伊都国について

伊都国について

東南陸行五百里にして伊都国に至る。官を爾支(にき)と言い、副を泄謨觚(せもこ)・柄渠觚(へくこ)と言う。1000余戸有り。世々、王有るも皆、女王国に統属する。郡使の往来常に駐まる所なり。 〈三国志 魏志倭人伝〉

「ト」の表音文字として「都」が使われて居る。

南、邪馬壹国に至る。女王の都する所 〈三国志 魏志倭人伝〉

「都」とは明らかに一国の首都の事である。それなのになぜ、倭国の首都でもない国にこんな表記が使われて居るのだろうか。

      • 韓魏を伊闕に攻む〈史記、秦本記〉
      • 轘轅伊闕之道を塞ぐ〈史記、准南王伝〉
      • 伊闕を背にし、轘轅を超ゆ〈曹植、洛神賦〉

ここに現れている伊闕は春秋時代の周の闕塞に当たり、漢の霊帝の八関の一つとされ、洛陽の西南に当たる地であった。曹植は魏の曹操の第三皇子であるから魏の時代にもこの地名は存続して居た。

闕とは天子の居城を示す言葉だ。それは当然洛陽の中心にあった。なのに「闕」のない洛陽の西南地域がなぜ「伊闕」と呼ばれるのだろうか。

遠からざる事、伊邇たり。薄として我を畿に送る〈詩経、邶風・谷風〉

「伊闕」は「これ、ちかし」の意味である。「伊」は「これ」に当たり、近傍の意味は「邇 」(ちかし)にある。「伊闕」の地名は「闕に遠からず伊邇 (これちかし)たる地」の意味である。

つまり「伊都」とは「女王の都に遠からず、伊邇 (これちかし)たる地」と言う意味を持って居るのである。

倭国内で「王有り」とされているのは、この伊都国だけである。その他の国には官と副官がいるだけだ。「1000余戸有り。世々、王有るも皆、女王国に統属する。郡使の往来常に駐まる所なり。 」女王国に統属しながらも僅か千戸余りの住民が住まう地に住む王とは、、、、。

倭国には二種類の王が居る。一方は邪馬壹国の倭王、女王である。名実ともに兼ね備えた王である。他方は伊都国王、名前は王でも実力は無い。いわば王としての格式だけが認められている王なのである。名目だけの王だ。では何故格式だけ認められて居たのか。それは他でもない、「旧来の王者」だったからだろう。かつてのこの地の王者が格式だけ残されて居るのである。

  • かつてこの地に統合の王が居た
  • ところがある時新しい実力者がこの地に来て統合権の委譲を迫った
  • 旧王者は(実力の圧倒的な落差の為)止むを得ずこれを受け入れた
  • 新王者は委譲の功によって旧王者に対して王の名目と格式だけを認め、その存続を許した

と言う状態である。

以上の状態は現地(糸島郡)の出土事実からも裏付けられる。なぜならここには二種類の王墓が有るからである。

  1. 三雲・井原・平原の弥生王墓。矛・剣・鏡・玉等各種の金属などの宝物を大量に副葬している王墓。通称弥生時代中期の王墓群
  2. 支登支石墓群。糸島郡前原町の東北辺。上記3王墓(前原町の東南辺)とは指呼の間にある。ここには支石墓(ドルメン)の団地とも言うべき墓地群が有り、代々祭祀を続けられてきた姿、歴然たるものがある。弥生前期・中期とされる。上記3王墓と時期的にダブって居るのである。この墓群には金属製の宝器が殆ど認められず、石器・土器類の副葬品にほぼ限られて居る。

支石墓に対する祭祀は後代(平安・鎌倉時代)迄続いている。支登支石墓群の背景には今山製石斧が有る。今山は支登支石墓群のすぐ東隣である。この石斧は筑前から築後にかけてかなり広範囲に分布して居る。後の金属器時代の矛や戈とかなり共通した分布部分を(中枢において)持って居る。従って今山の石斧の製造者が、すなわち筑紫の有力者であったことはまず疑えない。「支登支石墓群 の被葬者=今山の支配者」という可能性が高い。

これに対して弥生の3王墓は異なる。金属器の王者である。ここには上記の石器の王者とは異質の文明が始まりその文明の王者の墓が営まれた事を示して居る。弥生期はやがて全面的に金属器の時代に突入した。この時代に実力を持つ者が3王墓の系列、金属器以前(石器時代)からの名門の被葬者が支登支石墓群の系列なのである。

上記によって弥生の3王墓こそが倭国の王の倭王墓であり、支登支石墓群こそ伊都国王の墓で有る事が判明する。

「世々、王有るも 」と言って居る文章と、支登支石墓群に代々の支石墓が相次いでいる状況はよく合致して居るのである。


図は古田武彦氏著 古代は輝いていたⅠより転載 

魏志倭人伝には「伊都国に到着する。長官は爾支(にき)、副官は泄謨觚(せもこ)と柄渠觚(へくこ)。1000余戸が有る。世々、王が居た。皆、女王国に属する。 」「奴国に至る。長官は兕馬觚(しまこ)、副官は卑奴母離(ひなもり) 」とある。『魏志倭人伝』伊都国・奴国の官名「泄謨觚・柄渠觚・兕馬觚」は実は周代の青銅の祭器と儀礼に起因するものであると言う。青銅製の柄杓、つまり「爵」に基づく位階制度から来ている。伊都国と奴国は周代に成王に暢草を貢 じた倭人の子孫と言う事になる。天孫降臨時には糸島平野は周に朝貢した倭人の子孫たちが統治していたと言う事である。  

糸島地域の領域の支石墓(紀元前2~6世紀ごろで天孫降臨以前)。東部の小田支石墓、西部の新村遺跡、前原市に志登支石群、三雲井田地域に三雲石ケ崎支石墓など多数ある。 

和田家文書には「支那玄武方より稲作渡来」と書かれて居る。縄文水田は周田であった。邪馬壹国の官名に周代の影響が残るのは前王朝が周代に支那玄武方(中国北方)から稲作を持って渡来した人々である事を示唆する。伊都国王が周田を齎した一族の王だとしたら、永初元年(107年) 倭國王帥升が周の太白の末裔だと自ら語っている事と整合する。

  • 「泄謨觚」「柄渠觚」 は天孫降臨前の周代の「觚」に由来する「旧勢力(在地)」の官名。
  • 「爾支」 は糸島地域に天降った邇芸速日や「一大率」の長官邇邇芸に由来する「新勢力」の官名。
  • 「新勢力(支配者)」たる邪馬壹国王が任命する長官が「爾支」。 
  • 副官は在地旧勢力の「泄謨觚」 「柄渠觚」という周代由来の官名。

  • 「官名の質の違い」は天孫降臨を境とした2 重の権力構造の現れ。
  •  「奴国」には邪馬壹国による「率」派遣や長官任命記事は無いので、旧来の在地の官名 「兕馬觚 」が残った。
西周代では大夫と呼ばれ、東周にいたり侯爵となった秦の甘粛省天水市張家川回族自治県あたりなら支那の玄武方といえるだろうか。倭国は自らを「大夫」と呼んでいた。また、九州倭政権は紀氏(姫氏)で有った可能性もあると言う。姫姓の周の豪族は魯、晋、陳、蔡、曹の5家である。 

周代に稲作を持って渡来した姫氏が今山の支登支石墓群に眠って居るとしたら、平安・鎌倉まで続く紀氏が末裔なのだから、この時代迄の祭祀を受けていたと言うのも整合する。和田家文書に依れば、その後寧波から渡来した天孫族に権力を掌握されたと書かれて居るのであるから、伊都国・奴国の官名は邪馬壹国内部の国柄の違いを明確に表しているのではないだろうか。


ここに一つの系図がある。古代史ファンなら知って居る人も多い「松野連系図」である。この系図の出典は不明である。何処から出て来たものなのかも解らない。幕末から明治にかけて古代氏族の系譜収集に生涯を費やした在野の研究家、鈴木真年の膨大な集成本の中の系図の一つである。草稿写本に過ぎない状況のものである。今現在、原本は国立図書館に有ると言う。

松野連に付いては9世紀成立の「新撰姓氏録」に「呉の太白の後」と記載されて居る。

松野連系図に「呉王 夫差の子が、孝昭天皇三年に来朝し火国山門(やまと)に住んだ。」と記述がある。

 『和名類聚抄』の中に、肥後国菊池郡山門(やまと)郷がある。


  • 孝昭天皇三年=紀元前473年。
  • 肥後国菊池郡山門郷は、迫間川流域。
  • 春秋時代の呉王 夫差(?~前473年)は、越王 勾践に敗北し自決。 

松野連系図は呉王 夫差を始祖として始まって居る。



記紀に出現する厚鹿文(日本書紀では景行に殺される熊襲梟帥 )とその姉娘市乾鹿文、妹娘市鹿文、日本書紀で小碓尊に殺されたと書かれて居る川上梟帥(古事記では熊曽建 )の名が見える。日本書紀に依れば姉娘市乾鹿文は景行の偽りの寵愛を受け、父の厚鹿文を殺し、返ってその親不孝を憎んだ景行に誅殺された事になって居る。妹娘市鹿文は火国造に与えられたと書かれて居る。

系図に記紀でよく知る名前が出て来ているからと言って、近畿天皇家の事績の裏打ちとは考えられない。近畿天皇家は8世紀初頭の成立であり、この時代には無かったからである。九州内で起きた事件を主役を近畿天皇家に置き変えて記して居ると見るべきだ。記紀に記載されて居る対熊襲戦争譚は姫氏と熊氏の勢力争いを、あたかも近畿天皇家の事績として、九州王朝内部の歴史資料、例えば日本旧記から取り出して嵌め込んだものだろう。

  • 姫氏=紀氏
  • 熊襲=楚の末裔の熊氏(熊楚)

この2流は共に周の流れである。紀氏の熊襲征服譚が景行と小碓に仮択されて居るのである。和田家文書には邪馬壹国はいったん滅びたと書かれており、熊襲族である俾弥呼の系列によって再建されたと書かれて居る。松野連系図が2系列あるのも、本来姫氏系列と熊氏系列に分かれていた物の時代的血統結合を現わしているように思える。周代から続く姫氏、熊氏の家系図に倭の五王が連なる松野連系図には多くの落ちもあるのだろうと思われるし、系図の完全復刻では勿論ないだろう。だが一面の真理を現わす傍証の一つと言える。

倭の五王は九州の朝廷の帝であったのだ。更に言えば、伊都国、奴国の権力の出滓者は姫氏であり、後の支配者である俾弥呼の系統は熊氏であったと見る事が出来る。その後、2流は婚姻関係で一体化したと見られる。倭人伝にも伊都国と女王国は縁戚関係に在ると見られる記述がある。昔も今も支配階級は血縁で繋がって居るのである。