夜摩苔波 區珥能摩倍邏摩

夜摩苔波 區珥能摩倍邏摩

「思邦歌」と言う歌が有る。日本武尊が歌ったとして「日本書記」では
夜摩苔波 區珥能摩倍邏摩 多多儺豆久 
  阿烏伽枳 夜摩許莽例屢 夜摩苔之于漏破試
』と書かれている歌だ。近畿地方は麗しく、ここが国のまほろばなんだよ、と言うお話なのだが、そもそも「まほろば」等と言う日本語は存在するのか。もし存在するのであれば、日常的に使われている筈なのだが、どこにも使用例はない。どこに付いても「まほろば」であると言う場所は無い。

古田 武彦氏はこの「まほろば」について考察している。

氏によると14世紀の日本書紀熱田本・北野本には「摩倍邏摩」と記述されており「摩保邏摩」とは書かれて居ないと言う。しかるに15世紀の伊勢本、16~17世紀の内閣文庫本で「摩保邏摩」と改変されていると言う事である。

「古事記」では音が漢字で書かれ、
夜麻登波 久爾能麻本呂婆 多々那豆久 
  阿袁加岐 夜麻碁母禮流 夜麻登志宇流波斯
』となっている。

和銅5年(712年)に太安万侶が編纂し、元明天皇に献上されたが長年に渡り秘匿されていた古事記は13世紀にようやく陽の目を見た。つまり教科書検定で落選した歴史書である。なぜか?古事記は海外文書や日本国内の他王朝の歴史に対応して居なかったからである。近畿に興った新興勢力は海外文書や日本国内の他王朝の歴史に対応、取り込みを行った日本書紀を正規の歴史書としたのだ。だからその要素の一部分も無い古事記は秘匿した。海外文書に残るあれやこれやの史実は近畿の新興勢力の事績ではなく、他王朝の事績だと告白する事になるからである。日本に残るあれやこれやの遠征記録は近畿の新興勢力の事績ではなく、日本列島各地に存在した他王朝の事績だと告白する事になるからである。

それはともかく太安万侶は「夜麻登波 久爾能麻本呂婆」と書いている。これを受けて、15世紀の伊勢本、16~17世紀の内閣文庫本で「摩保邏摩」と改変したと見れば事の筋道として理解できる。

これを受けて江戸時代の学者たちは「近畿は褒め称えるべき日本の中心」だと言って居ると思い込んだ。「近畿大和こそ、 日本国の中心の秀れた地」の意味に解釈してきたのである。では本来の「摩倍邏摩」の意味はどうなのか?

日本私記云、倍羅麼、 師説、鳥乃和岐乃之多乃介乎為倍羅麼也、云云、今謂俣呂 羽、訛化。(諸橋、『大漢和辞典』)〔倭名類聚抄、羽族部、鳥体、倍羅磨〕

つまり「倍羅磨」とは鳥類の脇の下の毛の事。けっして中心領域を指す言葉では無い。『つまり、鳥の心臓の近くだけれど、 「脇」にある、柔らかい毛を呼ぶ称だ。決して「中心」と いう意味ではない』と古田 武彦氏は言っておられる。これによると古事記の「本呂婆」=「ホロバ」は「へラマ」 の「訛化」であり、脇っちょの場所を指す言葉だと言う本来の意味が通じなかったのである。先頭の「マ」は「真」であり、美称の接頭語であると言う。

では本来のこの歌は一体何を歌っているのか?

古田さんの文章によると…

「ここでは、『平群(へぐり)』の地が、この遠征の帰着点 である、として歌われている。これは明白だ。その上、そこは『白橿が枝』を挿す、といった、神聖なる儀礼の行わるべき聖地のように見なして、歌われている。

 確かに、近畿大和に『平群』は、ある。西北辺、大阪府に 近い位置。大和の中では、かなり辺鄙(へんぴ)な、はしっ こ。ここに橿原や三輪山や飛鳥のように、『中心的聖地』があった、という形跡は見えぬ。その上、『景行天皇』がこの地から出発した、などという記載も、一切存在しない。それなのに、なぜ、『大遠征の終着地』が『大和の平群』なのであろうか。不審だ。従来の国学者も、言語学者も、歴史学者 も、解き明かしえなかった。

 ところが、筑紫の場合。これが解ける。あの吉武高木こそ、 「平群」の地なのだ。この点は、『和名抄』にも、明記され、 中・近世にも、平群郷が存在した。あの山門郷と並んで。

 その『筑前の平群』が、先にのべたように、『最古の三種 の宝物(神器)』の出土墓域だった。『二種』や『一種』がそれをとり巻いていた。そしてその東、50メートルのところ、 そこには『宮殿群』の跡が出土した。

 今は、地下に〝眠って″いた『三種の宝物』も、その被葬 者(墓の中の主人公)の生前には、この宮殿の中で、新しき 権力のシンボルとして、この『三種の宝物』がかかげられ、 被支配者たち、各層の群衆は、これを仰ぎ見ていた、あるい は見させられていたこと、およそ疑いえぬところではあるま いか。」

と言う事になる。つまりこの歌を高らかに謳い上げた人物は日本武尊ではない。九州王朝の大王だ。平群の地、吉武高木の宮殿に住まう九州の王者が遠征からの帰路、山門で歌った歌なのだ。古田 武彦氏は続けて言って居る。

「『新しき』といったのは、『天孫降臨』という名の侵入と 支配の樹立、その直後の時代だからである。古き時代とは、 板付の縄文・弥生前期水田の文明であった。

 この『新しき主人公』が没し、木棺に埋葬された。これが 吉武高木の中心墓だ。そして隣の『宮殿』は、『神殿』となり、『平群の地』は、倭国の中心をなす、輝ける聖地となった。九州王朝の聖地だ。倭王の中心の聖地である。

 このように、歴史への認識を確かにしたとき、あの『景行 天皇』、実は『前つ君』と呼ばれる、倭国の王者が九州の 東南、日向の国で歌ったところは、直裁に理解できる。

 大遠征の終了を、神前に報告すべきところ、それは平群な る、吉武高木の聖地であった。その創業の王、倭国の初代王 の墓前に参り、その王が筑前の一角に印した『新権力の樹立』が、今回の九州一円の平定によって、磐石の基礎を築きえた こと、それを報告するのである。そしてその王が生前、居し たもうた宮殿、今は神殿の前で、『大遠征終結』の宣言を行う。その日を、彼は夢見ているのである。詩人にして英雄、 その時代である。

 この筑紫の地は、もと『白日別』と呼ばれた〈『古事記』 国生み神話〉。ここの『白橿』も、これと同類の『白』では あるまいか(今、福岡市に白木原がある)。

 このように、室見川中流の平群の地が、この第三歌の対象 であるとするとき、第二歌の謎も解けよう。」

① 愛しきよし 我家の方ゆ 雲居立ち来も

② 大和は 國のま秀らま
  畳づく 青垣山
  籠れる、大和しうるわし

③ 命の 全けむ人は
  畳薦 平群の山の
  白橿が枝を 髻華に挿せ この子

更に古田 武彦氏は言う。

「室見川下流の『やまと』(山門郷)の地は、この平群と いう中心地(心臓部)の『脇』に当る、よき地だ、といっているのである。不審はない。おそらく、出発のとき、平群の 聖地に詣でてより、河口の『やまと』の地から、九州全土平 定をめざす遠征軍は、自己の『侵略』の拡大のため、出発し たのではあるまいか。その日のことを、筑前の王者は、人々に思い出させようとしているのである。遠征に疲れた兵士た ちの士気を鼓舞しようとしたのだ。

 以上のように、『大和の平群』では、皆目意味不明だった ところが、いったん『筑紫の平群』を原点にするとき、つぎつぎに疑点が解消してゆく、その『解読の醍醐味』を、わたしはかみしめていたのである。

 この研究経験は示した。わたしが本書で行った『景行天皇 の九州大遠征』分析が、正当であった、という事実を、それはまた、示している。〝『日本書紀』の記事は、九州王朝の史実(の歴史記載)からの転用(盗用)をふくむ″。この命題が偽りでなかったことを証明しているのである。すなわち、 『九州王朝』と言う、歴史上の命題の正当性、それを裏づけているのである。」