和田家文書 秋田孝季

和田家文書 秋田孝季

和田家文書は天明年間(1781年~1789年)に元々有った本が大火により焼失した事を受け、新たに編纂されたものである。元本は奥州三春藩の藩主、秋田家に伝わる大切な資料文書であった。そこで秋田藩主秋田千季(後に改名して倩季)が、本を復元する目的で、橘隆季に歴史資料の復元と集史を命じ、作成させたのである。

橘隆季は和田長次郎末次と共に、十数年の歳月をかけて各地を回り、集史、編集にあたった。こうして出来上がった文書を「寛政原本」と言うが、この「寛政原本」も火災で失われ、副本として残った保管写本が和田家に残って居た。このため、現在、この写本群を「和田家文書」と呼んでいる。後に橘隆季は養子となり秋田孝季となった。

「集史」と言うのは、古老からの聞き取りや寺社仏閣の文書の書写等のことで、内容は歴史・風俗・宗教・文化など多岐にわたり、矛盾する記述も含まれ、玉石混交と言った体を為している。史料としての評価は今後の課題とされている。しかし、安倍氏、安東氏、秋田氏の歴史に付いての記述は詳細なものであり、東北地方の歴史空白を埋める貴重な文献である事は間違いない。「寛政原本」に付いては2006年11月10日に「寛政5年7月、東日流外三郡誌二百十巻、飯積邑和田長三郎」の一書が出てきており、その画像はミネルヴァ書房の「なかったー真実の歴史学」第六号に添えられたDVDに貯蔵されている。また、国際日本文化研究センターの笠谷和比古名誉教授はこの「和田家文書:東日流外三郡誌」の「寛政原本」を本物の近世文書であると鑑定している。他にも真作説に立つ研究者は多いが、何よりも笠谷和比古教授は歴史教科書の執筆者に名を連ねるほどの近世文書研究の権威である。

秋田孝季の父の名は「橘左近」と言った。長崎・出島の阿蘭陀通事を務めていたと言う。母は久世家の出で有ると言う。秋田孝季は四人兄弟の二男で、元は橘末と名乗って居た。父の後を継いで阿蘭陀通事となったが、阿蘭陀船に乗せて貰ってマカオに渡り、そこで英国人学者に学んだと言う。帰国して後にはその科によって解任され、秋田土崎で浪人をしていた。母が三春藩主秋田千季の側室となった事が奇縁で、三春藩主秋田千季の養子となり、橘末という名から秋田次郎孝季という名に改名したと言う。オランダ語、モンゴル語に通じるなど、学業優秀だったと言われ、藩主、秋田千季にその秀才を愛されたものと思われる。同様の経緯からか江戸幕府の田沼意次から山靼渡航の密命を受け、亜細亜、西欧を順脚したと言う事である。寛政年間(1789年~1801年)と言えば、ちょうどフランス革命期(1789年~1799年)に当たる。アメリカ独立戦争(1775年~1783年)の直後の時期でもある。秋田孝季は世界が資本主義化され、近代に向かう時代に生きた人なのである。

仙台の鴫原邦雄氏が和田喜八郎から譲り受け、以来秘蔵していた「鴫原文書」は2007年秋に発見された。その画像についてはミネルヴァ書房の「なかったー真実の歴史学」第六号に掲載されている。

天保年間(1831年~1845年)以降も、和田家では、文書を書き継いで来た。これは最初の編者である秋田孝季の「記載に漏るるあらば、自由に書き足して…」という遺訓によるものである。

「明治写本」という文書群は和田末吉という和田家の当主が書き継いだものとされている。和田末吉は天保2年(1832年)生まれで大正8年(1919年)逝去とされる。和田義秀の流胤とはいえ、社会の変転の中、津軽で農民となっており、正規の学問は出来なかったが父からそれなりの学識は学んでいた居たようである。明治時代になって諸事情により、和田家宗家を継ぐことになった末吉は、宗家の祖来の仕事である、「和田家文書」の再書、保守に取り組むことになった。これは主君、秋田家から依頼された仕事なのである。明治写本は和田末吉が再書したものであり、「古き書は、今世に読みがたければ時代の新しきに乗じて解書せしものなり」「山靼及び世界の地名、現称を加えたり」とあるように明治期以降の知識によって編集の手を加えて居る可能性が有る。寛政原本の漢文を末吉が訳して書き溜めて居る箇所も有り、正しく解読されているものかどうかも不明で、細部に付いては疑問な所もある。「原本の補修、内容の追加」という手法の庶民による書き継ぎ文書であるので、その資料性格を理解しながら読む必要があるが、歴史資料の参考となる文書として貴重である。

これだけ貴重な文献であるから、その研究者もいらっしゃる。西村俊一学芸大学教授は和田家を何度も訪れ、和田家の屋根裏の土壁に大きな穴が開いているのを目撃されている。和田家文書を盗み取ろうとした賊の仕業であるとの事である。さらに和田家文書を歴史の貴重な証言文章として取り上げたのが古田武彦元昭和薬科大学教授である。前述の西村俊一学芸大学教授は、昨今の「東日流内外三郡誌」を含む和田家文書に付いて激しい偽物キャンペーンが張られて来た経緯についてこう述べておられる「…一群の『和田家文書』に付いていち早く史料的価値を見出されたのは古田武彦氏であった。しかし、それが「邪馬台国」論争に惨敗し、私怨をつのらせていた安本美典などを激しい偽物キャンペーンに駆り立てる結果になる。…」と。(日本国際教育学会大7回大会自由研究発表於東北大学教育学部「東日流外三郡誌の世界―東北学の原点を探る」より)https://www.furutasigaku.jp/jfuruta/touhoku.html

①偽物論者の言いがかり其の一「和田家文書が吊るされた天井は元々なかった」

についての古田氏の論証は以下の様だ。(『新・古代学』古田武彦とともに 第8集 2005年 新泉社 浅見光彦氏への“レター”)より

さらに興味深いのは、「天井、不存在」問題です。
 例の「落下事件」の場合、「文書の入った箱」が“天井”を破って落ちてきた、といわれているのですが、そんな「天井」など、もともとなかった。「偽作説」の論者は、そう主張しているのです。その「主張」を裏づけるため、この家(和田喜八郎さんの住居)を若い頃(戦前)に建てた、という大工さんから、
「そんな天井はなかった」
旨の「念書」をとり、それを掲載しているのです。まことに“念の入った”「反証」といえましょう。
「そこまでやったのなら、もうまちがいないだろう」
 もしかしたら、浅見さんも、そう思いこまれたのかもしれませんね。一般の読者に、そういう人も多いでしょう。
 けれども、「実際」は、まるきりちがいます。
 わたしがすでに、先述の「新・古代学第一集」中の「特集1東日流外三郡誌の世界」(「累代の真実」p.56)でのべましたように、「昭和七(一九三二)年」には、まだこれら「和田家文書」(東日流外三郡誌)は「天井」に蔵されてはいません。

「以後は以て是を保存せるに難なれば蟲喰を防がむ為と世襲に障りを避けて天井に蔵し置き後世に障りなき世至りては世に出だし(「す」か)べし〈下略〉
        昭和壬申(七)年七月十日
              和 田 長 作 」

和田家の系図
 末吉 ーー 長作 ーー 元市 ーー 喜八郎

従って、ここで長作が、
「天井に蔵し置き・・・世に出だしべし」と“命令”もしくは“要請”しているのは、子ども(次代)の「元市」に対して、なのです。
 それまでは「洞窟内の一部」か、それとも「土蔵」などに蔵されていたようです。従って、
(上限) ーー 昭和七年
(下限) ーー 昭和二二年
の“一五年間”の中で、問題の「文書などを入れた箱」は“つるされた”のです。“つるした”のは、喜八郎氏の父、元市さんでしょう。
 大正六年生れの大工さん(O氏)は、若い頃「和田元市」を発注者として和田家の「古い家を取り壊し」「新築した」という(p.38)のです。
 わたしが喜八郎氏から聞いたところでも、彼が一〇歳前後、まだ「文書」などには何の関心もない頃だった、とのこと。ほぼ、O氏の話と“対応”しています。
そこで考えられるのは、次の状況です。
(一)「文書などを入れた箱」を“つるし”て、その「下」に“天井”をとりつけたのは、「元市氏」である。(生前の長作の「命」に従った)
(二)現在の“天井”は(もしO氏の記憶が正しければ)「建て増し」部分となりましょう。(一番高いところの「屋根裏」とは、別)
(三)「昭和一〇年代」前後は、「満洲事変」「日支事変」など、いわゆる日中戦争の時期に当たっています。従って「O氏」も「元市氏」もふくめ、“人間移動・移転”の烈しかった時期(いわゆる「非常時」)に当たっていることとなりましょう。
(四)また、思想的に「反天皇の文献」と目されやすかった和田家文書(東日流外三郡誌など)の性格上、その「隠匿」は、必須だったのではありますまいか。
 わたしは、当住宅に、喜八郎氏の健在時、何回もおとずれました。そして問題の「落下場所」を、その部屋の中で、「天井」を指さしながら、たずねました。
「ここだ。家族がこの下にいたら、えらいことだったよ」
 その喜八郎氏の言葉を、家族の方々(母堂など)も、聞いておられました。(第一回)第二回目は、喜八郎氏だけのとき、「再確認」しました。同じ答えでした。(なお、喜八郎氏の没後、長男孝さんの導きによって、天井裏を十分調査させてもらいました。建築関係の専門家と共に)

以上である。

②偽物論者の言いがかり其の二「文書出現の時期がまちまちであり信じがたい」

についての論証は以下の様だ。(『新・古代学』古田武彦とともに 第8集 2005年 新泉社 浅見光彦氏への“レター”)より

この『東日流外三郡誌』の“出現”に関する有名な事件があり、和田喜八郎氏は何回も、これにつき“書いて”います。
 それは、ある日のこと、喜八郎氏の家(青森県五所川原市)の天井裏から、大きな(文書などを入れた)箱が落ちてきた、というのです。その箱を、開いてみると、そこから出てきたのが、今問題の『東日流外三郡誌』などの、いわゆる和田家文書だったというのです。この「落下事件」の“時期”について、和田氏は“まちまちに”書いている、とその論者は指摘するのです。(六九ぺージ)

(1) 「昭和二二年八月ころ」(『東日流外六郡誌絵巻 全』津軽書房)
(2) 「昭和二三年」(衣川村・衣川村教育委員会・編集『安倍氏シンポジウム・衣川と安倍氏の歴史を考える研究集会』)
(3) 「昭和三二年の春」(『市浦村史資料編上巻・東日流外三郡誌』)

 このような“バラツキ”からみても、この「落下事件」の存在自体、疑わしい、と論ずるのです。貴重な指摘です。
 しかしながら、なおよく“考えて”みれば、変です。なぜなら、もし和田喜八郎氏が当文書(和田家文書)の「偽作者」であったとした場合、このような「文書出現」の重要事件について、その時々によって「ああ書いたり」「こう書いたり」するものでしょうか。
 必ず、「一定の年時」を設定して、いつ書いても、狂いなく「そう」書く。これが当然。いわば「偽作者の基本ルール」ではないでしょうか。もし「これが“偽作”であることに気づいてほしい」つまり、他(ひと)に知らせるのが目的なら、いざ知らず。そんなことはありえませんよね。
 真相は、簡単です、「誤植」です、、自分の文章を「本」などの“印刷”にしたことのある人なら、誰でも経験します。「二校」「三校」と校正を重ねていても、いざ実際にその本ができてみると、パラパラめくるうちに、すぐ「気がつく」のです。「誤植」個所に。わたし自身、そのような「誤植」の生んだ「珍談」「奇談」をまとめて“書きつけ”てみたいもの、とさえ思っています。
 わたしの古代史研究の出発点となった「邪馬壹国」問題(通説のような「邪馬臺国」の誤記とする立場を批判)も、同じです。
 このわたしの立論に対し、「版本に“誤記”が付き物であることを知らないのか」などと、お叱りをうけましたが、逆です。この「誤記・誤植」問題に悩まされつづけていたからこそ、「このケースも、その一つ」と、安易に処理して、果たしていいのか。 ーーこれがわたしの基本疑問だったのです。
 今の問題に帰りましょう。
 わたしも、当然この「落下問題」には強く関心をもちました。それで何回も、喜八郎氏に確認を求めました。右の (1) が正しいのです。

「昭和二二年」です。他の二つ( (2) と(3) )は、「誤記、ないし誤植」なのです。

との事である。古田氏なら「以上である。」で論証は終わっただろう。

③偽物論者の言いがかり其の三「末吉は文盲であり、長作は字を書けなかった」

についての論証は以下の様だ。(『新・古代学』古田武彦とともに 第8集 2005年 新泉社 浅見光彦氏への“レター”)より

これがほんとうだったら、「和田末吉」や「和田長作」の書き写した、厖大な「明治(大正・昭和)写本」の存在は、すべて「架空」にして「虚妄」となってしまいます。すなわち、喜八郎氏あたりに「偽作責任」を押しつける他ないわけです。
 けれども、今まで数多くの和田家文書に接してきたわたしには、“とんでもない”こと。まったくの“ぬれぎぬ”と言う他はありません。
 たとえば、明治時代の教科書に、真面目な、子どもらしい字で、「和田長作」の署名のあるものを、いくつも見てきました。(カラーコピーや)写真にも撮りました。
 その教科書は、東京の専門の教科書センターに持ってゆき、“本物”であることを確認しました。「同類」の収蔵物も見ました。もちろん、貴重なものです。
 その上、青年時代に、岩手県の実業学校の講習に出ていたさいの、ノートもありました。青年らしく、ビッチリと書かれた、律儀な、授業記録でした。そのときの「講師」の名前も、書かれています。 ーー金輪際(こんりんざい)、「偽作あつかい」などは無理なものです。
 では、なぜ、「文盲説」が出たのか。実は、その“確かな根拠”があるのです。なぜなら、彼らが「文盲」だ、という記録があるのです。
「われは文盲なれば、云々」
の文言です。なぜか。
 実は、これと同じ文言は、『東日流外三郡誌』の著作者(正確には「編者」)とされる、秋田孝季の文章の中にも、あります。
「それがしは文盲なれば、云々」
とあるのです。
 お判りでしょう。この「文盲」は、現在の用法とはちがうのです。「文字が読めない」「目に一丁字がない」との意味ではありません。そうなら、もし、その通りなら、右のように、「自分で書く」こと自身、ナンセンスではありませんか。とうていありえないことです。
 つまり、この「文盲」とは、実は“謙遜の言葉”なのです。「わたしは、無教養な者ですから」という、“礼儀の表現”です。奥ゆかしい、謙遜の言なのです。
 わたしたち日本人は、相手にプレゼントするとき、
「つまらないものですが」
と言いますね。これを聞いて、「この人は、つまらない物を、わざわざ持ってきたのか。失敬な」と、怒る。そういったたぐいの話です、これは。
 右の「話」は、近所の人や親類の人々が、
「この和田家文書を見た
ことをしめしています。そしてこの「文盲」の一語を、“現代風に”誤解したのです。それが「風評化」したのでしょう。いささか何とも、面白すぎる話ではありませんか。
 同じ言葉でも、「昔」と「今」では、使い方がちがう、その証拠。 ーー案外“こわい”話かも、しれませんね。
 この興味深いテーマにふれていただいた「偽作説」の論者に感謝いたします。もちろん、皮肉などではありません。ありがとう。
 未刊の「北斗抄」や「北鑑」の類が公刊されれば、この種の“貴重な文例”がやがて人々の手元にとどくことでしょう。一日も早い、公刊の日を祈ります。(藤本光幸さんが準備中と聞いています)

との事である。

④偽物論者の言いがかり其の四「和田家文書は和田喜八郎が書いた(筆跡問題)」

についての論証は以下の様だ。(『新・古代学』古田武彦とともに 第8集 2005年 新泉社 浅見光彦氏への“レター”)より

「事実確認」主義の立場から、どうしてもふれなければならない問題があります。
 それは「和田喜八郎氏の筆跡」問題です。
 わたしが彼の筆跡と理解しているものと、「偽作説」の論者が「彼の筆跡」だと言っているものと、まったく“別”なのです。基本のデータが“ちがっている”のです。
 どんなに精密なコンピューターでも、「入力」された基本データが、「A」と「B」、まったくちがっていれば、そのあとの関連情報に対する“判断”は、当然、
正確に、ちがってくる」
こと、それは当然です。いかなる専門家でも、これを疑う人はありますまい。 ーーそれが、今この「偽作」問題をめぐる実情です。この「事実確認」を抜きにしては、あらゆる「論議」も、すべての「論争」も無意味です。
 この点、実は、率直に言って、わたしと「偽作説」の論者との間には、「認識」上、いわば“雲泥の差”があるのです。これは決して「自慢」や「思い上がり」ではありません。当たり前のことです。
 なぜなら、わたしの場合、和田喜八郎氏とくりかえし「文通」をしてきたからです。「文通」という言葉は、必ずしも適切ではありません。彼は、わたしの研究室(当時の昭和薬科大学)へ、何回も、いや何十回と言いたいほど(おそらく二~三〇回前後か)、和田家文書や関連書類などを送ってきました。本当に「いや」というほど、の回数と「量」でした。せまい研究室が、段々一層“せまく”なりました。
 もちろん、自宅への手紙・葉書(年賀状等の“あいさつ”状)もありました。
 先にものべましたように、“書きしぶり”の喜八郎さんですから、いわゆる「手紙の文面」はなく、いきなり“実物”(和田家文書や関連資料)が入れてあるのが通例なのですが、それでも、当然ながら「宛書」や「送元」は書かれています。そこに「喜八郎氏の自筆」があるわけです。
 これは、今となれば「貴重な、筆跡資料」ですが、それがわたしには“恵まれて”いるのです。
 この点、「偽作説」の論者には、そのような「喜八郎氏との豊かな交流」を“持ち合わせ”の方は、おられないようです。当然ですが。すなわち「基本をなす、確実な資料」の“お持ち合わせ”がないわけです。
 実は、この点で、注目すべき「重要事実」があります。それは、喜八郎氏にとっての“貴重な代筆者”たる、娘さん(章子さん)の存在です。
 今述べた“喜八郎氏からの”宅配便や郵便類の宛書や送元の「筆跡」は、必ずしも「喜八郎氏の自筆」ではありません。むしろ、「章子さんの筆跡」のことの方が“多かった”くらいです。
 その事情は、明白です。“書きしぶり”の喜八郎氏は、そのような“仕事”を、“娘で(自分より)書き上手”の章子(ふみこ)さんに“まかせた”のです。これは、喜八郎さんならずとも、各家庭で、“ありうる”状況ではないでしょうか。
 この間(かん)の事情に関する「注意」が、残念ながら「偽書説」の論者には“欠けて”おられたようです。

(一)喜八郎氏の出された年賀状(五所川原近辺の方あて、か)にある、「自署名」を“喜八郎氏の自筆”視して使用されているのです。年賀状の「宛名」や「自署名」を、文字通りの「自筆」で書く人も、当然あります。「宛名」は他筆、「自署名」のみ自筆、という人もありましょう。
 けれども、「宛名」も、いわゆる「自署名」も、「代筆者」(秘書など)の筆跡、というケースも、あるのです。喜八郎氏は、(しばしば)この“やり方”でした。
 もちろん、この件についても、「いや、こうあるべきだ」との各議論はありましょう。それはそれとして正しい、と思います。しかし、今必要なのは「あるべき」ことの議論ではなく、「ある」こと、すなわち事実の認識です。
 この立場からみれば、「偽作説」論者のとった「基準筆跡の選択法」は、やはりまちがっていた、と言わざるをえません。

(二)さらに、重要な「基本筆跡のとりちがえ」が不幸なことに、生じています。
 それは「水沢コピー」の問題です。岩手県の水沢市公民館で、喜八郎氏は「講演」しました。平成四(一九九二)年のことです。その講演の資料として、「四百字づめ原稿用紙」で一二九枚が、“あらかじめ”公民館側に渡してあったのです。このとき、喜八郎氏はわたしに、
「おれは、講演など、苦手だ。時間がすぎてうまく話せねえ。先に、書いて送ってやったよ」
と、いささか“自慢そうに”(電話で)話していたのを覚えています。まことに“ゆきとどいた”処置と、感心しました。
 この善意が“裏目に”出たのです。公民館側(市の関係者)が、喜八郎氏にことわりなくこの「原稿のコピー」をとり、「偽作論者側」に渡したのです。「平成四年二月一日(まえがき)」「平成四年二月四日(末尾)」という「年月日」が明記されてあり、「一二九枚」もの多量ですから、「偽作説」の論者はこれを、疑わず、
「自筆原稿のコピー」
とみなし、これを「基準筆跡」としたのです。その講演の題目は次のようです。
「知られざる聖域 ーー日本国は丑寅に誕生した」(『日本が危ない!』p.41)
 すでにお判りでしょう。この「一二九枚」は、決してあの“書きしぶり”の喜八郎氏の「自筆」などではありません。可憐な代筆者「章子さんの筆跡」です。
 先にものべましたように、わたしのもとには、幾多の「喜八郎氏の筆跡」と共に「章子さんの筆跡」があります。ですからその“判定”は、容易です。
 その上、わたしは「だめ押し」を行いました。喜八郎氏が東京へ来たとき、彼の宿所をおとずれ、わたしの持参した、喜八郎氏からの宅配便、郵便などの「自署名」について、「これは、おれ」「これは、章子」と、“仕分け”してもらいました。
(『新・古代学第二集」、p.106 、写真)
 その上、「偽作説」論者にとって、きわめて不幸な「資料状況」がありました。それは、従来「章子さんの書写による、和田家文書」が、かなりの量、外部に“出まわって”いたことです。たとえば、
「『東日流外三郡誌』について」
という原稿用紙(四百字づめ原稿、七枚)も、その一つのようです。「昭和六〇年(一九八五年)、二月一日」の日付けをもち、「和田喜八郎」の署名をもつ、という。それが「自筆原稿そのもの」と称されています。これは「山上笙介氏」からの提供だとされています。山上氏は『東日流六郡誌絵巻 全』の編集者です。
 喜八郎氏によれば、
「おれは、先祖の書いた和田家文書を、他(ひと)にやりっぱなしになんか、しねえ」
とのこと、もっとも、です、まだ「偽作説」の“さかり”になる以前から、秘書役の章子さんに“書写させ”て、他に渡す、という「方式」をとっていたようです。そのさい、章子さんは、御自分の「日常の筆跡」とは別に、「和田家文書(東日流外三郡誌など)を模範(モデル)にした筆跡」を“習って”おられた方です。
 その旨の「念書」も、章子さんから、いただきました。
 以上の問題は、決して「偽作」や「真作」といった、「説」の問題などではありません。「誰々の筆跡」という「事実確認」の、単純な問題です。
 関係者(わたしなど)の生きている時に、早くこのような「重要問題」を提起してくださった、「偽作説」の論者に対し、今は、心から感謝したいと思っています。

とある。古田武彦氏を気取れば「以上である。」

折角貴重な歴史資料がこの世に存在するのである。これを研究しない手はない。また誰の筆跡か等と言う問題にすること自体がこの文書の資料性格の理解に欠けているのである。和田家文書は市井の庶民の書き次ぎの書なのであるから、通常の文献に見るような原本厳格保全の立場からの記述書では無いのである。そこを大きく勘違いして居るから偽物派はある意味、というか全くなんの価値もない筆跡鑑定に走ったのである。

⑤偽物論者の言いがかり其の五「秋田孝季などは喜八郎が創作した架空の人物である」

についての論証は以下の様だ。(『新・古代学』古田武彦とともに 第8集 2005年 新泉社 浅見光彦氏への“レター”)より 

先にあげた「北斗抄」や「北鑑」その他の和田家文書中には、多くの書簡類が収蔵され、それらによって『東日流外三郡誌』の成立に至る、経緯(いきさつ)を知ることができます。その要点を箇条書きしてみましょう。
 第一、秋田孝季(たかすえ)の来歴。
 彼は長崎で生まれました。父は「通辞」の職、ロシヤ語の通訳だったようです。けれども、早く病没し、母は彼を連れて郷里(秋田)に帰ったのです。
 その後、三春藩の藩主、秋田千季(倩(よし)季)の“後添え”となり、そのさい(あるいはそのあと)“連れ子”の孝季を同道したようです。義父(藩主)は、学問好きで利発だった孝季を可愛がったのでしょう。
 以上の点につき、わたしは「孝季の母は、最初“妾”として入り、のちに“後添え”となった」か、と考えていますが、真相はもちろん、不明です。
 第二、藩の「借財返済」問題。
 三春藩は、幕府からの「借金」の返済に悩まされていました。そのため、藩主はひそかに“信頼する”孝季を呼び、一個の地図を渡しました。秋田氏の先祖の地、津軽(青森県)の中に“埋蔵”された「金」のありかをしめす地図です。
 浅見さんはすでに御存知と思いますが、三春藩主の秋田氏の先祖は津軽の安倍氏です。あの安倍貞任(さだとう)、宗任(むねとう)の安倍氏です。八幡太郎義家に敗れ、貞任は斬られ、宗任は大島(福岡県)へ“島流し”にされました。その貞任の遺子、高星丸が家臣に連れられて津軽へ逃れ、家を再興して安藤(また、安東)を名乗った、というのです。
 その後、南部氏(岩手県)が津軽全域を支配するに至り、安藤氏は秋田に逃れ、秋田氏を名乗ります。これがのちの三春藩(福島県)の藩主、秋田氏の来歴です。
 このような“ゆかり”の地、津軽に埋蔵してきた財宝、「金」のありかをしめした地図だったわけです。
 藩主の依頼をうけ、津軽の地に入った孝季は、土地の庄屋の息子、和田吉次の助けをうけ、この埋蔵金を発見します。そうしてそれを藩主に渡しました。その結果、三春藩は無事「借金」を幕府に返済しましたが、なお「余分」を生じたのです。藩主はその「余分」を再び孝季に渡し、津軽時代にさかのぼる「藩史」の再建を依頼します。三春藩の書庫が焼け、史料を消失していたからです。
 以上が、『東日流外三郡誌』の成立を語るところ、その誕生の経緯です。

第三、以上の経緯は、現在未公刊の和田家文書、北斗抄や北鑑などの中に各人の書簡や孝季の報告などの形で収録されています。このような、貴重な文書を“見ない”まま、「偽作か否か」を論じている人々は、まことに不幸な「史料状況」の中にあるわけです。(くりかえしますが、藤本光幸さんは、その「公刊」のための準備を、早晩終えられる見込みのようです。 ーー 二〇〇四年現在)
 その中には、注目すべきことですが、いまだ「未発掘」かと思える埋蔵金に関する書簡や地図もふくまれています。たとえば、吉次が孝季の命により、地図に従ってその所在(埋蔵金の存在)を確認し、それを“もとの姿に(発見されにくい形に)”もどしておいた旨の報告書簡も、ふくまれています。
 この「埋蔵金」問題は、土地の人に(青森県西部地方)の関心を“ひそかに”ひきつけつづけていたようです。当然のことでしょう。
 その“証拠”に、最初に公刊された『東日流外三郡誌』として知られる「市浦村史資料編」版では、この「埋蔵金」関連かとみられる個所は「脱字」扱いにされているようです。
 この点、すぐれた研究者として次々各方面に研究業績をしめしておられる古賀達也さん(京都市)が、すでに早く気づき、これを論文化して発表したい、とのこと。その御意向を知り、その時点では、わたしはあえて「反対」しました。
 なぜなら、その当時、いわゆる「偽作説」が世間で話題を奪っていた最中でしたから、その上にこの「埋蔵金」問題が話題となれば、一段と“論点”が混迷し、当事者(和田喜八郎氏も存命中)も“迷惑”するのではないか、と心配したのです。それで、もう少し「発表時期をのばす」ことを提案しました。古賀さんも、賛成してくださったのです。
 しかし、もう、時期は変わりました。喜八郎さんに次ぎ、長男の孝さんも亡くなられました。一般の書籍や文庫本、雑誌などでも、「すでに『東日流外三郡誌』の偽書であることは確定した」かに(虚報を)叙述するものも、次々と現われています。その意味では「偽作論争」のさかりの時期は“過ぎた”ようです。
 その上、何よりも、この「埋蔵金」問題が、『東日流外三郡誌』の真相を探る上で、不可欠のテーマであること、今まで述べたことでお判りの通りです。
 ですから、古賀さんも近く、その所論を発表されることと思います。
 まして『東日流外三郡誌』の場合以上に、現在未刊の和田家文書、「北斗抄」や「北鑑」などには、その件の直接資料(書簡・地図など)がふくまれています。これらはやはり、日本国民、否、世界の探究心ある人々の「共有財産」となるべきこと、今は火を見るより明らかです。

と記述されており、和田家文書が残存していること自体が秋田孝季実在証拠と言える。

https://www.furutasigaku.jp/jfuruta/sinkodai8/furuta82.html

更に秋田孝季と和田長三郎吉次が「東日流外三郡誌」の編纂を始めるに当たって、その完成を祈願して、山王日吉神社に奉納したという内容を持つ貴重な額が1994年に発見されているのである。常識的に考えてもよそ様の家に先祖伝来したいわば家宝ともいえる物について、赤の他人の文筆家が口を極めて「偽物」扱いする等とは常軌を逸した狂奔としか思えず、かなり低劣な醜態に感じる。