古墳の始まり四隅突出墓

古墳の始まり四隅突出墓

古墳の始まりは弥生時代中期(紀元前400年~紀元前50年)末~弥生時代後期後葉(紀元前50年~3世紀中葉)までの期間に作られた四隅突出墓である。現在の時点で俾弥呼の墓最有力候補の平原遺跡1号墓が弥生時代後期から晩期とされているので、弥生時代中期後葉に出現した鳥取の四隅突出墓が最古級の古墳だと言える。弥生時代前期末~中期初頭の最古の三種の神器出土地である吉武高木遺跡は金海式甕棺墓・木棺墓等の埋葬形式を示しており、九州地方に先駆けて墳丘墓を造営したのは鳥取地方の王者で有った事が解る。

以下の表は富山県婦中町千坊山遺跡群試掘調査報告書による、四隅突出墓の分布表である。

名称 所在 旧国 時代区分
三嶋谷1号 鳥取県岩美町新井 因幡 弥生時代中期後葉~後期初頭
糸谷1号 鳥取県国府町糸谷 因幡 弥生時代後期終末
西桂見 鳥取県鳥取市桂見 因幡 弥生時代後期前葉
阿弥大寺3号 鳥取県倉吉市下福田 伯耆 弥生時代後期後葉
藤和 鳥取県倉吉市山根 伯耆 弥生時代後期後葉
尾高浅山1号 鳥取県米子市尾高 伯耆 弥生時代後期初頭~前葉
日下弥生1号 鳥取県米子市日下 伯耆 弥生時代後期中葉
宮内1号 鳥取県東郷町宮内 伯耆 弥生時代後期中葉
父原1号 鳥取県溝口町父原 伯耆 弥生時代後期後葉
父原2号 鳥取県溝口町父原 伯耆 弥生時代後期後葉
洞ノ原11号 鳥取県淀江町福岡 伯耆 弥生時代後期前葉
洞ノ原12号 鳥取県淀江町福岡 伯耆 不明
洞ノ原13号 鳥取県淀江町福岡 伯耆 不明
洞ノ原15号 鳥取県淀江町福岡 伯耆 不明
洞ノ原16号 鳥取県淀江町福岡 伯耆 不明
洞ノ原17号 鳥取県淀江町福岡 伯耆 不明
洞ノ原1号 鳥取県淀江町福岡 伯耆 弥生時代後期初頭
洞ノ原3号 鳥取県淀江町福岡 伯耆 弥生時代後期前葉
洞ノ原4号 鳥取県淀江町福岡 伯耆 弥生時代後期前葉
洞ノ原5号 鳥取県淀江町福岡 伯耆 不明
竹田8号 岡山県鏡野町武田 美作 不明
船木南山 兵庫県小野市船木町 播磨 不明
周遍寺山1号 兵庫県加西市網引町 播磨 不明
風巻2号 福井県清水町風巻 越前 弥生時代後期末
風巻4号 福井県清水町風巻 越前 不明
小羽山22号 福井県清水町小羽 越前 弥生時代後期後葉
小羽山23号 福井県清水町小羽 越前 弥生時代後期後葉
小羽山24号 福井県清水町小羽 越前 弥生時代後期後葉
小羽山30号 福井県清水町小羽 越前 弥生時代後期後葉
小羽山33号 福井県清水町小羽 越前 弥生時代後期後葉
小羽山47号 福井県清水町小羽 越前 弥生時代後期後葉
高柳2号 福井県福井市高柳 越前 不明
一塚21号 石川県松任市一塚町 加賀 弥生時代後期終末
一塚38号 石川県松任市一塚町 加賀 弥生時代後期終末
呉羽山丘陵No18 富山県富山市金屋 越中 不明
杉谷4号 富山県富山市杉谷 越中 弥生時代終末
呉羽山丘陵No10 富山県富山市古沢 越中 不明
呉羽山丘陵No6 富山県富山市古沢 越中 不明
富崎1号 富山県婦中町富崎 越中 不明
富崎2号 富山県婦中町富崎 越中 不明
富崎3号 富山県婦中町富崎 越中 不明
鏡坂1号 富山県婦中町長沢 越中 不明
鏡坂2号 富山県婦中町外輪野 越中 不明
六治古塚 富山県婦中町長沢 越中 不明

以上の表で解るように最古級の墳丘墓群は鳥取県に始まり岡山県、兵庫県、福井県、石川県、富山県に分布した事が解る。山陰地方、主に出雲文化圏に集中している。縄文期からの覇者、出雲王朝の版図がここに見られる。近畿地方の初期の古墳は箸墓だと言われる。箸墓の年代はどんなに頑張っても3世紀頃より古くは測定できない。4世紀中期以降とす説もある位である。四隅突出墓は近畿地方には無い。とすれば近畿地方に王権らしいものが出現したのは3世紀以降と言う事になる。

更に上記表から漏れた四隅突出墓もあるかに思われるので、参考までに「泉城の古代史ダイアリー」https://ameblo.jp/furutashigaku-tokai/entry-12628587049.html に掲載されていた図を拝借して挿入する。

近畿が墳丘墓の始原の地であると言うのは思い込みに過ぎ無いのである。出土事実から見れば近畿地方は墳丘墓後進地域であることが解るのである。年輪や放射性炭素を使った年代測定により古墳時代の開始が従来考えられていたより早まったため、一般に俾弥呼の没年と言われる248年頃に重なって来たとされる箸墓が近畿地方の最古の墳丘墓とされている。この方円墳は第7代孝霊の皇女、倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)の墓だと言われている。ひなには信じがたいが、どのような根拠によるものなのか、この方円墳を俾弥呼の墓だと言う説も一程度ある。

和田家資料4『北斗抄 十~総括』北斗抄二十には「耶馬台王耶馬止彦之箸墓」と題する項がある。「倭国三輪山郷に古き箸墓と称す陵あり。是れぞ、耶馬台国なる初代王耶馬止彦の墓にて、古代には是を箸塚と称したり。その由来さだかなるは、耶馬台族、常にして手掴みなる食方なるを、支那に習へて箸を用ゆことを民に布し、茲に官民倶々、箸を用ゆことと相成り、耶馬止彦王崩じて、この墓を箸墓とぞ称したるなりと曰ふ。 寛政七年(1795年)十月七日 箸墓にて記す。  秋田孝季 」

また同じ北斗抄二十「安倍、安東、秋田抄1」には「邪馬台国の起これるは、わが日下の国八十国に国造れる民を併せたる大耶摩止彦を以て1世とせるは、倭史なる神武天皇即位より、はるか三千年の古代有史に昇りぬ。」と書かれている。九州の方円墳には前段の装飾古墳があり、他の地域にも古墳に繋がる墓群があるのに、近畿地方にだけは突然出現した感がある。和田家資料をそのまま信じる訳では無いが、全国に16万基有ると言われる墳丘墓の中心の陵墓が近畿を始点としているなどとは到底考え辛い。ある時期に突然出現したと言う事は外部から制圧された、と言う事を物語っている様に思える。