出雲風土記

出雲風土記

出雲風土記中、「国造ー朝廷」間の関係を具体的に記述した2個のフレーズが有る。

国造神吉調望、参向朝廷時、御沐之忌玉、故云忌部。(意宇郡、忌部の神戸。細川・倉野・日御崎・六所、の四古写本)

故国造神吉事奏、参向朝廷時、其水活出而、用初也。(仁多郡、三津の郷)

出雲風土記全体の中にもっとも頻繁に出現する神は「天の下造らしし大神、大穴持命」である。34回に及ぶ。これに次ぐ出現回数の神は、須佐之乎命が12回、神魂命が8回、八束水臣津野命が6回、阿遅須柷高日子命が5回と続き、他の神々はそれ以下である。一回のみ出現の神々が多数を占める。出雲風土記に於いて大穴持命が主役であり「輝ける位置」を占めている。前述の「国造ー朝廷」間の関係を見るに、主役である大穴持命が朝廷である事は間違いない。出雲風土記は出雲の大神たる大穴持命を主人公とするストーリーであり、前述の2個のフレーズはその記述のただ中に出現するものなのであるから。

(母理の郷)天の下造らしし大神、越の八口を平らげ命らしし国は賜いて、還り坐す時、長江山に来り坐して詔す。「我が造り坐して、命らしし国は、皇御孫命の、平けき世と知らせと依さし奉る。但し、八雲立つ出雲国は、我が静まり座す国と、青垣山廻らし賜いて、玉珍直ちに賜いて守らん。」と詔す。故に文理と云う。(神亀三年、字を母理と改む。)

上記の大穴持命の詔の中に「我造坐而命国」という表現がある。統治を意味する言葉であるらしい「命国」と言う概念の前提として「国造」と言う概念が置かれて居る。文中、越、出雲という二つの国が出現して居る。ここに出現する国は複数だ。

仁多と号する所以は、天の下造らしし大神、大穴持命詔す。「此の国は、大に非ず小に非ず。川上は木の穂刺しかふ。川下はあしばふ這ひ度れり。是はにたしき小国なり。」と詔す。故に仁多と云う。(仁多郡、冒頭)

とあるように8世紀の時点では「郡」にあたるものが「大穴持命の時代」には「国」であったことが知れる。つまり「出雲」や「越」や「筑紫」などの複数、もしくは多数の国々があったと見られる。出雲風土記中、繰り返し出現する大穴持命の肩書「所造天下大神」の意味も判明してくる。大穴持命は「国々造り」の輝ける業績を持つ大神として、これに「天下造り」の大神としての定御が付いて居るのである。

この大神の支配領域下には、各地の「一国造り」(一国の支配者の義か)が存在した事となる。これに対し、その中央(杵築の地)に、「天下造り」として大穴持命が存在した。これが出雲風土記の示す基本的な権力構造、その配置形態となって居るのである。

前述の「国造ー朝廷」を含む二つのフレーズの中の「国造」とは「一国造り」を指す。その対語たる「朝廷」とは「天下造り」たる大穴持命の所在地を指す。大穴持命の所在地たる杵築の宮、出雲大社の地こそ出雲風土記の言う「朝廷」の在処なのである。

大穴持命の御子、阿遅須柷高日子命は、生長久しくしてなお口が利けなかった。父の命はこれを心配して八十嶋を連れ巡ったが治癒しなかった。ある夜、己が神に祈ったところ、治癒した夢を見た。目覚めて傍らに寝ていた御子に声をかけると、彼がはじめて口を利き、「三津」と言った。「何処の事か。」と聞くと、御子は立ち上がり、戸外に出、川を渡り、坂の上で立ち留って「ここ」と言った。その沢の水で御身を沐浴しておられるうちに、やがて口が利けるようになり、病は治癒した。

以上のような霊験譚が記せられた後に例のフレーズ

故国造神吉事奏、参向朝廷時、其水活出而、用初也。(仁多郡、三津の郷)

の一節に繋がって居るのである。

したがって、この「朝廷」に大穴持命とその御子、阿遅須柷高日子命の両者がいてこそ、仁多郡、三津の郷の霊泉で「用い初め」を行ってからやって来たと言う「国造」の行為が有意義となるのである。相手の朝廷側こそ、この霊泉の神秘をこよなく称賛している当事者なのであるから。

では「国造」の所在は何処であろうか。「国造」が「一国造」であり、8世紀当時の郡にあたる小領域であることは既に解って居る。この仁多郡の冒頭の例はその立証である。つまりこの三津郷の記事は本来「仁多国」中の記事だったのである。とすれば、その記事中に出て来る「国造」とは、当然「仁多国造」を指すものである。この仁多の地(現、仁多郡仁多町三沢、光田)は、斐伊川の上流に沿って居る。仁多国造にとって、早朝にこの霊泉で「用い初め」を行えば、斐伊川を舟で下る時、昼前後には容易に杵築の宮に到着できたであろう。当時の斐伊川が現在のように宍道湖へ東流するのではなく、杵築の宮の方角へ西流していたことはよく知られて居る。

国の大体、首震尾坤、東南山、西北属海、東西一百九里一百九歩、南北一百八十三里一百七十歩。〈国の大きな体(かたち)は、震(ひむがし)を首(はじめ)とし、坤(ひつじさる)のかたを尾(おわり)とする。東と南とは山にして、西と北とは海に属けり東西(ひのたて)は一百九里一百九歩(あし)、南北(ひのよこ)は一百八十三里一百七十歩(あし)。〉岩波古典文学大系本、95ページ

上記は現在の「出雲風土記」の冒頭とされているが、この本文は出雲の実地の大体に反している。「東と南は山にして」と言って居るが、美保関の東には海が有り、米子の付近は平野なのである。山に面して居るのは南だけである。出雲風土記は本来、出雲人が出雲人のために伝承して来たものである。それなのに何故、出雲の地理に無知なのであろうか。この原因は上記の「国の大体」文章が一切の古写本に存在して居ない、という一点にある。真の原文は以下のようであった。

国の大体、首震尾坤、東南。宮北属海。東、一百九里一百九歩、南北一百八十三里一百七十歩。〈国の大きな体(かたち)は、震(ひむがし)を首(はじめ)とし、坤(ひつじさる)のかたを尾(おわり)とする。東と南なり。宮の北は海に属す。東は、一百九里一百九歩、南北一百八十三里一百七十歩。〉細川本・倉野本・日御埼本・六所神社とも皆上記が本文である。

(恵曇の郷)須作能乎命の御子、磐坂日子命、国巡り行き坐しし時、此処に至り坐して詔す。「此処は、国権美好、国形画鞆の如く有る哉。吾の宮は是此に造る者なり。」と。故に恵伴と云う。(神亀三年、字を恵曇と改む)〈秋鹿郡、恵曇郷〉

楯縫と号する所以は、神魂命詔す。「五十足る天の日栖の宮の縦横の御量は、…此の天の御量持ちて、天の下造らしし大神の宮を造り奉れ。」と詔して、…大神の宮の御装束の楯を造り初め給いし所、是なり。〈楯縫郡、冒頭〉

(杵築の郷)八束水臣津野命の国引き給いし後、天の下造らしし大神の宮を造り奉らむとして、諸の皇神等、宮処に参集いて、杵築きき。故、寸付と云う。(神亀三年、字を杵築と改む)〈出雲郡、杵築郷〉

「吾の宮」や「天の日栖の宮」が通常的な「宮」であるのに対して「大神の宮」が「杵築の宮」を指して居る事は疑いようも無い。宮処もまた、「杵築の宮」であることも疑えない。「杵築の宮」が大穴持命の宮殿として造られた。この宮の主人である大穴持命の特出した立場がよく表れて居るのだ。

以上の状況から見るとこの出雲風土記冒頭の「宮」が、この「杵築の宮」を指す事は明らかでは無いだろうか。その立場から「杵築の宮」から周辺を捉えた地理関係は「国の大体は…東と南なり」地図で見ると「杵築の宮」を原点として見る時、出雲の地形は大体東と南に広がって居る。その上、「震」(東)を首とし、「坤」(西南)を尾とする、という表記も文字通りである。「宮の北は海に属す」杵築の宮の北方には日本海が広がって居る。この表現も正確である。「東は…」この一句は徹底的な意味を持つ。杵築の宮の西は海で有り、陸の領域は殆ど存在しない。「東西」ではなく「東」とした各古写本の表現は「宮」を原点とした表記として的確なのである。

「東南宮北属海 今按、東南山北属海といふ句なるべし。山西の二字を転写誤りて宮の一字に作りたるならん。」すえにも国を誤りて宮に作りたる所も見えたり。」〈荷田春満「出雲風土記考」〉

出雲風土記研究の源淵とも言える春満「出雲風土記考」、その冒頭に現れて居るのが上記文章である。ここには原文校定本の原由が明白に加tられている。つまり「山西」の二字がいずれの写本にも無かったこと、それが春満の考え出した一アイデアに過ぎない事、この事実を「今、按ずるに…」以下の文章が示して居るのである。この原文改定は後続の国学者、内山真竜によって、論理的に発展させられた。各写本とも「東」とのみあるものを「西」を補い「東西ー里―歩」の形式への訂正を行った。こうして出雲の純地理的表記としての原文校定文が出来上がったのである。

この原文改定は重大なイデオロギー上の改変である。各古写本の原文の場合、「宮」とは「杵築の宮」の事であり、「東」とあって「西」がない表記が「杵築の宮中心表記」で有る事は この宮を原点とした表記である事を示している。出雲風土記の語り手は「杵築の宮」を中心に伝承と記述を語って居るのである。その 杵築の宮は大穴持命が中心の所在とした所である。彼の「天の下を造らしし」業績はここを中心に行われ、ここから「天の下」に分布する、幾多の国々への統治や巡行が行われて居たのである。

このような見地から読み進めば「国造ー朝廷」を含む文面も、これを「天の下を統治し、巡行すべきその原点」たる朝廷とその統治下の「国」の国造との間の関係として素直に理解すべき道が開かれて居た。出雲風土記の文面であるから「出雲に於ける朝廷」と「その朝廷の元の国造」のお話なのである。それは何らの不思議もない所なのである。

しかし、文面改定しての理解方法は春満や宣長、また真竜等の国学者達にとって、決して採用できないタブーに属した。彼らは「他国はともかく我が国では「朝廷」と言えば大和朝廷に限るべし」という実証以前の超命題が彼らの脳髄を掴んで離さなかったからである。彼らは出雲風土記冒頭の「宮」の一字を削った。後続者はそれに呼応するように「西」の一字を加筆した。「宮」の一字は彼らの「大和朝廷一元史観」にとって不穏当に見えた。なぜならそれは「杵築の宮、中心記述法」によって出雲中心の古代社会の存在を暗示していたからである。

それを「大和を中心とした一地方の地理・風物誌」というイメージに合わせて改変したのである。その結果、最初に出した問題の「朝廷ー国造」のフレーズも「出雲国造ー大和朝廷」間の関係を示すものとして読み替えられた。春満が眼前の「宮」の一字を「山西」の写し誤りと見做す、大胆な改削を実行した時にも彼はこれを本文を正しく復元する、つまり改正だと思い込んでいた筈である。それは三国志魏志倭人伝の中心をなす肝心の国名を邪馬壹国ではなく邪馬臺国と改定して天皇家の中心拠点たる大和に合わせようとした松下見林と同様の時代的手法で有った。このような近世的手法は、明治・大正・昭和と継承されて行った。

「朝廷ー国造」 という図式、権力機構の構造図は常に近畿天皇家の物として理解され処理されて来た。しかし荒神谷遺跡、加茂遺跡、出雲大社境内遺跡、西谷墳墓群  などの出土事実からも古代出雲に巨大な王権が有った事を否定できる根拠は無い。「朝廷ー国造」  という権力構造は実は近畿天皇家の先住した古代出雲の行政機構の模倣であった可能性が高い。もっとも出雲に国譲りを強要し権力を奪取したのは九州倭国であるから、九州倭国が最初に出雲に学び、真似て拡大的に継続した支配機構であったものを8世紀初頭に支配権を得た近畿天皇家がそのまま継承したのであろうと思われるのである。

〈参考文献:日本国はいつはじまったか 卑弥呼の真実 古田武彦著〉