倭姫巡行

倭姫巡行

倭姫は垂仁の第4子とされている。時代は俾弥呼、壹與と同時代、3世紀から4世紀の女性である。日本書紀には時代性は求められないから、以外と天孫降臨時期の九州の女王の事績を3世紀から4世紀に嵌め込んだものかもしれない。

「倭姫命世記」が「日本書紀」「古事記」よりも詳細に倭姫巡行の足取りを描いている。しかし「倭姫命世記」は鎌倉時代に成立した伊勢神宮および籠神社に伝わる神道書で、伊勢の斎宮歴史博物館の学芸員の方のホームページは「この『倭姫命世記』を信じる人が多くて困るが、この本は鎌倉時代以降の神道書であって、歴史書としては扱えない」ものであるとしている。

伊勢の斎宮歴史博物館の学芸員の方が「歴史書としては扱えない」と言っている物を、わざわざと「歴史書」として考察する愚を犯すのは大火傷を負う行為、或いは火中の栗を拾う行為で有ろうが、敢えて考察する。

たたなめて 伊那佐いなさの山の よも いきまもらひ たたかへば われはやぬ 島つとり 鵜飼うかひとも 今けに来ね「古事記」神武歌謡

倭姫の前代の豊鍬入姫の巡行地は丹波乃吉佐宮→倭国伊豆加志本宮→木之国奈久佐浜宮→吉備国名方浜宮→倭弥和之御室嶺上宮である。最初の出発地丹波の吉佐宮は但波はタタナミ、吉佐はイナサで“たたなめて いなさの山の‥”(神武記)の地である。「国譲り神話」の最初に「出雲国の伊那佐の小浜に降り到りて、、」とある出雲国の出雲郡、島根県の北西海岸、出雲大社に近い所のことである。

次の倭国伊豆加志本宮とは仲哀紀に見える伊覩手₍伊蘇志₎の居た地域の宮。伊覩は現在の門司港辺りと考えられる。伊覩の加志₍かしい₎本宮と読み下せる。現在の香椎に有った香椎宮の事である。木之国奈久佐浜宮とは、九州基山に宮殿を構えていた紀楼女王₍神宮紀₎の記述から、紀国₍倭国の古い時代の呼び名₎の八代市日奈久町奈久佐浜宮である。日奈久温泉がある場所である。「肥前風土記」にも「…熊襲を討して筑紫の国にいでます時、芦北の火流浦より火の国に幸せんと海を渡り給う…。」とあり、火流浦₍ひながうら₎が「ひなぐ」である。

吉備国名方浜宮は名前通り吉備国の名方浜宮と解するのも一つだが、岡山の吉備津神社、吉備津彦神社の周辺は古代には「穴海」と呼ばれ、現在の安芸の宮島のように、瀬戸内海に浮かぶひとつの島だったと言う。「穴海」という形容は「宍戸」に対してこそふさわしい。門司港辺りからいきなり岡山駅の西側の「吉備の中山」では巡行には遠過ぎる。宍戸₍山口県下関市₎の唐戸の亀山宮が巡行と言うにはぴったりとくる。香椎から船で上陸できる場所である。そうは言っても、岡山市中区賞田にかつて「中田村」があり、これが「名方浜」だったのではないかとも言われ、賞田の近くには備前国府址があり、太宰府、防府、越智国府を置いて居た九州王朝の版図、支配領域で有った事は間違いないだろう。

倭弥和之御室嶺上宮とは倭の弥和の御室の嶺の上の宮と読めるので現在の福岡県三輪町付近の山間に有った宮だろう。あの辺りは山に囲まれ、どの山が三輪山であっても異論のない場所である。

豊鍬入姫は宇太乃阿貴宮に至って、その後は倭姫に仕事を託す。

豊鍬入姫の巡行地は丹波乃吉佐宮→倭国伊豆加志本宮→木之国奈久佐浜宮→吉備国名方浜宮→倭弥和之御室嶺上宮と描かれているが、これは実は順路が違うのではないのか。倭弥和之御室嶺上宮₍福岡県三輪町の山間の宮殿₎→木之国奈久佐浜宮₍八代市日奈久温泉駅付近₎→倭国伊豆加志本宮₍北九州香椎₎→吉備国名方浜宮₍山口県下関市の亀山宮₎→丹波乃吉佐宮₍出雲伊那佐の小浜₎で有るのであれば、そのまま出雲侵略の経路となる。豊鍬入姫、倭姫巡行記録である「倭姫命世記」は本当は天孫降臨で新たな支配地を得た九州倭政権が対馬から祖先神阿麻氐留を勧請した物語ではないのか。

宇陀うだの 高城たかきに 鴫罠しぎわな張る 我が待つや 鴫はさやらず いすくはし 鯨さやる 前妻こなみが 菜乞はさば たちそばの 実の無けくを こきしひゑね 後妻うはなりが 菜乞はさば いちさかき 実のおほけくを こきだひゑね ええ しやこしや こはいのごふぞ ああ しやこしや こはあざわらふぞ
 是これを来目くめ歌と謂ふ。今、楽府に此の歌を奏うたふときには、猶なほ手量たはかりの大きさ小ささ、及び音声の巨ふとさ細さ有り。此これいにしえの遺式なり。」(『日本書紀』神武天皇即位前紀)

とある。神武らの故郷、糸島半島の宇田川原における鯨の身の分配の歌である。となれば、豊鍬入姫は糸島半島の宇田川原にある阿貴宮に至って旅路を終えた事となる。博多湾岸のこの地域は九州王朝の都が有った地域である。

倭姫は菟田筱幡の佐佐波多宮に滞在したとある。天孫降臨・記に“拝祭佐久久斯侶、伊須受能宮”とあり、佐久久斯侶₍サククシロ₎は拆釧と当てられ、五十鈴にかかる枕詞という。伊須受能宮=五十鈴宮。

神功摂政前紀に仲哀を諌めた神の名を尋ねる皇后に“乃答曰、神風伊勢國之百傳度逢縣之拆鈴五十鈴宮所居神、名撞賢木嚴之御魂天疎向津媛命焉。”とある。

神風の伊勢の国の、ももづたふ度逢県₍わたらいのあがた₎の拆鈴₍さくすず₎五十鈴宮₍いすずのみや₎に居る所の神、名は撞賢木厳之御魂天疎向津媛命。

つきさかき=榊に宿る

いつのみたま=生命力に満ち溢れた御魂

あまざかる=天から離れる

むかつびめ=向かう女性

 

和銅6年₍713年₎に、元明天皇は「畿内七道諸国の郡郷には好字を用いよ」という詔を発した。「諸国の郷里の名は二字とし、必ず佳名を取れ」。とした。「諸国の郡・郷の名に好き字をつけよ」の「好字令」である。平安時代の中頃の967年に「諸国の郡・里などの名は、二字を用い、かならず嘉名とせよ」の令が出されている。このため、

木の国 → 紀伊国

泉の国 → 和泉国

和(やまと)の国 → 大和国

襞(ひだ)の国 → 飛騨国

越の国 → 越前・越中・越後

毛の国 → 上野・下野

総の国 → 上総・下総

吉備(黍・きび)の国 → 備前・備中・備後

筑紫の国 → 筑前・筑後

火の国 → 肥前・肥後

豊(とよ)の国 → 豊前・豊後

等となり、古代地名は上書きされている。

佐久久斯侶₍サククシロ₎、九代。八代は古代には「九代」で有ったのかもしれない。「百済記」は貴国₍基山ーー基肆城に権力中心があった₎時代の記述であり、対外的に九州倭政権がその初現期に「貴国」と呼ばれていた事を示している。古代文献に見える「木の国」は「紀伊国」に有らず。九州倭政権の歴史を近畿天皇家の物と錯覚させるための詔が「好字令」である。

日奈久」も「奈久佐」も中心地名は「奈久」であり、木之国奈久佐浜宮は八代市南西部、八代海と天草諸島を望む海辺に湧く日奈久温泉の地に有ったと思われる。日奈久温泉駅から徒歩10分の場所には、田川内古墳₍装飾古墳₎があり、聖徳太子の師である日羅の墓と言われている。日羅は芦北の国造₍くにのみやつこ₎の子とされている。

天孫降臨期に猿田彦が帰るところが“伊勢之狭長田五十鈴川上”₍日本書紀第1一書₎である。天孫降臨時期の猿田彦の居た場所と言えば、九州しか考えられない。

向津媛は津に向かう地の女神である。

熊本県八代の球磨川河口付近は天草の津崎に向かって居る。神武の久米歌には以下の物もある。
神風かむかぜの 伊勢のうみの 大石おひしには ひもとほろふ 細螺しただみの いひもとほり 撃ちてしやまむ

意味は神風が吹く伊勢の海の、大岩にびっしり這いまつわってる、細螺(しただみ)のように、敵を隙間なく囲んで、やっつけずにはおるものか。となる。北部九州、前原市の西に加布里の港が有る。加布里港には”神在り”と呼ばれる場所、伊勢田がある。この場所には”大石”と言う地名もある。ここ、糸島湾₍加布里港₎が元・伊勢湾なのである。

糟屋郡久山町、伊野の天照皇太神宮は、天照大神が実際に生活した場所であると言う伝承を持ち、小郡市の御勢大靈石神社は地元では「お伊勢さん」で通っており、付近には伊勢浦、伊勢山と言った地名があり、伊勢山神社も有る。

倭姫命は天照大神の宮地を、伊勢の度会の五十鈴河上に定め終わったあと、「御膳御贄処」₍ご神饌を奉納する地₎を求めて淡海坂田宮に旅したと伝承する。倭姫は天照大神の宮地が決定したのに、さらに「朝の御饌、夕の御饌」を天照大神に奉献する地を探したことになって居る。

淡海に付いては「其レヨリ西ノ海中ニ、七個ノ嶋アリ、其レヨリ南、塩淡ク甘カリキ」とあり「淡海浦の西には嶋が七個あり、南も海で、塩の甘い所がある」海水と淡水が入り混じって塩味の薄い場所で島が7個見える場所だと読める。また、亜熱帯性植物「アコウまたはアコギ(赤生木)」が群生する土地であることを示す「阿漕が浦」の地名もある。

大方の九州王朝説の研究者はこの地を熊本県八代の球磨川河口に比定している。今ある伊勢神宮の傍の三重県の五十鈴川河口はほぼ北東を向いており、南を向いては居ない。西も南も海ではなく陸である。当然、西に七つの島などないのだ。

赤生木₍阿漕木₎は樹齢数百年のものも珍しくなく、海岸近くにしか生えない。この樹木が鬱蒼と茂る「阿漕が浦」、西に7つの島を遠望し、川が西の海に注ぐ地。これが伊勢である。現在の八代湾こそ古代伊勢なのである。

球磨川河口から、大築島を超えた天草上島には姫戸町があり、「姫の浦」「姫浦神社」「姫石神社」があり、この地域には阿漕木が生い茂っている。八代から姫戸迄の距離はkmほどだから「朝の御饌」「夕の御饌」を届けるにはぴったりの距離と言える。「阿漕が浦」のある塩の甘い土地。新たに八咫の鏡を祀る地を倭姫はここに定めたのだ。

にも拘らず一体なぜ籠神社が元伊勢と呼ばれているのであろうか。謎を解くカギは古代遺産にある。

このサイト内の「須佐之男」のページにも書いたが「能登半島を中心とした越前・越中・越後に渡る日本海岸、信州諏訪湖畔、野尻湖畔、和田峠の黒曜石を中心とする文明、長岡市を中心とする火焔式土器の文明、日本海に面したこの地域は縄文時代の卓越した文明圏を形成していた。能登半島の真脇遺跡は縄文の神殿、宮殿跡とも考えられる。小浜市の神宮寺には幾万幾千の神々がここに参集する、と言う伝承もある。」のである。

阿麻氐留の孫の邇邇芸は出雲王朝を打倒し、支配圏を確立した。古代出雲王朝の版図であった京都府宮津市に籠神社は有り、その神宝には後漢鏡が有る。籠神社が弥生期にいち早く三種の神器圏内に取り込まれ太陽崇拝の神器である鏡を神宝としていた事が伺える。現在の伊勢神宮に勧請されたのは「籠神社の豊受大神」ではなく「籠神社の天照大神」であったのだ。

現在の伊勢神宮に元々祀られて居たのは古くは荒覇吐神であり、縄文期からの女神、豊受大神であった。門前神として荒神が祀られ、前宮には豊受大神が祀られている。奥宮に天照大神が来た為に祀られる場所が変わったのである。伊勢神宮は20年ごとに遷宮すると言う。本来、近畿天皇家のご先祖ではないのに先祖神として籠神社から貰い受けた神なので大事にしなければならないのである。

また、籠神社の祀神は天照国照彦火明であり、天孫邇邇藝の兄弟神に過ぎない事も見逃してはならない。天照国照彦火明は海幸であると考えられ隼人族の祖である。邇邇藝は山幸彦であり、耶麻=山の皇統の始祖、邪馬壹国の祖である。それとは別の分流からの籠神社の天照国照彦火明をして近畿和政権は自らの祖としているのだから、その出自は推して知るべきである。

祀神が、元々は荒神であったり豊受大神であったりした伊勢神宮に天照大神が勧請されたのは8世紀以降だと考えられる。