ヤマトタケルは誰なのか

ヤマトタケルは誰なのか

記紀によると、日本武尊は幼名を小碓命(オウスノミコト)といい、第12代景行の第2子と言う事になっている。

日本武尊説話は九州遠征から始まっている。

兄の名は大碓命と言った。兄大碓命は父天皇の後宮に入れるべき女性を我がものにし、天皇には偽って他の女性を献上して参内しなかった。 不審に思った景行が小碓命に呼びに行かせると、小碓命は大碓命を掴み、その手足をかきちぎって筵に包んで部屋に投げ入れた。 これを見た景行は、小碓命に恐れをなし、命を遠ざけるために熊曾建を討てと単身で西国に派遣した。

熊曾国の川上梟師は折しもこの時、宮殿を新築していた。小碓命は、新築の祝宴の最中に、少女の姿に変装して女達の中に紛れ込み、宴の盛りのときに、油断していた川上梟師を刺殺した。 川上梟師は、死ぬ間際に「わたしが御名を献じましょう。これからは倭建命(ヤマトタケルノミコト)と名乗られよ。」と言い残したので、そのときから小碓命は倭建命、意味をあて字して日本武尊と名乗ることになったと書かれている。

暗殺される側の人間が暗殺者に名前を付けて死んでゆく、こんな事があり得るだろうか。暗殺して、その後は、どうやって逃げおおせたのだろうか。本来は九州の一角に盤踞していた熊襲の新築祝に、ご祝儀を持って訪問しただけの話ではないだろうか。そこですっかり意気投合して、上位者である熊襲武が下位者の小碓命に、名前を下賜した話をうまく暗殺譚に仕立てたのではないだろうか。名前を与えると言うのは上位者の行為である。

日本武尊は西州からの帰途、出雲国の出雲建を水浴びに誘い、用意しておいた赤檮(イチヒ=木の名前)製の木刀を出雲建の大刀とすり替え、その上で太刀合わせに誘って出雲建を斬り殺した事になって居る。この話も共に水浴びをして遊ぶ姿が前提として有り、同盟者同士の友情の話が、暗殺譚にすり替わって居るように思える。出雲武の話は崇神記にも同様の記述が有る。

古田武彦氏はその著書「盗まれた神話」で、「日本書紀」「景行紀」の景行の九州遠征は、元々は九州の王者の周辺地域制圧譚であったものをあたかも近畿和政権の事績として盗用したものである事を論証されている。こうした盗用と捏造は「九州制圧の景行」と「出雲、尾張、関東地方制圧の日本武尊」の説話で、悠久の古代から近畿和政権のみが日本列島の支配者であったと言う捏造を喧伝する為であっただろう。

「從海路還倭、到吉備、以渡穴海。其處有惡神、則殺之。亦比至難波、殺柏濟之惡神。濟、此云和多利。」

海路、倭₍ちくし₎に帰る道で、吉備の穴海のわたり、難波の柏のわたりに至ったが悪い神が居たので穴海のわたり、柏のわたりの悪い神を殺した、と書かれている。近畿から九州へ行っての帰り道だと記述しているのに往路で難波、吉備が制圧されて居ないのはおかしい。九州王朝説では、難波は博多湾岸の愛宕神社の辺りだと考えられて居るので帝都、三潴を出発した九州倭政権の皇子が難波に到り、博多湾岸から船団を仕立てて吉備₍広島の福山あたり₎まで遠征した話だとするなら地理的にもおかしくない。

これらの具体的事実の検証により、九州王朝説の歴史研究者らの大多数は、九州、出雲に於ける日本武尊説話に付いて、元々は九州王朝の歴史書にあった九州王朝内部の英雄伝や各地方の王の遠征記録が、近畿和政権の一皇子の事績として盗用、剽窃されたものと見ている。

日本武尊は、相模国に至って船で房総に渡ろうとするが、その途中で暴風雨が起き、船は木の葉のように波に揉まれて、今にも沈んでしまいそうになった。 この時、同行していた妻の弟橘比売(オトタチバナヒメ)が、「自分が夫の身代わりとして海に入り、海の神の心を鎮めましょう」と言って入水すると言う話が出て来る。実は「肥前国風土記」にこれに類似した話がある。大伴 狭手彦が新羅に遠征した折に嵐で海が荒れ、船が進まなくなってしまった。その時に、女性が海神の怒りを鎮める為に海中に入水すると言う説話である。大伴狭手彦と松浦佐用姫の悲恋物語が形を変えて盗用されているように見える。

相模国での火責め攻撃事件は相模国造りとの戦いであったとされているが、場所は静岡で有り、相手が誰であったのか不鮮明である。焼き殺されそうになった折に燃え盛る草を薙いだから草薙の剣だの、焼けた土地だから焼津だのと日本書紀は書いているが、単なるこじ付けである。熱田神宮の祀神は元々は宮簀媛命、建稲種命の夫婦神であった。この地域に根を張り、覇権を誇った王者、建稲種命の地域制圧譚が8世紀初頭の記紀編纂時期に、近畿和政権の覇道の一部として盗まれたのである。神宝の草薙の剣も元々から、この地方の王権の守り刀であり、熱田神宮の神宝であったのである。熱田神宮には、後付けで日本武尊と天照が入って来ており、神々集合がなされているのである。

足柄山での白い鹿の事件ついては、元々の関東の女神、大蛭女貴と蛭子大神の夫婦2神の説話を剽窃したものである事が古田武彦氏によって論証されている。伊吹山の神、白い猪の説話も元々からの土地神話を切り取って貼り付けた物であろう。

日本武尊の関東遠征は、景行紀40年条に出て来るのだが、文中の日本武尊の代名詞は全て「王」となって居る。景行紀40年条以外の記事で日本武尊が「王」と言う代名詞で呼ばれる例は無く、「王」記述の部分は全て関東の別の王朝の王者の歴史書を改定改変、剽窃したものなのである。日本書紀はこの「王」とは日本武尊の事であると添え書きをしているが、日本武尊が王位に付いた記述は無く、40年条は唐突である。ここから別の王の事績を記載している事は明白である。

「日本書紀」「景行紀」に出て来る彦狹嶋王は「東山道15国都督」の称号を持ち、関東の大王であった事が伺える。日本書紀の伝えるところによると彦狹嶋王は豊城入彦命の孫に当たる。彦狹嶋王の次代が御諸別王でその子が下野国造り、その次の王が奈良別王となって居る。景行紀55年条には、彦狹嶋王が遠征中に、大和国添上郡穴吹神社で病没したので悲しんだ百姓たちが彦狹嶋王の遺体を盗み、上野国に葬ったと言う不思議な記述がなされている。

恐らく関東の大王、彦狹嶋王は大和国への遠征に農民兵を連れて出ていた。しかし彦狹嶋王は大和国添上郡穴吹神社で病没、崩御してしまった。故郷を遠く離れた遠征地で崩御した彦狹嶋王の遺体は農民兵達が穴吹神社から盗み出して大切に守り、上野国へ運んだ。と言う事だと思われる。

ここから読み取れる事は、関東に大王が有り、その英雄譚が元々存在していた。と言う事である。近畿和政権は8世紀初頭の時期に、元々有った関東地方の王者の説話を都合よく盗み取り、あたかも大昔から関東も近畿和政権の支配領域であったかのように「日本書紀」「古事記」に記述したのである。

「日本書紀」「景行紀」の日本武尊記事は、彦狹嶋王の大和から関東への往路が日本武尊の帰還コースへと流用されたものだと見る事が出来る。そのコースは以下のようである。

上野→碓日坂→信濃→美濃→尾張。

近畿和政権の成立は701年3月21日である。それまでは各地域ごとに王朝が有った。しかも、恐らく近畿和政権が一定の力を付けて台頭してくるのは、早くても7世紀の中頃に過ぎないと考えられる。日本武尊の英雄譚は、日本列島に林立した幾多の王権の説話を取り込んで作られている。その薄皮を少しづつ剥がしてゆけば、古代日本列島の大王たちの、生き生きとした姿が、我々現代人の前に現れてくる。古田武彦氏が九州王朝説を1969年に発表されてから、既に半世紀以上の年月が経っている。1969年以降も様々な出土遺物、遺跡が発見され、九州王朝説の揺るぎない正しさが日々立証されている。古代、日本列島にはいくつもの王朝が有った。それぞれの神を持ち、誇らかに生きていた。その輝ける古代についての論証を、日本歴史の根幹に据えなければ、この国の民主主義は育ちえない。歴史は民が作るのだ。