出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)

出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)

文武大宝二年(702)
各地の国造が藤原京に召集され、新に制定され た大宝律令の領布とともに、「諸国国造の氏を定め、その名を国造記に詳しく載せる」と言う事になってしまった。

しかも、それまで国造の権限下にあった官倉の鎰も、中央から派遣する国司に委譲せよ、というもの。
出雲国造の名が意宇氏から出雲臣という氏名になったのも、このときから。 

神武紀に記述された歌謡「意佐加(おさか)の意富牟廬夜(おほむろや) 人多(さわ)に 来入り居り 人多(さわ)に 入り居りとも みつみつし 久米の子が 頭椎(くぶつつい) 石椎(いしつつい)もち 撃ちてし止まむ みつみつし 久米の子等が 頭椎(くぶつつい) 石椎(いしつつい)もち 今撃たば良らし」に謳われている「意佐加(おさか)の意富牟廬夜(おほむろや)」は佐賀の吉野ケ里遺跡の事と言われている。邇邇芸の天孫降臨時の唄が神武紀に盗用されて居るのだ。

意富氏の一族が生活する吉野ケ里を邇邇芸らの軍隊が襲った時の唄だと考察されている。大国主、大国の意富 だ。 

同じく神武紀の歌謡「楯並(たたな)めて 伊那佐の山の 樹の間よも い行きまもらひ 戦へば 吾はや飢ぬ 島つ鳥 鵜養(うかい)が伴(とも) 今助(す)けに来ね」の伊那佐は有明海側の有明町だ。杵島山地の東南に位置する所に稲佐山があり、稲佐神社もある。糸島からの食料補給が可能な地域である。この杵島山地一帯は昔、熊野の里と呼ばれており、北西の山には熊野神社、東側の須古には熊野小路という字地名が現存し、南西には久間町がある。

慶雲三年(706)  大宝律令の施行にともなって文武によって、出雲国でも評制から郡制にきりかえられ、それまで近隣の各評を統括していた出雲国造は、一つの郡に過ぎない意宇郡司に引き下げられた。評督・評制度は九州王朝の地域割り、行政区分だったから、近畿和政権に切り替わって郡制に切り替え、返す刀で出雲に対して再びの権力移譲を迫ったのである。邇邇芸の天孫降臨時に一度行われた「国譲り」を今度は近畿和政権に対して行えと言うのである。

和銅元年(708)元明女帝時代には、中央から派遣された貴族の出雲国司、正五位下忌部宿禰子首が着任している。

霊亀二年(716)出雲国造果安による神賀事の奏上があった。 果安は天穂日の後裔だという。

出雲國造神賀詞 (読み下し)
八十日日(やそかび)はあれども、今日の生日の足日に、
出雲国々造(某)、恐みかしこみも申し賜わく、
かけましくもかしこき明きつ御神と、大八嶋國しろしめす、
天皇(すめら)命の大御世を、手長の大御世といわいとなして
(もし後のいわいの時には後の字を加えよ)
出雲の國の青垣山の内に、 下つ石根に宮柱太く知り立て、
高天原に千木高く知りいます、
伊射那伎の日眞名子、 加夫呂伎(かぶろぎ)熊野大神、櫛御氣野命(くしみけぬのみこと)、
國作りましし大穴持命(おおなもちのみこと)、
二柱の神を始めて、百八十六(ももやそあまりむつ)社にいます皇神等(すめがみたち)を、
(それがし)が弱肩に太襷(ふとだすき)取りかけて、
いつ幣(ぬさ)の緒を結び、あめのみかびかぶりて、
いずの眞屋に、麁草をいずの席(むしろ)と苅り敷きて、
いつへ黒益の、あめのみかわに齋こもりて、志都宮に忌い静め仕へ奉りて、
朝日の豊榮とに、祝いの返事(かえりごと)の、神賀(かむほぎ)の吉詞(よごと)、
奏し賜はくと、奏す。
高天の神王、高御魂命の、皇御孫の命に、天の下大八嶋國を事避しまつりし時、
出雲臣等が遠ツ神、天穂比命を、國體見に遣はしし時に、天能八重雲を押別けて、
天翔り國翔りて、天ノ下を見廻りて、返事申し給わく、
豊葦原の水穂ノ國は、昼は五月蝿なす水沸き、
夜は火瓫 なす光く神あり、
石根・木立・青水沫も事問ひて、荒ぶる國あり。
然れども鎭め平げて、皇御孫ノ命に、安國と平けく知ろしまさしめんと申して、
己ノ命の皇子天夷鳥命に、布都怒志命をそえて、 天降し遣わして、
荒ぶる神等をはらい平け、
國作之大神をも媚び鎭めて、大八嶋國の現ツ事・顯事事よさしめき。
すなわち大穴持命の申し給わく、
皇御孫ノ命の静まり坐を大倭國と申して、
己ノ命の和魂を、八咫ノ鏡に取つけて、
倭ノ大物主櫛甕玉命と御名をたたえて、大御和の神奈備に坐せ、
己ノ命の御子阿遅須伎高孫根ノ命の御魂を、葛木の鴨の神奈備に坐せ、
事代主命の御魂を、 宇奈提に坐せ、
賀夜奈流美命の御魂を、飛鳥の神奈備に坐せて、皇孫ノ命の近き守神と貢り置きて、
八百丹杵築ノ宮に静まり坐しき。
是に親神ろき・神ろみノ命宣りたまはく、
汝天穂比命は、天皇命の手長大御世を、堅石に常石にいわいまつり、
いかしの御世にさきわへまつれと仰せ賜しつぎてのままに、
供齋(もし後のいわいの時には、後ノ字を加えよ)仕へまつりて、
朝日の豊榮登りに、神のいやしろ・臣のいやしろと、
御祷の神寶、たてまつらく、と奏す。
白玉の大御白髪まし、赤玉の御あからびまし、
青玉の水ノ江ノ玉の行きあいに、
明ツ御神と大八嶋國しろしめす、天皇命の手長大御世を、
御横刀(みはかし)廣らにうち堅め、
白御馬の前足ノ爪・後足(しりへあし)ノ爪、踏立つる事は、
大宮の内外の御門の柱を、上つ石根に踏堅め、
下つ石根に踏凝らし、振立つる耳のいや高に、
天下をしろしめさむ事のしるしのため、
白鵠(しらみどり)の生御調(いきみつき)のもてあそびものと、
倭文(しず)の大御心もたしに、
彼方(おち)の古川岸、此方(こち)の古川岸に、
生い立つ若水沼間の、いや若えに御若えまし、
すすぎ振るおどみの水の、いやおちに御おちまし、
まそひの大御鏡の面を、おしはるかして見そなす事のごとく、
明ツ御神の、大八嶋國を、天地日月と共に、安らけく平らけく
しろしめさむ事のしるしのためと、
御祷ノ神寶をささげもちて、神の禮白(いやしろ)・臣の禮白と、恐みかしこみも、
天ツつぎての神賀の吉詞、もほし賜はく、ともおす。  

2度に渡る権力移譲が必要となった8世紀は日本の権力者が交代した時期である。