善光寺縁起集註に有る聖徳太子からの手紙とされる文章に「命長七年丙子」という九州年号がある。
御使黒木臣
名號稻揚七日巳
此斯爲報廣大恩
仰願本師彌陀尊
助我済度常護念
命長七年丙子二月十三日
進上 本師如来費前
斑鳩厩戸勝髪上
命長7年(646年)と言う表記から、この手紙は記紀に記述の有る厩戸皇子ではなく、九州王朝の高位の人物が善光寺如来に宛てた手紙だと思われる。この願い空しく、病は治ることなくこの手紙の送り主は没したと見られる。何故なら九州年号は命長7年で終わり、翌年、「常色」と改元されているからだ。この手紙の送り主は古代史の編年から考えて隋書俀国伝の阿蘇山下の天子、阿毎多利思北孤の皇子、利、歌彌多弗利 だと思われる。
鑑真和上伝記 群書類従に
大和上答曰
昔聞南嶽思禅師遷化之後。
託生倭國王子。
興隆佛法。
濟度衆生。
又聞日本國長屋王崇敬佛法。
とある。天台宗の南嶽思禅師が没後、倭國の皇子に生まれ変わって仏法を盛んにしたと言う伝承を聞いた事が有る。と鑑真和上が述べている記事だ。此処での倭國とは九州王朝の事であり、近畿長屋王の日本国とは明確に分けて語られている。
この南嶽思禅師の没年は陳の大建9年(577年)であり、厩戸皇子の生年は敏達3年(574年)。南嶽思禅師が没した時、厩戸皇子は4才であり生まれ変わるとすると無理があるのだ。この矛盾に付いては「扶桑略記」(平安時代)に既に気付かれていたようだ。これを記述通りに倭國王子とするならば、その対象は阿毎多利思北孤の皇子、利、歌彌多弗利となる。歌彌多弗利(上塔の利)の生年を577年、没年を646年とするならば、その享年は70歳となり、当時としては比較的長寿であろう。
倭國王子を歌彌多弗利とした場合、即位は仁王元年(623年)47歳の時である。立太子を多利思北孤即位年(589年)だとすると歌彌多弗利13歳の時の事であり、その後多利思北孤の没年(法隆寺釈迦三尊光背銘の記述で上宮法皇没年は622年)までの34年間を太子として在位した事となり、その間の活躍が近畿天皇家によって厩戸皇子の事績として盗用されたと見るのが妥当である。
父の上宮法皇多利思北孤の即位は端政元年(589年 先代の倭王玉垂命が端政元年に三瀦で没した事が「大宰管内志」に書かれている。)
「蔡州和伝要」という鎌倉時代の僧「詫何」の撰書に聖徳太子と善光寺如来との消息往来の記録が残って居る。その伝承によると、聖徳太子に擬せられた九州王朝の天子、歌彌多弗利は命長7年2月に天王寺付近で病に伏していたとあり、難波での改新詔を発布した後、崩御したと思われる。
前期難波の宮には大規模な官衙があり、ここには多数の律令国家を運営する役人が配置されていたは大阪文化財研究所の研究者によって明らかとなって居る。令を定め、令によって統治する、そういう政治が前期難波の宮で行われていた事は間違いない。「日本書紀」記載の大化2年(646年)の大化の改新は、九州王朝の天子、歌彌多弗利が発した畿内制度の確立と、戸籍、班田収受法、調・庸、私地・私民の廃止、筑紫都督府に相対する評制の発布であった事が推測される。
この場合の私地・私民の廃止とは従来の近畿内の豪族を私地・私民とし、それに代わる九州王朝の支配を公地公民としたのである。
多利思北孤の代に近畿は九州王朝の支配領域になって居たのだから。
(日本書記巻第21泊瀬部天皇即位前記:蘇我・物部戦争・河内戦争の記述から近畿の8国が九州王朝の支配下に成った事が覗える。)