卑弥呼と俾弥呼

卑弥呼と俾弥呼

魏志倭人伝は、中国の歴史書『三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条の略称である。この倭人条に倭の女王「卑弥呼」の名は計5回出ている。

  1. 其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歷年、乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼
  2. 制詔 親魏倭王卑彌呼  帶方太守劉夏遣使 
  3. 倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和
  4. 卑彌呼以死  
  5. 復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王  

中国の正史は、帝紀(天子の各代別)・列伝(主要な臣下・夷蛮の国などの編目別)の2つに分かれている。他に「志」のあるものもある。これは各種事項別の記載である。夷蛮伝などは列伝の末尾にあるのが普通である。倭人伝は夷蛮伝(烏丸・鮮卑・東夷 )の最末にある。

同じ「三国志」の冒頭、「帝紀」にもう一つ、倭王に関する記述がある。

正始4年(243年)冬12月、倭国女王俾弥呼、使を遣わして奉献す。

同じ「三国志」中の帝紀と偉人伝の倭女王名の字面が違うのだ。

正始元年(240年) 倭王(卑弥呼)、使(魏使)に因って上表し、詔恩を答謝す。

明らかに卑弥呼は上表文を書き、魏使に託しているのだ。上表文の自著名は「俾弥呼」と書かれていた。この上表文の直後の記事、それが三国志帝紀に反映されたのである。

景初2年6月(238年)に倭の女王は大夫の難升米と次使の都市牛利を帯方郡に派遣して天子に拝謁することを願い出た 。帯方太守の劉夏は倭女王の使者を都に送り、倭の使者は男の生口(奴隷)4人と女の生口6人、それに班布2匹2丈を献じた。12月、皇帝はこれを歓び、女王を親魏倭王と為し、金印紫綬を授け、銅鏡100枚を含む莫大な下賜品を与え、難升米を率善中郎将と為し、牛利を率善校尉と為した。こと時は使者による口頭の紹介で有ったので中国側は卑弥呼の字面を倭国女王の名前に当てた。難升米の難は中国に今もある苗字である。難升米は中国からの帰化人ででもあろうか。難升米が中国語で天子に口上を述べたと考えられる。

景初3年(239年)1月1日に前年の12月8日から病床についていた(『三国志』裴注引用 習鑿歯『漢晋春秋』)魏の皇帝である明帝(曹叡)が死去。斉王が次の皇帝となった。つまり明帝時代の倭王は卑弥呼と書かれ、斉王時代の倭王は俾弥呼と書かれたのである。

周朝第2第の天子、成王の時に倭人が朝見してきた事が尚書に書かれている。

海偶、日を出す、率俾せざるは罔し (尚書周公の条 )

率俾とは天子に臣服すると言う意味だ。海の果て、日の出ずるところまで 臣服しないものはいなくなった、と言うのである。

尚書の冒頭部には島夷についての記述がある。

島夷皮服(注、海曲、之を島と謂う。其の海曲、山有り。夷、其の上に居るを謂う。)             成王の言う「海偶、日を出す」ところから来た「島夷 」とは倭人の事なのだ。「三国志」の東夷伝序文の一節には「長老説くに、異面の人有り。日の出る所に近し、と」と書かれている。倭人伝の最初には「(倭人)山島に依りて国邑を為す。」とある。尚書に記載された「島夷 」の項を背景にして倭人伝は書かれているのだ。

「三国志」の著者である陳寿も、その読者たる洛陽の知識階級も、共にその教養の基礎に尚書があったのだ。三世紀、倭国の俾弥呼の宮廷に仕える文官にも、尚書の教養があったことは確実だろう。尚書の知識無くして一国の文官など務まりはしない。そして、その尚書の中の東方海上の夷蛮、島夷について書いてある記述は上記の2か所程度だ。したがって卑弥呼の宮殿に仕える文官がこの尚書の箇所に注目したのは当然である。そしてそこに現れた由緒ある「率俾」の文字の中の一語、「俾 」を女王の名に使ったのだ。

この、倭国からの上表文中の、曲拠ある文字使用を見た中国の天子と朝廷の官僚たちは、いっせいに尚書の中の周公の時代の「率俾」の故事を思い起こしたことだろう。

後漢の王充の『論衡』には

「周時天下太平 倭人來獻鬯草」(異虚篇第一八)                          周の時、天下太平にして、倭人来たりて暢草を献ず

「成王時 越裳獻雉 倭人貢鬯」(恢国篇第五八)
成王の時、越裳は雉を献じ、倭人は暢草を貢ず


とあり、倭人が成王の時代に貢献した事が述べられている。三世紀、いやもっと以前から、倭人は文字を知っていたのである。どころか、日本列島に移り住んだ時点から、文字文化は持って来ていたと考えることが、寧ろ自然ではないだろうか。三世紀、卑弥呼の朝廷内では、既に尚書が読まれていたのである。

参考資料 古田武彦著「邪馬一国の証明」