パレスチナ問題とアメリカの功罪

パレスチナ問題とアメリカの功罪

いわゆるパレスチナ問題は、宗教上の対立から生まれてきた問題ではなく、中東を舞台とした帝国主義や覇権主義争いによって引き起こされた問題である。

今世紀はじめ、イギリス、フランス、ロシアがオスマン・トルコ帝国を倒してその広大な領土を分割し、植民地にしようと画策した。現在のパレスチナ問題といわれるものはイギリス帝国主義の中東への侵略とパレスチナに対する植民地支配に端を発している。 

イギリス帝国主義は第一次世界大戦で、それまで中東を支配していたオスマン・トルコを倒して中東の支配に乗り出すため、中東の戦後処理について内容の矛盾する2つの約束を結んだのである。

1つは、アラブ人の協力を得るためメッカの太守フセイン(現在ヨルダン国王フセインの曽祖父)に「イギリスはメッカの太守によって要求された境界内のすべての地域においてアラブ人の独立を承認し、指示する用意がある。」と明言し、パレスチナを含む中東一帯での将来の独立を許すという約束を与えたこと。

もう1つは、シオニストの代表者たちに1917年バルフォア外相が次のような約束をしたこと。「英国政府はパレスチナ内にユダヤ人の民族的祖国を設置することに賛成し、この目的の達成を容易ならしめるために最善の努力を払うであろう。パレスチナに現存する非ユダヤ人社会の市民および宗教的権利、あるいはほかの諸国においてユダヤ人の享受する権利および政治的権利を損なういかなることもこれを行わないということである。」

この約束は「バルフォア宣言」といわれ、こうしてイギリス帝国主義はユダヤ人とパレスチナ人の2つの民族に対してパレスチナという1つの領土を与えるという約束をして支配に利用したわけである。

1919年に第一次世界大戦が終結し、1920年に結成された国際連盟の下現在のシリア、レバノンはフランスの委任統治領に、イスラエルとヨルダン、イラクはイギリスの委任統治領となった。

パレスチナがイギリスの委任統治領となったことで、バルフォア宣言に沿って、ユダヤ人のパレスチナ移住が進み、ナチスのユダヤ人迫害もあってこの時期、移住が本格化した。

パレスチナ・アラブ人にとっては、イギリスの裏切りとユダヤ人の入植によって自分達の生存権が脅かされ、イギリス、ユダヤ人に対する怒りが高まって行った。アラブ人とユダヤ人の衝突が激しくなり、対立のあまりの激しさにイギリスの統治政策はことごとく失敗し、第二次世界大戦後、出来たばかりの国際連合に問題の解決を預ける結果となった。

国連は1947年11月の総会で、パレスチナをユダヤ人国家、アラブ人国家、エルサレム国連管理都市の3つに分けると言う分割案を決議した(決議181)。

この分割決議は、パレスチナ人の参加しない国連の場で性急に決議され、内容も、人口で3分の1弱、土地所有面積6%弱のユダヤ人に57%の土地を与えると言う不公平な点があった。しかし、パレスチナに住んで居る2つの民族の自決権を認めると言う積極的なものであった。

分割案は採決の結果、アメリカ、ソ連など賛成33、アラブなどの反対13、棄権10で採択された。

アメリカは国内のユダヤ人の関係もあり、パレスチナ分割案の決議を採択させるために猛烈な動きをしたと言われている。イギリスの中東問題専門家、デービット・ギルモアは「パレスチナ人の運命を決定したのは、国連全体では無く、国連の一メンバーに過ぎないアメリカだった」と指摘して居る。

アメリカは決議採択のために反対を表明していた加盟国に対して政治的、経済的圧力をかけた。その結果、ハイチ、リベリア、フィリピンは一夜にして賛成に、中国、エチオピアは棄権に回った。アメリカの狙いは、新しくできるユダヤ人国家に依拠して中東での影響力を拡大することにあった、と指摘されている。

ソ連が賛成した理由について、ソ連はイギリスを中東から排除してゆくことを狙い、そのためにはユダヤ人国家の創設が利益になると考えた事、対米関係悪化を望まなかったことなどが指摘されている。

シオニズム運動にとってパレスチナ分割決議は大きな勝利であった。イスラエルは1948年5月14日、分割案でのアラブ側との合意のないまま一方的に建国を宣言した。アメリカは真っ先にイスラエルを承認し、ソ連も承認した。

アラブ側には当時、イスラエルの民族自決権をいっさい認めようとしない議論があり、パレスチナの分割案には猛反発した。

イスラエルが交渉する態度を放棄して一方的に建国に走ったことは、大国が自分の利害から対立を煽っているもとで、パレスチナ人とユダヤ人が合意して解決するには困難が有ったとしても、公正な解決を一層遅らせ、かつ問題を複雑にしてしまったと言える。

イスラエル建国に反対するアラブ諸国がイスラエルの建国宣言の翌日から開始したイスラエルへの総攻撃(第一次中東戦争)から始まって、4次にわたる中東戦争があった。

中東戦争を闘ったアラブ側の心情に付いては次のような分析もある。

「アラブ側から見れば、ナチスによるユダヤ人の迫害はあくまでも欧州のキリスト教社会の問題である。にもかかわらず欧米諸国はユダヤ人国家をパレスチナにつくる事に成功した。いわばユダヤ人問題の解決のために欧州が自分達に新たな犠牲を強要したと映るのである。その意味で、イスラエルはアラブ世界に突き刺さった異物である。その異物を取り除こうと、アラブはイスラエルに対して何回も戦争を挑んだ。」(「日経」90年10月2日付)

第一次中東戦争は、1948年、エジプト、シリア、レバノン、トランス・ヨルダン、イラクなどのアラブ側からイスラエルへの攻撃で始まったが、1949年イラクを除くアラブ諸国とイスラエルは休戦協定を結んだ。この戦争でイスラエルはパレスチナ全土の3分の2へと領土を拡大した。その結果、75万~100万人と言うパレスチナ人が難民となった。その後の戦争なども有って1988年には、パレスチナ人難民は国連調査で230万人を超えている。

第二次中東戦争は、1956年のエジプトのスエズ運河国有化宣言を機に、イスラエルがガザ地区とシナイ半島へ、英仏軍がエジプトへ攻撃を開始した戦争である。イスラエルは国の安全のためにシナイ半島の占領が必要だと考え、英仏はスエズ運河国有化宣言を許さず、アラブの団結を掲げるナセル大統領を倒すために出撃したと言われる。米ソがそれぞれの思惑から介入し、イスラエル、英、仏3軍は撤退した。

第三次中東戦争は、1967年、エジプトが紅海とアカバ湾を結ぶチラン海峡の封鎖を宣言した事に対して、イスラエルがただちにエジプト、シリアを攻撃、6日間でイスラエルは、パレスチナ全域を支配下に置き、更にシリア領ゴラン高原、エジプト領シナイ半島も占領した。6日間でイスラエルの占領地は4倍となった。

第四次中東戦争は、1973年、エジプト、シリアのイスラエルへの攻撃で始まった。しかし、アメリカに支援をうけたイスラエルはしだいに反撃し、開戦から17日目の国連安保理決議338の停戦決議の受諾で停戦となった。

こうした4回にも渡る戦争が行われたが、問題は解決されて居ない。それどころか、イスラエルはアメリカなどの支援に支えられて領土を拡大し、今日でも、国連決議でアラブに割り当てられた地域であるヨルダン川西岸、ガザ地区やシリア領のゴラン高原を不当に占領し続けている。

対するパレスチナ人の闘いは非常に困難な状況から出発した。それは、闘争を進める大衆的な組織が存在しなかった事、指導の中心部をパレスチナに古くからある家父長的な有力者に占有されていたと言う事等で本格的な運動の組織が出来なかったからである。また、イスラエル建国後、中東戦争を経て、多くのパレスチナ人が難民として土地を追われた事もあって、主体的に運動を組織する上では、さらに困難な状況になった。

1950年代後半になって、ようやく難民キャンプやイスラエル支配下のなかでも組織が結成されるようになり、「ファタハ」とアラブ民族主義運動(ANM)の結成が、パレスチナ解放運動の組織的な出発点になった。

1950年代末、カイロ大学で学んだパレスチナ人の若者を中心に、パレスチナの解放を目標にしたひとつの組織が結成された。現在のPLO(パレスチナ解放機構)内最大の組織「ファタハ」である。この「ファタハ」の主張は、パレスチナの解放は第一にパレスチナ人の課題である、アラブ諸国に委ねてはならない、イスラエルとの闘いはパレスチナ人が主導権を持つ、等と言うものであった。

同じ1950年代にアラブ民族主義運動(ANM)が産まれた。そのスローガンは「アラブの統一、パレスチナの解放、シオニスト国家への報復」というもので、「ファタハ」の路線とは対照的であった。その後さまざまなゲリラ組織が結成されて行った。

PLOは、1964年に結成され、さまざまな経過はあったものの、1974年10月のアラブ首長会議以降、「パレスチナ人の唯一正当な代表」として認められるようになった。PLOの立場は、その綱領的文書であるパレスチナ国民憲章で明確にされている。主な天は次のようなものである。

第一条 パレスチナはパレスチナ・アラブ人民の祖国である。

第二条 パレスチナは、イギリスの委任統治中に保有した境界を国教とする不可分の領土的単位である。

第九条 武装闘争はパレスチナを解放するための唯一の方法である。

第十九条 1947年のパレスチナの分割とイスラエル国家の樹立は、ときの経過に関わりなく、まったく不法なものである。(略)

パレスチナ人の民族自決権を主張しながらも、元々複数の政治勢力の集合体であるPLOの内部には、テロ行為をエスカレートさせ、なんの責任もない無辜の市民への残虐な行為を行うようなグループも出てきた。

例えば、1972年9月のミュンヘン・オリンピックのさい、「ブラック・セプテンバー(黒い9月)」を名乗るPLO主流派「ファタハ」のメンバーで結成した一グループがイスラエル選手村を襲撃し、選手9人を含む多数の犠牲者を出した。1978年にはイスラエルの首都テルアビブの郊外で、PLOの一突撃隊が旅客バス2台を襲撃し、多数の乗客が死傷した。犠牲者の中には婦女子も含まれていた。また、1985年には、PLO内のパレスチナ解放戦線(PLF)によって、地中海でイタリア客船「アレキ・ラウロ号」がシージャックされ、ユダヤ系アメリカ人乗客が海に突き落とされる事件などが起きている。

しかし、そうしたテロ行為が、問題の解決を一層遅らせただけでなく、PLOの組織的行動とされ、当時PLOの本部があったレバノンへのイスラエルによる大規模な攻撃、侵略を正当化する口実として利用された事は明らかである。

PLOの「イスラエル抹殺論」の立場に立ったテロ行為に対して、国際的な批判が高まったのは当然であった。

国際的な世論の中で、パレスチナ人の民族自決権を保障するとともにイスラエル国家の存続の承認が中東の公正な平和の前提になる、という日本共産党はじめ国際的な批判によってPLO自身の態度にも変化が見えて来た。

PLOのアラファト議長は1978年5月1日付けニューヨーク・タイムズ紙で「唯一の可能な解決策はイスラエルとパレスチナ国家の共存だ」と述べ、イスラエルの生存権を承認すると発言した。また、同年のアラブ首長会議では、イスラエルが「1976年に占領したアラブ領からの完全撤退を起訴にした公正なる平和」を約束するなら、PLOとしては1976年以前のイスラエルの境界線を認める方針である事を確認して居る。

1982年9月、アラブ首長国会議はレーガン米大統領の中東和平案に対して、通称「フェズ憲章」と呼ばれる和平案を採択した。レーガン提案がパレスチナの独立国家を認めないものであるのに対して、「フェズ憲章」はイスラエルを間接的ではあるが認め、イスラエルの占領地からの撤退、パレスチナの独立国家樹立などを内容としている。1983年2月、パレスチナ人の国会、PLOの最高の意思決定機関であるパレスチナ民族評議会(PNC)は政治決議で、フェズ憲章を「政治行動の最低限のライン」「政治的プログラム及びPNC決議に相反しない事を確認する」とし、間接的にではあるがイスラエルを認める方向へ組織としても向かい始めた

1988年11月のPNCは、「パレスチナを分割した国連決議181号決議(1947年)によってパレスチナがアラブとユダヤ国家に分割され、それに次いでパレスチナ人民に離散と自決権の剥奪をもたらした歴史的な不正義にもかかわらず、依然として、この決議は、パレスチナ・アラブ人に対して主権と民族の独立を保障する国際的な正当性の条件を与える」と述べ、「パレスチナ独立宣言」とともに、国連決議をパレスチナ国家独立の基礎に置くと言う注目すべき宣言をし、PLOの組織として明確にイスラエル国家を承認した。

このようにパレスチナ人側の態度の変化もあって、パレスチナ・イスラエル問題の平和的な解決の道は開かれて来た。

今日、パレスチナ問題の解決を妨げているのは、パレスチナ人の側にテロ戦術ときっぱり手を切らない弱点はあるが、パレスチナ人との対話拒否の姿勢を取り、「占領地は返さない」という不当な態度を取り続けているイスラエルとイスラエルを支援するアメリカの側に責任があることはいうまでもない。

世界の平和機構としての国連がパレスチナ・イスラエル問題をどう解決しようとしてきたのか、と言う問題もある。

1947年11月、国連総会でパレスチナ分割案が採択(決議181)された。

1948年の第一次中東戦争で、イスラエルの支配地域がパレスチナ全土の3分の2を占め、戦火から逃れて、小片諸国に避難して居たパレスチナ人の帰還は拒否され、多数のパレスチナ人が難民となった。

1948年12月、国連は、パレスチナ難民が故郷に帰る権利(帰還権)を認め、帰還を望まない難民には、土地など彼らが失った金銭的な補償が行われるべきだという決議をした。しかし、イスラエルは拒否した。難民の数について、1949年6月、国連調査団は71万4千人と言う数字を発表して居る。消えて行ったパレスチナ人の村は全体の47%、374村にのぼった。(立山浩司「イスラエルとパレスチナ」中央新書)

国連は総会決議に基づき、国連パレスチナ難民救援事業機関(UNRWA)を設立し、1950年から食糧配給や医療、教育活動を始めた。

1967年11月22日、国連安保理は決議242を採択した。イスラエルがヨルダン川西岸やガザ地区、シナイ半島などを占領した第三次中東戦争収拾のためである。この決議は

  1. 最近の紛争において占領された領土からのイスラエル軍の撤退
  2. 同(中東)地域の全ての国の主権、領土保全及び政治的独立、及び微力による威嚇または武力の行使を受けることなく安全な、かつ承認された境界の中で平和に生存できる権利の尊重と確認、と言う「原則の適用で中東の公正かつ永続的平和の確立を必要とすることを確認」している。

この決議にはパレスチナ人の自決権を「難民問題の公正な解決」という表現で、曖昧さも残って居るが、パレスチナ人とユダヤ人の自決権を認めた1947年の国連決議に沿って、問題の平和的解決をする上での基礎となるものである。

国連は決議を受け入れなかったイスラエルに対して国交断絶や経済制裁などの措置を取らず、結局、決議の実行は実のあるものにはならなかった。

一方のアラブ側は、イスラエルとは「講和せず、交渉せず、承認せず」と言う”アラブの3つのノー”という立場をとっていた。

1973年10月22日、第四次中東戦争の停戦のために、安保理決議338が採択された。その中で「決議242のすべての部分につき履行を開始するよう要請する」とイスラエルの占領地からの撤退を再び求めた。イスラエルは停戦は受け入れたが占領地からの撤退は拒否した。

イスラエルは、242決議でいう「最近の紛争において占領された領土」の「領土」には定冠詞THE がついて居ない事から、すべての領土を意味しないという解釈に立って居て、後にエジプトにシナイ半島を返還した事で、242決議は履行したと主張した事も有る。

1974年11月、アラファト議長がパレスチナ人の代表者としてはじめて演説した国連総会は、「パレスチナ人民がその固有の権利、特にその自決権の享受を妨げられていることに重大な憂慮を表明し」、「追放され奪われた郷里と財産に復帰するパレスチナ人民の固有の権利をも再確認し、かつ彼らの復帰を要請する」、「国連憲章の目的と原則に基づくあらゆる手段によりその諸権利を回復するパレスチナ人民の権利を承認する」などを内容とする決議を採択した。

1976年11月24日、国連総会は、パレスチナ委員会の報告に基づいて討議し、イスラエル占領下のヨルダン川西岸とガザ地区にパレスチナ国家の建設を支持すると言う決議を採択した。この決議にはアメリカ、イギリス、西ドイツなどが反対、日本はフランスなどと共に棄権した。同年1月の安保理ではアメリカの拒否権によって葬り去られている。

イラクのクエート侵略後もパレスチナ問題の解決の必要性は強調されている。

1990年12月6日の国連総会は、中東の平和実現のための国際会議のよびかけを採択した。これは、イラクのクエート侵略がどうなろうと、これまで放置されて来たイスラエルの占領を止めさせ、パレスチナ問題の解決の必要性を認めたからこその決議である。内容も、

  1. 中東地域に包括的和平を実現する原則(イスラエルの占領地からの撤退、パレスチナ問題の解決の必要性)の確認、
  2. 国際会議の開催を呼びかけると言うものである。

これまでの国連決議のうえに立った常識的で道理ある提案で、144か国が賛成したが、ただイスラエルとアメリカだけが反対した。

12月20日の国連安保理決議681は、イスラエル占領下のパレスチナ民間人の安全と保護を求めたものであった。「決議242に述べられた戦争による領土獲得の不承認の原則を再確認し」た。全会一致であった。

パレスチナ問題に対する国連の決議は曖昧な点もあるが、イスラエルの占領にたいしては一貫して批判して来た事は解る。

イスラエルの占領地からの撤退を求めた242、338決議は国際的合意である。アメリカを含む国連は、直ちにイスラエルの撤退を早急に実現する責任を負っている。

パレスチナ問題の解決の障害が不当な占領を合理化して居るイスラエルの態度にあることは明白だが、道理ある国連決議が国際社会の総意として実行されない出来たのは、アメリカなどの大国の責任が大きく、いま、そのことが問われている。パレスチナ・イスラエル問題をめぐる経緯を見ると、大国、特にアメリカが果たした否定的な役割は明白である。アメリカはこれ迄の歴史でパレスチナ人の自決権を認めず、イスラエルを支持し続けてきたのであるから。