南斉書「倭国伝」の証言

南斉書「倭国伝」の証言

「倭国。帯方の東南大海の島中に在り。漢末以来、女王を立つ。土俗すでに前史に見ゆ。
建元元年、進めて新たに使持節・都督、倭・新羅・任那・加羅・泰韓(慕韓)六国諸軍事、安東大将軍、倭王武に除せしむ。
号して鎮東大将軍と為せしむ。」

以上は南斉書「倭国伝」の文である。「宋書」の倭王武の上表文(昇明2年・西暦478年)の翌年の南斉代の綬号記事に当たる。
魏志倭人伝の「倭人は帯方の東南、大海の中に在り、山島に依りて国邑を為す。」との先文を踏襲し書かれて居る事は明白。「漢末以来、女王を立つ。」と言って居るのは魏志倭人伝の中に書かれた女王俾弥呼、及び壱與を指している。「土俗すでに前史に見ゆ。」とは三国志「魏志倭人伝」の記述を指す事も明白であろう。

この南斉書「倭国伝」の著者は蕭子顕。南朝の官僚である。南朝の宋・斉・梁の3朝に仕えた。中国南朝の天子の側に持し、殿中の奏事を司る高官であったから、倭王武の使者たちに対応し、中国の天子の傍らにあって直接面接し、応答して居た人物なのである。その人物が「この倭王武は三国志魏志倭人伝に書かれた女王たちの後継王朝の王である。」とはっきりと言って居る。

この王朝は「帯方の東南大海の島中に在り。」と言っており、場所は明確に九州島である。

「宋書倭国伝に「倭王武の上表文」が載っている。478年に兄の倭王興が死去、弟である倭王武は即位すると直ぐに、宋に朝貢。このとき、宋の最後の天子である順帝に上表した文書がこれである。

「封国は偏遠にして藩を外に作る。昔より祖禰躬(そでいみずか)ら甲冑をつらぬき、山川を跋歩し、寧処(安心して生活する)に遑(いとま)あらず。東は毛人を征すること55国、西は衆夷を服すること66国、渡りて海北を平らげること95国。・・・臣は下愚なれども忝(かたじけなく)も先緒を胤(つ)ぎ、…以って忠節を勧む。」と倭王武は上表文で言って居る。

「東は毛人を征すること55国、西は衆夷を服すること66国、渡りて海北を平らげること95国」の海を隔てた北の地は韓半島である。韓半島を北と呼べる地は何処か。それは九州島である。任那や安羅を領有し、百済を盟友として助ける立地条件にある地は何処か。それは九州島である。以下に倭王武に関する中国の文書、及び韓半島文書を記載する。

・477年₍昇明1年₎11月、遣使して貢物を献ずる。『宋書』順帝紀

これより先、興没して弟の武立つ。武は自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王」と称する。『宋書』夷蛮伝

・478年₍昇明2年₎上表して、自ら「開府儀同三司」と称し、叙正を求める。順帝、武を「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」とする。『宋書』順帝紀

・479年₍建元1年₎南斉の高帝、王朝樹立に伴い、倭王の武を「鎮東大将軍」(征東将軍)に進号。『南斉書』倭国伝

・482年 五月に倭人が辺境を攻める。三国史記(新羅本紀)

・486年 夏四月に倭人が辺境を攻める。三国史記(新羅本紀)

・500年 春三月 倭人が長峯鎮を攻め陥した。三国史記(新羅本紀)

・502年₍天監1年₎4月、梁の武帝、王朝樹立に伴い、倭王武を「征東大将軍」に進号する。『梁書』武帝紀

倭王武は477年に王朝を継ぎ少なくとも502年まで帝位に付いて居たようである。在位25年。日本書紀の言う近畿の天皇家とは全く無関係な王朝の、これが史実なのである。古田武彦氏はその著書「失われた九州王朝」で邪馬壹国の女王俾弥呼と壹與から倭の5王に至るまでの間に在位した九州王朝の王の一人として七支刀(奈良県天理市石上神社所蔵)の金石文に見える「倭王旨」に着眼された。

七支刀銘文に依れば、この刀は泰和4年(西暦369年)に百済王が造り、倭王旨に贈ったと有る。

福岡県久留米市にある大善寺はこの倭王旨との関連が深い寺院と目されて居る。寺の御由緒に依れば玉垂命が仁徳55年(367年)にこの地に来て翌年の368年にこの地の賊徒、肥前国水上の桜桃沈輪(ゆすらちんりん)を退治し、369年にこの地に御宮を造営し筑紫を治め390年にこの地で没したとある。七支刀が倭王旨に贈られた年も369年。百済王は新宮を造営したお祝いに七支刀を倭王旨(玉垂命)に贈ったと考えられる。と古賀達也氏も論文を出されて居る。

369年当時、倭国百済連合軍は新羅と交戦しており現地の寺社仏閣にも新羅軍が博多湾内部糸島にまで攻めて来たとの記録が残って居ると言う。七支刀に見える銘文「百連鋼の刀を作る。すすんで百兵をしりぞく」と言う文も他国と交戦中ならではの現実の反映だと思える。九州北岸に宮殿を構える事の危険を感じた玉垂命(倭王旨)及び九州王朝は久留米市の水沼(高良大善寺)の地に新宮を造営したのだろう。九州王朝の遷都である。

万葉集に「おおきみは 神にしませば 水鳥の すだく水沼を 都となしつ」(4261 詠み人知らず) との古歌があり、水沼の大善寺に都を置いた事が知れるのである。

玉垂宮資料によると玉垂命は仁徳78年(西暦390年)に没して居るから、倭の5王の最初の王、讃の直前の倭王だと考えられる。「宋書」で見る讃の朝貢記事は永初2年(421年)とある。「梁書」に「晋安帝の時、倭王讃有り」と書かれて居て東晋の安帝(在位390~418年)の頃には即位して居たと考えられるのである。

「高良社大祝旧記抜書」(元禄15年成立)によれば玉垂命には9人の皇子がおり、長男斯礼賀志命は朝廷に臣として仕え、次男朝日豊盛命は高良山高牟礼で筑紫を守護し、その子孫が累代続くとある。この記録を基に考えるなら玉垂命の次男が跡目を継ぎ、その子孫が累代相続して居ると言う事になる。

玉垂命を倭王旨とすれば、その後を継いだ長男は倭王讃となり、讃の後を継いだのが弟の珍とする宋書の記事「讃死して弟珍立つ」との記事と一致する。玉垂命の長男斯礼賀志命が倭王讃であり玉垂命の次男朝日豊盛命が倭王珍で、倭王珍(朝日豊盛命)の子孫が代々の倭王なのだと考えられるのである。

古賀達也氏は上記の推論と共に久留米市三瀦(みずぬま)地方の古墳群(御塚・権現塚・銚子塚)が倭の5王の墳墓である可能性も指摘されて居る。

日本書紀での七支刀記事は神功皇后紀(神功52年・西暦252年)に入れられて居る。日本書紀を編纂した文官が単純に百済系史書にあった記事を単純に干支2巡繰り上げて挿入しただけとも考えられるけれども、「筑後国神名帳」の「玉垂姫神」や大宰府管内史「袖下抄」にある「高良山と申すところに玉垂の姫はますなり」との記述、糸島、博多湾岸での新羅との交戦記事に「大垂姫」の活躍がある所をみても、倭王旨(玉垂命)は女性であった可能性が高い。俾弥呼・壹與の事績を神功皇后の事績として取り込んだ同じ手口が日本書紀中の七支刀記事に感じられる。倭王旨(玉垂命)の事績を神功皇后の事績として記載して居る可能性が十分ある。女帝の事績だったから神功紀に記載したと見られる。

久留米市三瀦(みずぬま)の高良大社は御神宝として三種の神器を持つ。高良大社の御神幸祭では三種の神器がおおらかに行列中に繰り出される。伊勢神宮も熱田神宮も三種の神器3つを供え持って居る訳ではない。日本国中の何処の神社にも三種全てを備えている神社は皆無だ。しかも高良大社は「神功皇后の三韓征伐」で使われたとされる「満珠・干珠」の神宝も所蔵している。

高良大社文書「高良紀」(中世末期成立)には「大并(高良大菩薩)、クタラヲ、メシクスルカウ人トウクタラ氏二、犬ノ面ヲキセ、犬ノ スカタヲツクツテ、三ノカラクニノ皇ハ、日本ノ犬トナツテ、本朝ノ御門ヲ マフリタテマツルヨシ、毎年正月十五日二是ヲツトム、犬ノマイ 今二タエス、年中行事六十余ケトノ其一ナリ」とある。

百済からの人質が犬の面を付けて日本の朝廷の守りとなって毎年正月15日に犬の舞を舞う行事が今も高良大社で続いて居ると言う文書なのだが、玉垂命がこの地に宮室を置いた4世紀末から5世紀初頭にかけて百済王族が捕虜になって居る事を示している。

「王、倭国と好を結び太子腆支を以て質と為す」阿莘王6年(397年)五月条
「腆支王(在位405~415年)、阿莘の在位3年の年に立ちて太子となる。6年、出でて倭国に質す」第三、腆支王即位前紀

「三国史記」によれば397年に百済の皇子腆支王が倭国に人質となって来ていたのだ。玉垂命が390年に没しているので倭王讃の時代の事となる。「日本書紀」応神8年3月条に百済紀からの引用として腆支王の来朝が書かれているが、高良大社の記録ほどは詳しく書かれてはいない。そればかりか近畿天皇家に百済の犬舞の行事などない。百済の皇子が人質として来た場所は高良大社であり、近畿などでは無いのだ。

これより後402年には新羅の第17代王・奈勿尼師今の第三王子、未斯欣まで人質として来朝した事を考えると東アジアの軍事バランスが倭国優位だった事が覗える。倭の5王が中国南朝に対して度々朝鮮半島の支配権を認める事を要求して居たのも、こうした時代背景が関係して居たと考える事が極めて自然だ。

『三国史記』巻四十五列伝第五にある朴提上伝には朴提上による未斯欣奪還事件が描かれて居る。これを読んでも未斯欣が捉えられていた場所は海流に乗って新羅に逃げ帰れる海沿いの場所であり、到底近畿では無い。対馬海流に乗って北上できる場所以外に考えられず、未斯欣が人質として暮らした場所も高良大社であったであろうと思われる。更にこの事件は新羅の訥祇王(在位:417年 - 458年)の時代におきたことは明らかなので、5世紀前半の出来事である。「日本書紀」神功紀に未斯欣の逃亡事件が記載されて居るのだから、この日本古代政府のお墨付きの書物が、いかにいい加減な海外文書の切り張りから成り立って居るのかの証明であろう。

大善寺には「大善寺は玉垂宮に仕える防中一山の惚名なり、古ノ座主職東林坊絶て其跡に天皇屋敷と名付けて残れり」との遺文がある。

 

 

 

 

 

・477年₍昇明1年₎11月、遣使して貢物を献ずる。『宋書』順帝紀

これより先、興没して弟の武立つ。武は自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王」と称する。『宋書』夷蛮伝

・478年₍昇明2年₎上表して、自ら「開府儀同三司」と称し、叙正を求める。順帝、武を「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」とする。『宋書』順帝紀

・479年₍建元1年₎南斉の高帝、王朝樹立に伴い、倭王の武を「鎮東大将軍」(征東将軍)に進号。『南斉書』倭国伝

・482年 五月に倭人が辺境を攻める。三国史記(新羅本紀)

・486年 夏四月に倭人が辺境を攻める。三国史記(新羅本紀)

・500年 春三月 倭人が長峯鎮を攻め陥した。三国史記(新羅本紀)

・502年₍天監1年₎4月、梁の武帝、王朝樹立に伴い、倭王武を「征東大将軍」に進号する。『梁書』武帝紀

478年の倭王武の朝貢は自らの即位挨拶の為である。479年と502年の記録はそれぞれ南斉・梁の建国時₍479年・502年₎のもので、将軍号が授与されているのは倭国が新王朝に祝賀の朝貢をしたからだろう。当時の周辺諸国は新王朝の誕生に素早い動きをしている。478年₍昇明2年₎5月の倭王武の上表文は端麗な中国語で書かれており、5世紀時点の倭の王者自身が語った倭王朝の歴史が端的に語られている。この翌年の479年4月に宗王朝は滅亡している。倭王武は479年にも新王朝に朝貢して祝賀の挨拶を述べたであろう。しかし、この時、倭王武は中国南朝の権威が落ちてきているのを感じただろう。鶴峯 戊申の「襲国偽僣考」によれば継体16年壬寅、梁の普通3年(522年)に「善記」と言う年号を立てている。

「封国₍中国から倭王の任命を受けて来た我が国₎は偏遠にして藩₍地方を鎮めて天子の守りとなる国₎を外に作る。昔より祖禰躬(みずか)ら甲冑をつらぬき、山川を跋歩し、寧処(安心して生活する)に遑(いとま)もありませんでした。東は毛人を征すること55国、西は衆夷を服すること66国、渡りて海北₍朝鮮半島₎を平らげること95国。(中略)代々に渡って天子に拝謁し、朝貢の歳を違える事はありませんでした。臣下である私は、愚なれども忝(かたじけなく)も先祖の偉業を受け胤(つ)ぎ、馬を駆って統一した国々を率い、…自然の大道に帰し、(南朝の天子を中心とする秩序に従って来ました。)、道は遥か百済の彼方に連なり武装して軍船を整えてまいりました。₍朝鮮半島への出兵の用意を整えて来た。₎…私をどうか開府儀同三司₍「府」を開く特権を得た者の称号₎の任の者と見做し、私以外の者にも位や称号を与え、それによって、中国の天子に、忠節を勧むことにしております。」

・508年₍天監7年₎高句麗「「高驪王樂浪郡公雲,乃誠款著,貢驛相尋,宜隆秩命,式弘朝典。可撫東大將軍、開府儀同三司,持節、常侍、都督、王並如故」」

・521年₍普通2年₎百済の餘隆₍武寧王 在位502-523年₎

「行都督百濟諸軍事、鎮東大將軍、百濟王餘隆,守籓海外,遠脩貢職,乃誠款到,朕有嘉焉。宜率舊章,授茲榮命。可使持節、都督百濟諸軍事、寧東大將軍、百濟王」に進号する。

倭王武の時代の中国の王朝は宋、斉、梁と目まぐるしく交代した。倭王武は南斉(502年に滅亡)になって、中国への貢献を止めたと見られる。確実に倭王武は中国王朝への気持ちを無くしたのである。中国南朝の陳は589年には北朝系の隋に滅ぼされている。
倭王武の朝貢(478年)以降は、倭国は中国の史書から消える。倭王は自ら天子となり、年号を建て、日本列島と朝鮮半島南部を納める事にした。倭王武は中国王朝から独立したのである。それは522年善紀建元の年である。倭王武の元号である善紀は525年に終わって居る。倭王武は478年に即位し522年に死去している。47年間の在位である。
・503年人物画像鏡を百済の武寧王が倭王武の弟、年に贈呈している。
金石文は「癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長泰遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟」
要約すれば、癸未₍503年₎の年八月 日十大王、年、男弟王₍弟₎が意柴沙加₍いしさか₎の宮におられる時、斯麻₍武寧王₎が長泰を念じて開中費直₍かわちのあたい₎、穢人₍漢人₎今州利の二人らを遣わして白上同₍真新しい上質の銅₎二百旱をもってこの鏡を作る。となる。
九州倭政権は俾弥呼の時代から実務は弟が摂り、姉が神に仕える兄弟統治である。石坂と言う小字地名は太宰府の近辺に有る。人物画像鏡は現在和歌山県橋本市の隅田神社に保存されている。恐らく日十大王、年は倭王武の弟なのである。
 
 
 
 



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・477年₍昇明1年₎11月、遣使して貢物を献ずる。『宋書』順帝紀

これより先、興没して弟の武立つ。武は自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王」と称する。『宋書』夷蛮伝

・478年₍昇明2年₎上表して、自ら「開府儀同三司」と称し、叙正を求める。順帝、武を「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」とする。『宋書』順帝紀

・479年₍建元1年₎南斉の高帝、王朝樹立に伴い、倭王の武を「鎮東大将軍」(征東将軍)に進号。『南斉書』倭国伝

・482年 五月に倭人が辺境を攻める。三国史記(新羅本紀)

・486年 夏四月に倭人が辺境を攻める。三国史記(新羅本紀)

・500年 春三月 倭人が長峯鎮を攻め陥した。三国史記(新羅本紀)

・502年₍天監1年₎4月、梁の武帝、王朝樹立に伴い、倭王武を「征東大将軍」に進号する。『梁書』武帝紀

478年の倭王武の朝貢は自らの即位挨拶の為である。479年と502年の記録はそれぞれ南斉・梁の建国時₍479年・502年₎のもので、将軍号が授与されているのは倭国が新王朝に祝賀の朝貢をしたからだろう。当時の周辺諸国は新王朝の誕生に素早い動きをしている。478年₍昇明2年₎5月の倭王武の上表文は端麗な中国語で書かれており、5世紀時点の倭の王者自身が語った倭王朝の歴史が端的に語られている。この翌年の479年4月に宗王朝は滅亡している。倭王武は479年にも新王朝に朝貢して祝賀の挨拶を述べたであろう。しかし、この時、倭王武は中国南朝の権威が落ちてきているのを感じただろう。鶴峯 戊申の「襲国偽僣考」によれば継体16年壬寅、梁の普通3年(522年)に「善記」と言う年号を立てている。

「封国₍中国から倭王の任命を受けて来た我が国₎は偏遠にして藩₍地方を鎮めて天子の守りとなる国₎を外に作る。昔より祖禰躬(みずか)ら甲冑をつらぬき、山川を跋歩し、寧処(安心して生活する)に遑(いとま)もありませんでした。東は毛人を征すること55国、西は衆夷を服すること66国、渡りて海北₍朝鮮半島₎を平らげること95国。(中略)代々に渡って天子に拝謁し、朝貢の歳を違える事はありませんでした。臣下である私は、愚なれども忝(かたじけなく)も先祖の偉業を受け胤(つ)ぎ、馬を駆って統一した国々を率い、…自然の大道に帰し、(南朝の天子を中心とする秩序に従って来ました。)、道は遥か百済の彼方に連なり武装して軍船を整えてまいりました。₍朝鮮半島への出兵の用意を整えて来た。₎…私をどうか開府儀同三司₍「府」を開く特権を得た者の称号₎の任の者と見做し、私以外の者にも位や称号を与え、それによって、中国の天子に、忠節を勧むことにしております。」

・508年₍天監7年₎高句麗「「高驪王樂浪郡公雲,乃誠款著,貢驛相尋,宜隆秩命,式弘朝典。可撫東大將軍、開府儀同三司,持節、常侍、都督、王並如故」」

・521年₍普通2年₎百済の餘隆₍武寧王 在位502-523年₎

「行都督百濟諸軍事、鎮東大將軍、百濟王餘隆,守籓海外,遠脩貢職,乃誠款到,朕有嘉焉。宜率舊章,授茲榮命。可使持節、都督百濟諸軍事、寧東大將軍、百濟王」に進号する。

倭王武の時代の中国の王朝は宋、斉、梁と目まぐるしく交代した。倭王武は南斉(502年に滅亡)になって、中国への貢献を止めたと見られる。確実に倭王武は中国王朝への気持ちを無くしたのである。中国南朝の陳は589年には北朝系の隋に滅ぼされている。

倭王武の朝貢(478年)以降は、倭国は中国の史書から消える。倭王は自ら天子となり、年号を建て、日本列島と朝鮮半島南部を納める事にした。倭王武は中国王朝から独立したのである。それは522年善紀建元の年である。倭王武の元号である善紀は525年に終わって居る。倭王武は478年に即位し522年に死去している。47年間の在位である。

・503年人物画像鏡を百済の武寧王が倭王武の弟、年に贈呈している。

金石文は「癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長泰遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟」

要約すれば、癸未₍503年₎の年八月 日十大王、年、男弟王₍弟₎が意柴沙加₍いしさか₎の宮におられる時、斯麻₍武寧王₎が長泰を念じて開中費直₍かわちのあたい₎、穢人₍漢人₎今州利の二人らを遣わして白上同₍真新しい上質の銅₎二百旱をもってこの鏡を作る。となる。

九州倭政権は俾弥呼の時代から実務は弟が摂り、姉が神に仕える兄弟統治である。石坂と言う小字地名は太宰府の近辺に有る。人物画像鏡は現在和歌山県橋本市の隅田神社に保存されている。恐らく日十大王、年は倭王武の弟なのである。

 

 
 
 



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