三種の神器

三種の神器

近畿天皇家の誕生は8世紀初頭₍701年₎である。7世紀末迄は倭国だった。筑紫の九州王朝だ。吉武高木₍福岡市西区₎三雲南小路₍福岡県糸島₎井原₍福岡県糸島₎須玖岡本₍福岡県春日市₎平原₍福岡県糸島₎に見られるように「三種の神器」を「権力の証」とする王朝である。近畿の豪族一族は701年に新たに成立した自らの王朝を、悠遠なる淵源を持つかの如く装う必要に迫られた。そのため「古事記」「日本書紀」を編纂して、自分たち以前に存在した日本列島の各地域の王朝の歴史を無きものにしたのである。その際に近畿新設王朝が直面した難題、これが「権力の正当性」問題である。

近畿和政権には自らの支配の正当性を証拠立てるものが必要になったのである。

阿麻氐留が出雲との国譲り交渉に成功した後、筑紫₍福岡₎に邇邇芸を派遣した。所謂天孫降臨である。九州倭政権もまた、自らの以前から先住した王朝を倒して新たなる王権を樹立したのである。

筑紫の日向の地には板付の縄文・弥生初期水田が広がって居た。阿麻氐留が出雲を交渉相手としたのは、この葦原中国、筑紫の地を制圧し、獲得したかったからである。その際に、阿麻氐留が孫の邇邇芸に与えた宝物として上記遺跡群に漏れなく副葬されていた「三種の神器」が出現する。

「八尺瓊勾玉、八咫鏡、草那芸剣」₍古事記、天孫降臨₎である。

「八尺」とは長さの単位である。「瓊」とは玉の材料名である。紐の長さが八尺で瓊を材料とした勾玉を懸けたものである。

「八咫」も長さの単位であり、内向花文鏡の事である。鏡の一定の様式、タイプを言っているもので何ら固有名詞は無い。

唯一、固有名詞があるのが「草那芸剣」である。

「草那芸剣」は古事記に出現する。

八岐大蛇が酒に酔って眠った隙を見て、速須佐之男命は身に帯びたつかつるぎを抜きて、八岐大蛇をずだずだに斬り刻んだ。 ゆえにかはの流れは血にかわった。 速須佐之男命が大蛇の中ほどの尾を斬った時、十拳之剣の刃がすこし欠けてしまった。 怪しいと思い、刀の切先で大蛇を刺し割ってみると、一振りの、がり大刀たち(非常に鋭い大刀)があった。 速須佐之男命は大蛇の中から出てきた大刀を取り、不思議なものだと思い、天照大御神に事情を説明し、献上した。 これがすなわち、後世に云うくさ大刀たちである。₍古事記₎

『日本書紀』神代紀上第八段本文の注には「ある書がいうに、元の名は天叢雲剣。大蛇の居る上に常に雲気₍くも₎が掛かっていたため、かく名づけたか。日本武皇子に至りて、名を改めて草薙劒と曰ふといふ」とある。

日本書紀が言う「ある書」とか「一書」は大体九州王朝や他王朝の歴史書の引き写しである。九州王朝の説話に現れた剣は最初は「がり大刀たち」と呼ばれた。その後「天叢雲剣」と呼ばれた。阿麻氐留と須佐之男は兄弟では無いし年代も6代は違うから、須佐之男が阿麻氐留に剣を献上した話は嘘である。「天孫降臨」の時間軸は弥生の前末・中初。紀元前100年~紀元後200年迄の出来事である。それより遥か後年の恐らく4世紀中葉のヤマトタケルの説話にちなんで「くさ大刀たち」と呼ばれるようになったと言う。

がり大刀たち

天叢雲剣

くさ大刀たち  

剣の名前が3つも羅列されて、何度も記述されている。 これは何故か?

タケルは出雲・九州への西伐の後、父景行の命で東伐に向かう。そのさい、伊勢神宮₍三重県₎へ寄り、巫女で叔母の倭姫から宝剣を授けられたことになって居る。これが「草那芸剣」である。

この名の由来は、タケルが東に赴き焼津₍静岡県₎に至った時に土地の豪族がタケルを案内すると偽って出迎え、風上から草群に火を放ち、彼を焼き殺そうとした。彼は叔母から授かった宝剣で草を薙ぎ払い、剣と同時に授かっていた火打石で風下に火を放ち、焼け跡を辿って脱出した、と言う。そこでこの土地を焼津と言うのだ、と言う地名説話である。

焼津の本来は八岐津、沢山の砦₍八岐₎のある港の意味である。自然な地名を無理に「焼き」と言う火災に因む当て字へとこじつけている。だから「草を薙いだから草薙剣」と言うのは作り話の大ウソである。

和名抄₍和名類聚抄₎に次の記述が有る。

熱田神宮 日部

「日部」は”太陽を祀る部”である。草は本来は太陽信仰の祀り部「日」。

「なぎ」の”那”は”那岐”「那」は”海辺の地”、那の津の”那”である。

「なぎ」の”ぎ”は”岐”、「柵、城」の事だ。

「くさなぎ」は”太陽の祀りをする海辺の城”の意味で、その地の祭りの為の宝剣が「草薙剣」なのである。「日部」はその宝剣を祀るこの地方の部民なのである。

草薙剣は元々からこの熱田神宮の御神体であった。それを近畿の新設王朝は自分の家の物であると喧伝したのである。そう考えなければ、この説話と現在の神宝草薙剣の在処の説明はつかないのである。

タケルは能煩野で没した事になっているが、元々伊勢神宮にあったと言う剣を何故タケルの死後、家来は返しに行かなかったのか。

皇位継承権の証の剣を、なぜ遠隔地に置き続けるのか。

例えば叔母から貰ったとしても、なぜタケルに副葬しなかったのか。

剣が今も熱田神宮の御神体であり続けているのは何故か。

理屈で考えれば、熱田神宮の剣がタケルと関係が有った筈等無いのである。熱田神宮には宮簀媛と建稲種が祀られている。尾張の伊吹山の神を打ちに行ったのは建稲種で、宮簀媛はその妻であろう。古事記、日本書紀は、尾張の王朝の歴史書を盗用して記事を書いたのである。後に述べるが近畿の豪族が力を付けてのし上がるのは7世紀末である。それ以前の日本列島には各地域ごとに王者が居たのである。

近畿和政権は日本列島津々浦々の説話や神話を総て自分の先祖の物として改竄した。阿麻氐留の神命が下って日本に君臨すると言うストーリーに三種の神器問題は避けて通れなかった。

日本書紀はしつこく5回記事にしている。

名付けて草薙剣となす。ヤマタノオロチ説話 第8段・第3・一書 

所謂草薙剣なり。同上 第8段・第4・一書

是を草薙剣と号す。同上 第8段・第2・一書

此れ今、いわゆる草薙剣なり。 同上 第8段・本文

八尺瓊の勾玉及び八咫鏡・草那芸剣、三種の宝物を賜ふ。同上 第9段・第1・一書

熱田神宮の神宝と三種の神器を接合するための涙ぐましい努力である。

昭和の独白録には「敵₍アメリカ軍₎が伊勢湾₍三重県₎付近に上陸すれば、伊勢熱田両神宮は直ちに敵の制圧下に入り、神器の移動の余裕はなく、その確保の見込みが立たない。これでは国体護持は難しい、故にこの際、私の身は犠牲にしても講和をせねばならぬと思った。」とある。文春文庫「昭和天皇独白録」

昭和は「自分の如きも北朝の血を引ける者」と言い、自分自身の天皇位の正当性の為には「三種の神器」が不可欠であるとの思考が基本となって居たことは「本庄日記」によって裏付けられている。南北朝時代₍1331年~1392年₎正当とされた南朝側が敗れ、足利尊氏₍1305年~1358年₎に擁立された北朝側₍後小松1382年~1392年₎が三種の神器を譲られた経緯が、現在の近畿和政権の子孫の人々の中にも強い不安と懸念を残しているのである。それが敗戦の為の直接動機になるほどなのである。

歴史の真実を国民みんなが知る事はいよいよ大切である。以上の部分の参考文献は古田武彦氏の『「失われた日本」₍古代史₎以来の封印を解く』原書房。ほぼ古田氏の御慧眼の丸写しで有るので、ご興味を感じられた方は、古田武彦氏の本をお求め頂きたい。

近畿和政権の先祖とされている神武の神器は天神の子孫である証拠として、蛇の呪力を持つと言う天羽羽矢₍あまのははや₎と、矢を入れる筒状の道具である歩靫₍かちゆき₎を持って居た。古語拾遺に「古語にオロチを羽羽₍はは₎と言う」とある。

他の項でも述べている事だが、神武は博多湾岸出身の鵜飼部の息子であった。専ら戦時には兵站部隊として活躍した部民である。だから当然、九州倭政権が兵士に下賜した武器を携帯して居たのである。「天神の子孫である証拠」つまり、博多湾岸の九州倭政権に連なる勢力の一角であることを示したのである。

単なる兵士が王者の持つ「八尺瓊勾玉、八咫鏡、草那芸剣」を持って居る筈もなく、神武には三種の神器は無いのである。強いて言えば、神武の神器は九州から持って来た天羽羽矢と歩靫の二種の神器だと言えるだろう。

旧唐書の記述は明確に日本伝と倭国伝を分けて記載している。それに記述されている「日本国は倭国の別種なり」と言う文章が語るように、近畿の豪族が西日本の一定の支配権を得たのは8世紀前半である。しかもどうやら7世紀になって勢力を伸ばした新興勢力であるらしい。

だから、本当は近畿の「天皇家」には三種の神器など初めから無いのである。その証拠に「三種の神器」が揃って文献に出て来るのは安徳の入水事件が初出である。「近畿の天皇家」の「三種の神器」は文献に出て来た途端に海に沈んでいるのである。

「ヤマト朝廷」とか「ヤマト王権」とか言う物は歴史上ただの一度も、存在する事は無かったのである。

上記は旧唐書↑

中国の百科事典に当たる「柵府元亀(外務部、朝貢三)」には倭国の最後の朝貢記事と日本国の最初の朝貢記事とが記載されている。

咸亨元年(670年)3月、罽賓国、方物を献ず。倭国王、使いを遣わし、高麗を平らぐるを賀す。

これが倭国最後の中国朝貢記事である。対して日本国最初の中国への使節の記事は701年10月の記事である。

長安元年(701年)10月、日本国、使いを遣わし、其の大臣朝臣、人を貢し、方物を貢す。

近畿地方の豪族が武則天に日本の覇権を認めて貰ったのである。九州年号はこの3年後に制定された「大長」で終わって居る。