三国史記

三国史記

三国史記新羅本記には度重なる倭国からの侵略記事が書かれて居る。その反面、弥生期(紀元前3世紀~紀元後3世紀)に当たる時期に日本列島から渡来した人々の事績も記録されて居る。日本の古代を外から見た、貴重な説話群である。新羅の第四代国王脱解王の説話がある。

「脱解、本(もと)、多婆那国の所生なり。その国は倭国の東北、一千里に在り。」

その説話の大略は以下のようである。

多婆那国王の妃は女国の王女であった。王妃は妊娠7年で大きな卵を産んだ。王はこれを不吉に思い、妃に棄てるように命じた。しかし妃はこれに忍びず、帛(絹)でその卵と宝物を包み櫝(箱・柩)の中に置き、海に浮かべた。その流れ行くところに任せたのである。その櫝は朝鮮半島の金官国(金官加羅。金海)の海辺に流れ着いた。金官の人は、これを怪しんでとらなかった。その後、辰韓(後の新羅)の阿珍浦に着いた。この時は、新羅第一代の国王、赫居世(在位前57年~後3年)の39年(前19年、前漢成帝の鴻嘉2年)の事であった。

時に海辺の老母が縄でこれを海岸に引き繋ぎ、櫝をあけてみると、一人の子供が居た。そこで連れ返り養った。大きくなると、身長9尺、風貌も秀で、知識もすぐれていた。

第二代の新羅王、南解次次雄(在位4年~23年)は、その賢い事を聞き、自分の娘をその妻とした。彼はやがて大輔(最高級の官僚)の職に就き、政治を任された。そして第三代の国王儒理(在位24年~56年)の遺言によって大四代国王となった。そしてその後賢王としての治績の数々を残した。

という説話である。

この脱解王の出生地、多婆那国とは何処か。「倭国の東北、一千里 」これが指標である。この指標の起点は倭国。倭国とは何処か。勿論筑前の志賀島である。周代貢献の倭人、楽浪海中の倭人、光武帝から金印を授与された倭人、それらはいずれも博多湾岸を母域とする筑紫人だった。彼らは朝鮮海峡の南北領域を生活圏としていた。そしてあるいは箕子朝鮮の居する平壌へ、あるいは光武帝の都する洛陽へ使いを送った。それらの行路はいずれも朝鮮半島を経由して居たのだ。だから当然、半島内部の国々との交流や国交を前提としなければ、それらの交渉、遣使は考えられないのである。

したがって、その半島側の記録、しかも一世紀代において「倭国」とあれば、まず、この博多湾岸を起点とする事が自然である。

博多湾岸を起点として東北へ一千里とは何処か。

  • 周・魏・西晋朝の短里:一里=約76~77m
  • 秦・漢及び東晋以降の長里:一里=約435m

長里で一千里であれば少なくとも舞鶴港を超えて海に出てしまう。となると漕ぎ手の居ない船がその沖合から漂流によって朝鮮半島に付くのは不可能である。対馬海流に流されて東北地方に行ってしまうだろう。

これに対して短里の場合、博多湾岸から東北へ一千里は関門海峡付近となる。三国志の魏志倭人伝に

「女王国の東、海を渡る千余里、複た国有り、皆倭種なり。」

とあるのも、同じ距離を示すものだ。「女王国ー倭種の国々(関門海峡以東)」の間を千余里と示しているのである。関門海峡流域(遠賀川河口も含む)に、漕ぎ手の居ない舟が流された時、その舟は漂流によって朝鮮半島に向かい得る。はじめは釜山付近、次には新羅東岸に流れ着き得る。対馬海流は対馬の近辺で二方向に分岐する。一方は周知の対馬海流で出雲の沖合へと流れていく暖流である。他方は東鮮暖流で釜山の沖合から朝鮮半島東岸を北上する潮流である。季節、時間帯や風向きなどによってもどちらの海流に乗るかが違ってくるだろう。風任せである。

さらに関門海峡の潮の流れが関係する。この海流が時間帯によって潮の流れが逆転することは有名である。したがって瀬戸内海より玄界灘に向かって流れだす時間帯には、その「南⇒北」の流れに押されて東鮮暖流に乗る可能性は一段と増すであろう。漕ぎ手の無い船が漂流して北上する可能性は十分にあるのだ。これに対し、関門海峡よりも東の海岸からとなると逆流して釜山方面に流される可能性はほとんど失われてしまう。これに対し、もし関門海峡よりも西側となると「一千里」と矛盾する。長里はもとより短里でも「一千里」には妥当しないのである。

つまり、この関門海峡領域以外に三国史記の伝える「多婆那国 」に無理なく該当する地は無いのである。

参考:「古代は輝いていた」古田 武彦著