(429年)
に記載されて居る。455+3=458。455-429=26。允恭~雄略までの間で26年間の引き延ばしが図られて居る。
百済の肖古王が薨じた。(375年記事)を神功紀(255年)に置いて375-255=120年間の引き延ばし,蓋歯王立(455年記事)を允恭18年(429年)に置いて26年引き延ばし、120+26年で146年間。所謂「河内王朝」とやらが存在したと言う時代すべてにまたがる年間が、すっぽりと入る時間帯です。河内王朝なんて実は…無かったんじゃないの❓
と言う訳で「続『日本書紀』成書過程の検証編年と外交記事の造作」三宅利喜男氏論文にリンクを貼ります。
https://www.furutasigaku.jp/jfuruta/simin16/syokim16.html