ヤマトタケルin関東

ヤマトタケルin関東

日本武尊の関東遠征は景行紀四十年の条に出てくるが、その中の日本武尊の代名詞は全て「尊」ではなく「王」となっているのである。景行紀四十年以外の記事に日本武尊が「王」という代名詞で呼ばれる例はない。

日本武尊の関東遠征記事だけに「王」が多用(21件)されている理由は何か。 関東に存在した「○▽□王」たちの記録が利用されたという以外の理由は考えられない。関東の記録が次のように景行紀に取り込まれたのである。

ア 日本武尊の関東遠征の記事は元来関東の「○▽□王」たちの行程文書であった。

イ その中にあった21箇所の代名詞「王」は「王」のまま流用した。

ウ また関東人の実名「○▽□王」が入っていた20か所は「日本武尊」と書き換えた。

関東人の「~~王」とは具体的に誰か。景行紀には日本武尊の記事に続いて豊城入彦命の孫彦狹嶋王(55年)と三世の孫御諸別王(56年)の親子が登場する。いずれも関東関連の人物で「~~王」である。関東の伝承には豊城入彦命四世の孫・下野國造奈良別王という人物も登場する(宇都宮二荒山神社の由緒他)

この「彦狹嶋王」は、景行紀の記事がわずか三行と少ないにもかかわらず、極めて重要な人物と見られる。彼は『東山道十五國都督』という称号を持っているのである。 これは端的に言えば日本の東半分の王者の称号である。もしこの彦狹嶋王が大和ではなく関東の出身者だと示されれば、まさしく最大版図を実現した関東の大王ということになるからである。

『日本書紀』巻七
景行天皇五十五年春二月戊子朔壬辰、以彦狹嶋王、拜東山道十五國都督。是豐城命之孫也。然到春日穴咋邑、臥病而薨之。是時、東國百姓、悲其王不至。竊盜王尸、葬於上野國。
*大意
・景行天皇五十五年春二月、彦狹嶋王を東山道十五國都督に任命した。 ・この彦狹嶋王は豊城命の孫である。 ・しかし、彦狹嶋王は春日穴咋邑に到って病に臥して薨去した。 (春日穴咋邑は日本古典文学大系の注では大和国添上郡穴吹神社) ・彦狹嶋王が到着しなかったのを東國の百姓が悲しんで彦狹嶋王の遺体を盗み上野國 に葬った。

彦狹嶋王が近畿の人物だとすると、この記事はどう考えてもおかしい。

ア 東國の百姓が、未知の人物・彦狹嶋王の遺体を盗み上野國に葬ったというのは実に奇妙な話である。

イ 東國に彦狹嶋王死去の知らせが届き、東國の百姓が春日に来るのに一体どれだけの時間がかかるのであろう。 その間、彦狹嶋王が率いていた軍兵は待っていて、その遺体が持ち去られるのを傍観していたのであろうか。

ウ 東國から彦狹嶋王の遺体を引き取りに来たのが何故百姓なのか。彦狹嶋王は村長などではない。「東山道十五國都督」という大人物の遺体を迎えるなら相応しい人物が来るべきではないか。

これらの不審点は以下のように考えると解消する。

ア 彦狹嶋王は関東(上野國周辺)の人物だったから遺体が上野國に運ばれた。

イ 彦狹嶋王は根拠地上野國を出発し春日穴咋邑に到って薨去した。「其王不至―その王至らず」である。

ウ 彦狹嶋王の遺体を上野國へ運んだ東國の百姓とは、春日まで彦狹嶋王に随行した農民兵だった。

彦狹嶋王は春日穴咋邑で死去して遺体は本拠地である上野國へ帰ったのである。 その経路を景行紀では彦狹嶋王の東山道十五國都督としての赴任往路に偽装している。

春日穴咋邑を上野―大和のルート上に探すなら愛知県春日井市が有力である。ここは東山道から大和へ向かう最短ルート上にあると言ってよい。延喜式には『春部』、和名抄には『賀須我部』とあるという。

豐城入彦命は崇神期にすでに東國支配を命ぜられた人物とされているから、その孫の彦狹嶋王はやはり関東出身者だったはずである。

國造本紀に彦狹嶋命は上毛野國造として登場する。これも彦狹嶋王が関東出身者だったことを示す伝承である。

上毛野國造だった彦狹嶋王は上野國を本拠地としながらも東山道十五國を監察するような地位にあったのであろう。「関東大王」の名に恥じない大人物といって良い。

また國造本紀に、能等の國造・彦狹嶋命が登場する。世代はほぼ同一だから同一人物の可能性が高い。彦狹嶋王は東山道外の能等をも支配していたと見られる。

彦狹嶋王の春日までの往路は、その遺体の帰還とは逆の上野→東山道→尾張だったであろう。 景行紀四十年の記事に、これと同じ経路を辿った重要人物が登場する。日本武尊である。日本武尊の大和への帰還コースは 上野→碓日坂→信濃→美濃→尾張→である。 これは彦狹嶋王の春日への往路が改変・流用されたものと考える。 これは決して無理な推定ではない。彦狹嶋王の遺体の上野帰還の記録は大和政権に 伝わっていたから東山道十五國都督の派遣記事が作られた。 逆に彦狹嶋王の春日までの往路記事も共に大和政権に伝わっていたはずである。 彦狹嶋王の春日からの帰還路がなぜ大和からの東山道十五國都督の往路と改変されたか。彦狹嶋王の関東大王たる地位を隠し、大和朝廷が派遣したことにしたかったからであろう。

参考≪関東の日本武尊≫藤井政昭氏論文