乙巳の変は645年ではない

乙巳の変は645年ではない

西暦645年の干支は乙巳である。この年は皇極天皇の退位の年であり、その一巡、60年後の乙巳は705年、唐の則天武后が崩御した年である。疑わしきは則天武后の崩御年から一巡して過去にさかのぼった干支の年に皇極天皇が退位している事である。乙巳の変も則天武后の崩御年から算出してこの年に割り振られたという可能性もあり得ると思われる。

日本書紀舒明3年(631年)記「三月の庚申の朔に、百済の王義慈、王子豊章を入りて質す」

とあるが、義慈王の即位は唐の貞観15年(641年)であるから上記の記事は成立不能である。日本書紀の年代記録は10数年分ずれて居るとみられる

舒明元年(629年)~13年間(641年)の全体が12年分下がり

641年~657年

になる事になる

年次繰り下げが大化元年、乙巳にも波動、連動したとすれば、蘇我入鹿が惨殺された事件も大化の改新も

656年~657年の間の出来事となる

ちなみに九州年号ではこの時期は「白雉」₍652年~660年₎元号の時期である

旧唐書、三国史記では白村江戦は662年となっている。もし乙巳の変が657年なら白村江戦の5年前の出来事となるだろう。

ちなみに九州年号「大化」は₍695年~704年₎である。