所謂、九州年号と呼び習わされている年号群は『二中歴』と言う百科事典に記述されている。
『二中歴』は鎌倉期初頭の成立とされている。内容は、当時の貴族や知識人のための百科事典のようなものである。その内訳は平安後期に成立した「掌中歴」と「懐中歴」の二つの歴を中心として編集されたもので、編者は誰なのか不明である。「二中歴」という名称もここから来ている。
現存する古写本『二中歴』第一帖は、「神代歴」「人代歴」「后宮歴」「女院歴」「公卿歴」「侍中歴」からなっている。
「継体二十五 (応神五世孫 此時年号始)」₍『二中歴』「人代歴」₎
()内は細注。なお、「二十五」の右注に「或云雄略太子」とある。
『二中歴』「人代歴」の編者の認識として、年号は継体天皇の時に始まったとしているのである。しかし、『日本書紀』、孝徳紀の大化や白雉、『日本書紀』、持統紀の朱鳥は「人代歴」には記述されていない。年号は文武天皇の細注「天武太子 持統南宮 大寶三 慶雲四」から始めて記されており、以下歴代天皇の細注に当時の年号が記されている。
『二中歴』「人代歴」には、継体(元年は517年丁酉、継体天皇11年に当たる)から大化(元年は695年乙未、持統9年に当たる)までの31個の年号が記述されている。
「已上百八十四年々号丗一代〔虫食いによる欠字〕年号只有人傳言自大寶始立年号而巳」₍『二中歴』「人代歴」年号群末尾₎
「以上百八十四年、年号三十一代、年号を記す。只、人の伝えて言う有り『大宝より始めて年号を立つのみ』とのことである。」と記述している。
『二中歴』は「継体」から始まる年号群の実在を記し、一方では大宝からが始めての年号である一見矛盾する記述をしているのである。
『二中歴』「人代歴」の編者は、継体天皇の時から始まる年号群の実在を知りながら、「人代歴」には九州年号を一切記さず、文武天皇から始まる大宝年号から「人代歴」に「年号」を記している。この事は、31個の古代年号群は近畿天皇家のものでは無い、全く別の王朝の年号である事が当時の常識だった反映では無いだろうか。
『二中歴』以前、平安期成立の「掌中歴」「懐中歴」を読むような平安時代の貴族や知識人達は、そう遠い昔の事でもない、九州王朝の滅亡と近畿和政権の成立の歴史をよく知って居たのである。