「筑紫郡 春日村 (大字) 須玖岡本 山 781」この地番が俾弥呼の宮殿である。誰でも行く事が出来る現実の地名である。魏志倭人伝の記載した場所は神話ではない。3世紀の政治地図なのである。此処は福岡県春日市の熊野神社である。小高い高台に位置して居る。その麓近くから須玖岡本王墓が出現した。
何度も言うが中国絹が出土したのは日本列島中探しても此処だけである。
巨大な支石墓の下から一個の甕棺が現れ、中から約20面余の前漢式鏡が出現した。魏晋鏡(きほう鏡)、細剣4本、細矛5本、細戈1本、中国錦、倭国錦、ガラス璧2個、ガラス勾玉、銅釧3、鉄剣などの夥しい副葬品が現れた。
この遺跡は埋め戻されて市街地の下に隠れてしまった。支石墓の巨大石のみが熊野神社の丘陵中腹に安置されている。この須玖岡本遺跡周辺では絶えず弥生期の遺物・遺構が簇出している。ガラス勾玉の鋳型、銅矛・銅戈の鋳型群。
須玖岡本の王墓の北、約300mの地の家屋の倉庫立て直しに当たって鏡の鋳型が発見され、銅滓、鋳型の破片も二種類発見された。全日本列島中でも、弥生期の鏡の鋳型発見地は今の所、此処だけなのである。
この一帯は京都大学、九州大学、福岡県教育委などによって発掘が繰り返され、百余個の甕棺とそれに伴う弥生期の副葬品が数多報告されている。程近くの春日市原遺跡(自衛隊敷地)からは48本の中広戈が発見されている。
この一帯は「弥生のゴールデン・ベルト」と称すべき「志賀島から朝倉に至るまでの」中心線上にあって、その中枢をなして居る地帯である。しかも壮麗な王墓(須玖岡本の王墓・甕棺群)と共に、当時の最高級の製造拠点(銅戈、銅矛、ガラス勾玉、鏡などの鋳型)を持ち、更に銅戈群などの埋置箇所も含んで居るのである。この点、壮麗な王墓群を擁しながら、鋳型などの出土に乏しく、「王家の谷」の観を呈する糸島郡とは一種相貌を異にして居るのである。
以上の様な文字通りの「弥生の最中心地帯」たる須玖岡本とその周辺部、それらを下に見る、俯瞰すべき位置に有る丘陵上の建造物、それが熊野神社なのである。
「岡本」とあるのは「丘の麓」の意味であろう。「須玖岡本」というのは「須玖のなかの岡本」という意味である。地名の中の小地名の形式である。小地名の「岡本」の場合、王墓が発掘された旧農家の庭先、平地を指して居るのだから「岡」と呼ばれて居るのがすぐそばの熊野神社が先端に位置する丘陵部を指して居る事は疑いない所だろう。
この字地名は本来
春日村、須玖(大字)・岡本(中字)・山(小字)
という3段の別れ方をして居るのではないか。ここで「山(ヤマ)」と呼ばれている部分、これこそがかつてこの熊野神社を先端部とする丘陵部の本来の古名だったのではないか。
- かつて現在の熊野神社を先端部とする丘陵部分は「山」と呼ばれていた。
- のちに同じ場所を「岡」と呼び、その麓を「岡本」と称する呼称がうまれた。
- この地域は春日の中の須玖に属して居たから他の地域の「岡本」と区別するために「須玖岡本」と連称するようになった。
- 以上の歴史的経過を背景としてこの熊野神社の地番を「筑紫郡 春日村 (大字) 須玖岡本 山 781」と称するようになった。
以上はかいつまんだ古田武彦氏の推論である。参考:「よみがえる俾弥呼 邪馬壹国の原点」
一般には此処を奴国としているらしいが、糸島郡が伊都国、奴国の地である。倭人伝中に「常に人あり。兵を持して守衛す。」と言い、その兵が「矛・楯・木弓」を持ち、その木弓の形状や竹箭・鉄鏃・骨鏃が付いていた事が書かれている。この倭国の中枢部にはこれらが数多く存在していた事を意味する。ことに銅戈・銅矛のような腐食せざる物に関しては、其の実物や鋳型がかなり数多く倭国の中心部から出土する筈である。また銅鏃ではなく鉄鏃が用いられた形跡が必要である。してみれば鉄器不在と言える近畿弥生期の大和(銅の鏃が大量出土する)は論外となる。
倭国中枢部は「弥生の大和」ではありえず「弥生の筑紫」ことに「筑前中域」の出土物の特徴と整合する。さらに夥しい製造物の出土状況の違いから糸島郡は倭国の首都、邪馬壹国ではありえない。東京に対しての横浜のような都市であり、軍港としての機能も持ち合わせて居たのではないか。信仰の中心を古来「お山」と呼ぶ。須玖岡本の丘陵は尊崇する「お山」的、つまり政治的宗教的権威の中枢地としての「山」であったのではないだろうか。邪馬壹国の「邪馬 」は自然地名の「山」ではないことは確かである。
王墓群を見下ろす、見下す位置取りに宮殿があった。そう考えると、やはり先住した支配者への侵略を思わせる。熊野神社は恐らく熊襲系の祖先神を祀る神社であろうから、俾弥呼は熊襲族と記述された和田家文書が思い起こされるのである。