「大化」は九州年号(倭国年号)では六九五年が元年であるところ、『書紀』では六四五年で「五十年のずれ」が見られる。
日本書紀 | 九州年号 |
大化(645年~650年4年間) | 大化(695~703年(9年間) |
白雉(650年から654年4年間) | 白雉(652~660年(9年間) |
朱鳥(686年のみ) | 朱鳥(686~694年9年間) |
九州年号では
命長 640~646年(6年間)
常色 647~651年(5年間)
白雉 652~660年(9年間)
白鳳 661~683年(23年間)
朱雀 684~685年(2年間)
朱鳥 686~694年(9年間)
大化 695~703年(9年間) ※『二中歴』は大化六年(700年)まで。
大長 704~712年(9年間)
と元号は連綿と続いて居るのに「日本書紀」では大化・白雉・朱鳥の3年号のみが唐突に出現している。九州年号白雉は652年が始まりなのに対して日本書紀白雉は650年であるから『日本書紀』孝徳紀の白雉は九州年号から二年ずらしての転用(盗用)であると考えられる。「日本書紀」は孝徳天皇六年(650年)を白雉元年として、同年二月条には、白雉改元に関わる白雉献上の儀式が大きな宮殿で大々的に執り行われた様子が記されている。
「二月庚午朔戊寅(9日)、穴戸國司草壁連醜經(しこぶ)、白雉を獻じて曰く、(中略)
甲申(15日)、「朝庭」の隊仗、元會儀の如し。左右大臣・百官の人等、四列を「紫門」の外に為す。(中略)左右大臣乃(すなわ)ち、百官及び百濟君豐璋・其弟塞城・忠勝・高麗侍醫毛治・新羅侍學士等を率いて、「中庭」に至る。三國公麻呂・猪名公高見・三輪君甕穗・紀臣乎麻呂岐太、四人をして、代りて雉の輿を「殿」前に進ましむ。
時に、左右大臣就きて輿の前頭を執(か)きて、伊勢王・三國公麻呂・倉臣小屎、輿の後頭を執きて、御座の前に置く。天皇、卽ち皇太子を召して共に執(と)りて觀る。皇太子、退いて再び拜す。(中略)
又詔して曰く、四方の諸國郡等、天の委ね付(さづ)くるに由りての故に、朕總(ふさ)ね臨(のぞ)みて御寓(あめのしたしら)す。今我が親神祖の知らす所、穴戸國の中に此の嘉瑞有り。所以(このゆえ)に、天下に大赦す。改元して白雉とす。〟『日本書紀』孝徳天皇白雉元年庚戌(650年)二月条」
穴戸國(長門国、山口県の西半分)の国司が白雉を天皇に献上し、それを吉兆として年号を白雉に改元したという記事で、「朝廷」「紫門」「中庭」「殿」(紫宸殿か)がある大規模な宮殿で儀式を執り行った様子が記されている。「今我が親神祖の知らす所、穴戸國」とあるが、では、どの祖先が穴戸國をしろしめたのであろうか。宍戸の豊浦の宮で天の下をしろしめした天皇とは誰であるのか。推古女帝が棲んだのは奈良の豊浦の宮だとされているし、仲哀天皇とその妻神功皇后は宍戸の豊浦宮に仮住まいしただけだ。宍戸をして「我が親神祖の知らす所」と言えるのは九州の王朝だけなのではないだろうか。
「前期難波宮」は六五二年九月に完成したと記されている。
「秋九月に、宮造ることすでに終わりぬ。その宮殿の状(かたち)ことごとくに論(い)うべからず。」孝徳紀白雉三年九月条(六五二)
こうして見ると白雉に元号が切り替わったのは常色元号年652年の9月で、その折に以下の事が行われ
- 二月十五日、朝廷の隊伎、元日の儀のごとし。左右の大臣・百官ら「紫門」の外に四列にならぶ。
- 白雉を乗せた輿とともに、百済の君・豊璋らを引き連れて「中庭」に至る。
- 別の四人が輿をとり「殿」の前に進む。
- 伊勢王や左右の大臣ら五人が輿をとり、「御座」の前に置く。
- 天皇が皇太子を招き、ともに白雉を見る。
「白雉元年春正月辛丑朔(1日)に、車駕、味經宮に幸(ゆ)きて、賀正禮を觀る。味經、これを阿膩賦(あじふ)と云う。この日に、車駕、宮に還る。」孝徳期白雉元年(六五〇)正月条
と前期難波の宮(味經宮)で賀正禮が執り行われたと言う事になる。
白雉元年正月に9月に落成した前期難波の宮(味経宮)で賀正礼を行った、と言う事になる。これらの記事から白雉改元の宮殿がかなり大規模なもので、「前庭(紫門の外)」「紫門」「中庭(朝堂院か)」「殿(紫宸殿か)」「御座」を有すことがわかる。次々と輿をとる人が交代することからも、それぞれの場所が一定の広さを有していることも推察できる。また、「紫門」とあることから、その奥には「紫宸殿」があると思われ、この宮殿が「北を尊し」とする北朝様式であることもわかる。
こうした規模と様式を持つ七世紀中頃の宮殿は、日本列島広しといえども前期難波宮しか発見されていない。従って、白雉改元の儀式が行われた宮殿は前期難波宮であり、百済の君(王子)豊璋を人質として預かっていた九州王朝・倭国の天子が、ここで白雉改元の儀式を執り行ったと考えざるを得ないのである。
大化・白雉・朱雀の3年号に関る時代の金石文で不審がられる物が存在する。「船王後墓誌」の金石文(銘板)である。
「船王後墓誌」
- 表:惟舩氏故 王後首者是舩氏中祖 王智仁首児 那沛故首之子也 生於乎娑陀宮治天下 天皇之世奉仕於等由羅宮 治天下 天皇之朝至於阿須迦宮治天下 天皇之朝 天皇照見知其才異仕有功勲 勅賜官位大仁品為第
- 裏:三殯亡於阿須迦 天皇之末歳次辛丑十二月三日庚寅故戊辰年十二月殯葬於松岳山上共婦 安理故能刀自同墓 其大兄刀羅古首之墓也 即為安保万代之霊基牢固永劫之賽地也
訳文
- 惟(おもう)に舩氏、故王後首(おびと)は是れ舩氏の中祖 王智仁首の児なり 乎娑陀の宮に天の下を治らし天皇の世に生まれ、等由羅の宮に天の下を治らし天皇の朝に奉仕し、阿須迦の宮に天の下を治らし天皇の朝に至る 天皇、照見して其の才異にして仕えて功勲有りしを知り、勅して官位、大仁、品第三を賜う。
- 阿須迦天皇の末、歳次辛丑十二月三日庚寅に殯亡しき。故戊辰年十二月に松岳山上に殯葬し、婦の安理故の刀自と共に墓を同じうする。其の大兄、刀羅古の首の墓、並びに作墓するなり。即ち万代の霊基を安保し、永劫の賽地を牢固せんがためなり
要約すると
- 舩氏の(故)王後の首は、舩氏の中祖に当たる王智仁の首の子、那沛の(故)首の子である。
- 彼(舩王後)は三代の天皇の治下にあった。まず「乎娑陀の宮の天皇」の治世に生まれ、次いで「等由羅の宮の天皇」の治世に奉仕し、さらに「阿須迦の宮の天皇」の治世に至り、その阿須迦天皇の末、辛丑年(641年)の12月3日(庚寅)に没した。
- 阿須迦天皇は彼の才能が優れ功勲があったために「大仁」と「第三品」の官位を賜ったのである。
- その後、(27年経って)妻の安理、(故)刀自の死と共に、その大兄、刀羅古の首の墓と一緒に3人の墓を造った。彼らの霊を万代に弔い、この宝の地を固くする為である。
以上銘板に現れた天皇の通説による比定は以下のようであった。
- 「乎娑陀の宮の天皇」➡敏達天皇(572年~585年)
- 「等由羅の宮の天皇」➡推古天皇(592年~628年)
- 「阿須迦の宮の天皇」➡舒明天皇(629年~641年)
日本書紀に寄れば敏達天皇は百済大井宮に居た。それが遷都して幸玉宮に移った。それが訳語田(おさだ)の地とされる(古事記では他田宮)
推古天皇は豊浦宮(奈良県高市郡明日香村豊浦)にあり、その後小墾田(おはりだ)宮(明日香の地か?詳細不明)に移ったとされる
舒明天皇は岡本宮(飛鳥岡の傍)が火災に遭い田中宮(櫃原市田中町)へ移り後に厩坂宮(櫃原市大棘町地域?)更に百済宮に移ったとされる
舩王後が没したのは641年の12月3日なのに舒明天皇は641年10月9日の崩御なので銘板文章中の「阿須迦天皇の末、歳次辛丑十二月三日庚寅に殯亡しき。」と整合しない。
その上、この舩王後が生前を過ごした時期の天皇名の多くが欠落している。
用命天皇(585年~587年)
崇峻天皇(587年~592年)
以上641年以前ーーーーーーーーーー
皇極天皇(642年~645年)
孝徳天皇(642年~645年)
孝徳天皇(645年~654年)
斉明天皇(655年~661年)
天智天皇(661年~671年)
弘文天皇(671年~672年)
天武天皇(673年~686年)
ーーー当該銘文成立(668年頃)ーーーー
勿論、これらの天皇群の名前の欠落に付いては様々な弁明はなされ得る。しかし、この銘板文面の記載の重要なポイントは「各天皇と舩王後との関り」を主眼にして居る事から見れば各近畿天皇家の天皇名の欠落はやはりかなり不自然だ。
「阿須迦天皇の末」との記述がある所から見ると当天皇の治世年代はかなり長かったと推測されるのだが舒明天皇の治世はただの12年間である。
銘板中の主人公舩王後は「大仁」であり「第三品」であるからかなり高位の著名人である筈なのに、日本書紀には敏達紀、推古紀、除名紀ともに彼の名前が一切書かれて居ないのである。これが最大の「?」である。日本書紀、古事記の記述を正しいと見るなら解きがたい謎が増える一方なのである。これを出土事実の方が正しいとみるならばどうなるであろうか。
銘板文中に現れる宮室は全て九州王朝の宮室である。もし近畿天皇家の宮室だったのならば上記の様に諸矛盾錯綜する筈は無いのである。
「乎娑陀の宮」ーー日佐(乎左)(福岡県那珂郡。和名類聚抄。高山寺本)
「等由羅の宮」ーー豊浦宮(山口県下関市豊浦村)
「阿須迦の宮」ーー福岡県小郡市飛鳥の浄御原の宮
神籠石山城の分布図を見ても上記3宮とも分布図の内部に有る。福岡市や小郡市が神籠石山城の中心領域にある事は良く知られていた。神籠石山城の東端に石城山(山口県)が築かれている。石城山の下、瀬戸内海に臨む所に「上関」がある。「下関」と相対応する関所だ。その上関と下関の真ん中に豊浦宮は位置している。
日本書紀の孝徳紀白雉元年(650年)2月の項の記述にはこう書かれている。
「詔して曰く『四方の諸々の国郡等、天の委ねさずくるに由りての故に、朕総ねて臨みて御寓す。今我が親神祖(むつかみろき)の知らす。宍戸国の中に、この嘉瑞有り。所以に、天下は大赦す。元を白雉と改たむ。』とのたまふ」
上記の後も「宍戸堺」「宍戸の三年の課役」と言った句が続き、この「白雉」改元がこの国の嘉瑞によった事が述べられている。それだけではない。この宍戸国は「今我が親神祖(むつかみろき)の知らす。宍戸国」だと述べている。仲哀天皇や神功皇后の場合「仲哀2年9月に宮室を宍戸に立てて居します。是を豊浦宮と謂うす。」とあるけれど直後(8年正月)には筑紫に向かっている。豊浦宮は筑紫行の逗留地であったのであってこの地を中心にして天下を統治していたという訳ではない。「今我が親神祖(むつかみろき)の知らす。宍戸国」と言う表現は違和感がある。
所が「大仁」であり「大三品」の舩王後の首が「等由羅の宮に天下を治らしし天皇の朝に奉仕した」と言うのであるから当の天皇が「我が親神祖(むつかみろき)」と呼んで居るのも極めて自然で違和感がない。「白雉(652年~660年)」(二中歴)と言う「九州年号」の立元の理由書として極めて相応しい適切なお話となる。(日本書紀の「白雉」とは2年のずれがある)銘板中の舩王後の首が没した年、その年の九州年号は命長2年に当たる。阿須迦天皇の末の年代だと言う。命長年号は646年で終わっている。舩王後の首が没して27年後の戊辰年は668年、九州年号白鳳7年の事である。
やはり日本書紀は「九州王朝の史料」からの転用によって構成されて居たのである。
では何故大化・白雉・朱鳥のみが九州年号から切り取られて日本書紀、続日本紀に移植させられたのであろうか。大化改心詔によって豪族連合の国家の仕組みを改め、土地・人民の私有を廃止し、天皇中心の中央集権国家を目指すものであった。大きく4か条の主文からなり、各主文ごとに副文(凡条)が附せられていた。この事は九州王朝による近畿内の整備統合を意味する。更に畿内に於ける評の設置でる。評の設置は豪族の独自支配体制を否定し、豪族の地方支配を天皇による一元的な支配体制に組み込むものであった。評の設置により、地方豪族らは半独立的な首長から、評を所管する官吏へと変質することとなった。いわば「建評の詔」それが大化改新詔だったのである。
畿内という概念を定め、難波京を中心とする支配領域を定めた。この歴史的事実を「評」を「郡」に改めた大宝律令と混同させるための「大化」年号の盗用だったと考えられるのだ。同様に白雉年号の盗用は神籠石山城の分布図に見える九州王朝の事績の隠蔽のために必要だったのである。『日本書紀』に記されている「大化」「白雉」「朱鳥」の三年号はいずれも「改元」とされており、初めて年号を立てたときに使用する「建元」という表記は使用されていない。すなわち、「大化」が天皇家の最初の年号ではないことを、『日本書紀』自身も示していたのである。
以下は古賀達也氏の論文「朱鳥改元の史料批判」「朱鳥改元記事の謎」である。
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『日本書紀』に現れる三年号中、もっとも謎に満ちた不自然な記述が朱鳥改元記事である。天武朱鳥元年七月条の次の記事だ。
「戊午(二十日)、改元して朱鳥元年と曰ふ。〈朱鳥、此を阿訶美苔利あかみとりといふ。〉仍りて宮を名づけて飛鳥浄御原宮(あすかきよみはら)と曰ふ。」※〈〉内は細注。
『日本書紀』天武紀朱鳥元年七月条(六八六)
天武の末年(十五年)七月に突然何の説明もなく改元し、その年の九月九日に天武は没している。そして、翌年は持統元年となり、『日本書紀』中では朱鳥は一年で終わっているのだ。大化は孝徳天皇即位に伴い「改元」され、続いて白雉と「改元」されており、それなりにつじつまはあっているが、朱鳥のみは天武末年の突然の改元という何とも不思議な現れ方をしているのである。
更に不思議な事はある。朱鳥にのみ「阿訶美苔利あかみとり」と和訓が施されている。年号に和訓とは何とも奇妙ではあるまいか。もちろん、大化・白雉にはない。しかも、朱鳥改元を飛鳥浄御原宮の命名の根拠としているが、これもおかしなことである。両者はほとんど音や意味に関連がない名称だからである。せいぜい「鳥」の一字を共有しているだけだが、「飛鳥」の地名や文字はそれ以前から存在し、この時に初めて使われたとも思われない。同様に飛鳥浄御原宮も天武元年に造られたことが見える。
「是歳、宮室を岡本宮の南に營る。即冬に、遷りて居します。是を飛鳥浄御原宮と謂ふ。」
『日本書紀』天武元年是歳条(六七二)
天武元年から末年までの十四年もの間、天武が名無しの宮に住んでいたとは考えられない。このように朱鳥改元記事はかなり不自然、不明瞭な記事なのである。
本来七世紀末の事件であった「大化の改新」記事を孝徳紀へ持ち込むための政治的改変であることを古田武彦氏が指摘されている。次いで、白雉元年壬子(六五二)は、『日本書紀』では大化五年の翌年(庚戌、六五〇)に元年が移動され、その後五年間続いており、孝徳の在位年間と共に終了する。この点、天皇の在位期間と大化・白雉年号が一致するよう盗用されている。なお、『二中歴』の白雉は六五二年から六六〇年まで九年間続く。
このように、大化・白雉に関しては元年や継続年を移動して盗用されているが、朱鳥のみは元年が共に六八六年と一致しているのである。しかも、すでに述べたように朱鳥は天皇の即位年と一致しているわけではなく、天武没年の一年限りの存在である。『二中歴』では六八六年から六九四年まで九年間朱鳥が続いているが、『日本書紀』では翌年は持統元年となる。『日本書紀』編者は何故朱鳥のみ、このような盗用の仕方をしたのであろうか。より常識的に盗用するのであれば、それこそ一年遅らせて、持統元年を朱鳥元年としてもよかったはずである。大化を五十年、白雉を二年ずらして盗用したぐらいであるから、一年ずらして持統天皇の即位年にあわせることぐらい簡単にできたはずだ。 不審である。
ちなみに、近畿天皇家による七〇一年の大宝年号建元から、『日本書紀』成立の養老四年(七二〇)までの間、慶雲(七〇四)・和銅(七〇八)・霊亀(七一五)・養老(七一七)と改元されているが、各天皇の即位年かその翌年に改元がなされている。したがって、『日本書紀』編者が朱鳥を九州年号から盗用するのであれば、編纂当時の実際の改元と同様に、持統の即位年にその位置をずらして盗用するのが、常識的と思われるのである。
かつて、九州年号原形論争において、朱鳥は九州年号ではないとする説があった。その主たる理由の一つとして、『二中歴』以外の九州年号群史料の多くは、朱鳥をもたないことが上げられていたが、本稿の帰結から見れば、『日本書紀』の三年号中、朱鳥が最も不自然な位置と記述をもつという史料事実こそ、逆に実在の根拠と考えられるのである。なぜなら、『日本書紀』編者の捏造であれば、それこそ天皇の在位期間や即位年に元年を位置づけるなど、もっとそれらしく捏造したはずであるからだ。しかし、そうはなっていない。なお、筆者は金石文の存在から朱鳥年号の実在を論じたことがあるが、今回『日本書紀』朱鳥改元記事の史料批判においても同様の結論を得たのである。
なぜ『日本書紀』編者たちは、朱鳥を大化・白雉と同様に天皇の即位・在位期間にあわせて盗用せず、九州年号「朱鳥」の本来の位置(六八六)、すなわち天武の末年という不自然な位置にそのまま記したのであろうか。うっかり朱鳥のみを正しく盗用したとは思われない。やはり、そうせざるを得ない政治的理由があったため、あえて不自然な位置のまま朱鳥改元記事を盗用したのではあるまいか。その理由として、朱鳥改元記事の前日(七月十九日)の「徳政令」記事が注目される。
「丁巳(十九日)に、詔して曰はく、『天下の百姓の貧乏(まず)しきに由りて、稲と資材とを貸(いら)へし者は、乙酉の年(天武十四年、六八五)の十二月三十日より以前は、公私を問はず、皆免原(ゆる)せ」とのたまふ。」※()内は古賀による注。
『日本書紀』朱鳥元年七月十九日条(六八六)
このように前年以前の「借金」の元本返済を免除する詔勅が出されており、その翌日に朱鳥改元がなされているのである。しかも、この「朱鳥元年の徳政令」には続きがある。翌、持統元年七月条の次の記事だ。
「秋七月の癸亥の朔甲子に、詔して曰はく、『凡そ負債者、乙酉年より以前の物は、利収ること莫。若し既に身を役へらば、利に役ふこと得ざれ』とのたまふ。」
『日本書紀』持統元年秋七月二日条(六八七)
このように、「利息」についても免除する詔勅が続いて出されているのだ。これら一連の「徳政令」にこそ、『日本書紀』に朱鳥年号を正しくその位置に盗用せざるを得なかった理由が隠されているのではあるまいか。というのも、朱鳥元年と翌年に出された詔勅は九州王朝と九州年号が健在だった当時であれば、「朱鳥元年」「朱鳥二年」の年号付き文書で通達されたと考えざるをえない。とすれば、それら朱鳥の「徳政令」通達は各豪族や評督など負債をかかえている者にとっては、貴重な「借金」免除の「証文」であったこと、これを疑えない。従って、近畿天皇家にとって、この「朱鳥の徳政令」を引き続き認めるのか、認めないのかは重要な政治的判断であったと思われるし、結果として近畿天皇家は『日本書紀』に「朱鳥の徳政令」を正しく記入することで、それら「証文」の価値を公認した。この場合、両詔勅を記した「徳政令」通達文書中には「朱鳥元年」「朱鳥二年」という発行年次や「乙酉以前」という免除年次が記入されていたはずであるから、『日本書紀』にも乙酉の翌年である六八六年に正しく朱鳥元年を記さざるを得ないという、動かすべからざる事情を有したのである。
以上のように、近畿天皇家の政治的判断に基づき、『日本書紀』編者は朱鳥に限り、正しくその位置に盗用したと思われるのであるが、それではその政治的判断とはいかなるものであろうか。その考察に入る前に、「朱鳥の徳政令」により負債を免除された勢力について検討してみたい。
この時期、もっとも経済的に疲弊していた勢力は、白村江の戦いに参戦敗北した九州王朝側の豪族たちであろう。しかも、戦前からの水城や神籠石山城の築城、そして戦時の徴兵と戦死による労働力不足など、その惨状は想像するに余りある。さらに、戦勝国唐への「戦後賠償」も『日本書紀』の次の記述から推定しうる。
「夏五月の辛卯の朔壬寅に、甲冑弓矢を以て、郭務宗*等に賜ふ。是の日、郭務宗*等に賜ふ物は、総合て?*千六百七十三匹・布二千八百五十二端・綿六百六十六斤。戊午に、高麗、前部富加抃等を遣して調(みつき)進(たてまつ)る。庚申に、郭務宗*等罷(まか)り歸りぬ。」
『日本書紀』天武元年夏五月条(六七二)
唐の進駐軍の将、郭務宗等の帰国にあたってのこの桁違いに厖大なプレゼントを「戦後賠償」であるとする説が平田博義氏より出されている。注目すべき見解ではあるまいか。 そしてこのような敗戦後の疲弊した筑紫にとどめを刺すかのように起きたのが、天武七年十二月の筑紫大地震だ。その状況が次のように記録されている。
「是の月に、筑紫國、大きに地動く。地裂くること廣さ二丈、長さ三千餘丈。百姓の舎屋、村毎に多く仆れ壊れたり。是の時に、百姓の一家、岡の上に有り。地動く夕に當りて、岡崩れて處遷れり。然れども家即に全くして、破壊るること無し。家の人、岡の崩れて家の避れることを知らず。但し會明の後に、知りて大きに驚く。」
『日本書紀』天武七年十二月是月条(六七八)
「飛鳥浄御原宮に御宇しめしし天皇の御世、戊寅の年に、大きに地震有りて、山崗裂け崩れり。此の山の一つの峡、崩れ落ちて、慍(いか)れる湯の泉、處々より出でき。」
『豊後國風土記』日田郡五馬山条
この天武七年十二月条に記された筑紫大地震の痕跡として、高良山のある水縄山地の北側を東西に走る水縄活断層系が知られている。その活断層は曲水の宴遺構が出土した筑後国府跡のすぐ南側百メートルに比高差十メートルの崖として露出しており、その地震により「筑後国府」は大打撃を受けている。このような九州王朝中枢地域に発生した直下型大地震により、九州王朝の疲弊は極に達したものと思われる。そして、その八年後の朱鳥元年に「徳政令」が施行されたのである。敗戦後経済の疲弊と地震による被害を被った筑紫の豪族・人民にとって、この「徳政令」は歓迎されたのではあるまいか。と同時に、債権者からは怨嗟の的であったことも十分想像しうるのである。
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関東栃木県の一角に、これまた議論の的の石碑がある。那須国造碑だ。白村江敗戦後の日本列島の状況を反映した石碑である。
那須国造碑原文
永昌元年己丑四月 飛鳥浄御原大宮
那須国造追大壹 那須直韋提評督
被賜 歳次庚子年正月二壬子日辰節殄
故意斯麻呂等立碑銘偲云尓仰惟殞公廣氏
尊胤国家棟梁一世之中重被貳照一命之期
連見再甦、砕骨挑髄豈報前恩是以
曾子之家、无有嬌子、仲尼之門、无有罵者、行孝之子、
不改其語、銘夏尭心、澄神照乾、六月童子、意香
助坤、作徒之大、合言喩字、故無翼長飛、无根更固
訳文
永昌元年(689年・持統3年)己丑四月、飛鳥浄御原大宮より、那須国造・追大壹を、那須直・韋提評督は賜る
歳次庚子年(700年・文武4年)、正月二壬子日、辰節、殄(みまか)る
故に意斯麻呂等、碑を立て、銘して偲びて云うこと尓(しか)あり
仰いで惟(おもんみる)に殞公は廣氏尊胤、国家の棟梁なり。
一世の中、重ねて貳照を被り、一命之期、
連なりて再甦を見る。砕骨挑髄、豈前恩に報いんや。是を以って、
曾子之家、嬌子有ること无(な)く、仲尼之門、罵しる有る者无(な)し、孝を行う之子、
其の語を改めず。銘夏尭心、澄神照乾、六月の童子、意香、
坤を助け、作徒之大、合言、字を喩す。故に翼無くして長(ことしな)えに飛び、根无(な)くして更に固し
唐の則天武后の「永昌元年」の四月に、飛鳥浄御原大宮(通説では持統天皇)から、那須直・韋提督は、新しい称号及び官位、那須国造・追大壹を賜った。
この訳文に付いては江戸時代から「那須国造・追大壹」が新しく「那須直・(韋提)評督」を賜った、とするのが通説であったらしい。しかし九州王朝説では真逆だ。
従来の通説
(旧称)那須国造・追大壹
(新称)那須直・(韋提)評督
九州王朝説(古田武彦氏)
(旧称)那須直・(韋提)評督
(新称)那須国造・追大壹
文中に「一世の中、重ねて貳照を被り、一命之期、連なりて再甦を見る。」の表現がある。「韋提と言う人は一生の中で二回目の日の目を見た。それも起死回生の、と言っても良いほどのものだった。」と書かれて居るのだ。韋提には旧称と新称があった。上記の内の「追大壹」には明確な時限がある。これは天武14年(686年)正月の制定の爵位十二階によるものである。だからこれ以降だ。したがって永昌元年(689年・持統3年)の官位授与に「追大壹」は相応しい。
「評督」と言う称号が人名の下に付く例は多々残されている
倉足諏訪評督(信濃国「金刺氏系図)
新家連阿久多評督領(「皇太神宮儀式帳」)
藤原宮出土木簡には
己亥年十月上挾国阿波評松里
とあり、「評」は「国」の下部概念である。現代の都・府・県の下に郡・市などがあるのと同じだ。
したがって評督であった韋提が国造りの称号を与えられて大きな喜びを得、彼の死後、遺族が石碑を立てこれを称揚したのは無理のない話なのである。
飛鳥浄御原大宮が韋提に直接官位を与えたとは考えにくい。現在も公務員が直接に総理大臣から任命される事が無いのと同じだ。では韋提に官位を与えた直接の上役は誰だろう。九州王朝説・古田武彦氏の推測によると韋提への直接の官位授与者は上毛野の君が有力な候補だろうと言うことであった。
則天武后の年号「永昌」が冒頭に置かれている。東アジア世界の太陽ともいうべき権威を白村江戦勝利の後確立した女帝の時代に相応しい
「飛鳥浄御原大宮」が次に現れる。白村江戦敗戦後「築紫の君」「上毛野の君」等が相次いで捕囚され、あるいは消え、近畿天皇家の権勢はいよいよ強まり、関東もその配下に組み込まれた状況が読み取れる。
「永昌元年(689年・持統3年)己丑四月、飛鳥浄御原大宮」の「飛鳥浄御原大宮」の天皇は持統天皇ではない。「飛鳥浄御原大宮」は九州の小郡市の「飛ぶ鳥のアスカ」の地の大宮、現在の三井高校の地であり、その人は祟道天皇だ。それ以外に有り得ないのである。評制の原点は筑紫の都督府なのだから、この点は疑う余地が無いのである。
この碑の建立された時間、それは当人(韋提)の死庚子年(700年・文武4年)の直後だったと思われる。彼はこの年の正月に死んでいるから恐らくその年の内に建立されたのであろう。なぜなら、もし翌年以降に建立されたのなら近畿天皇家初の元号「大宝元年(701年)」の年号が刻まれていた筈だから。
大宝元年の元号を立てた近畿天皇家の、白村江敗戦後の王者の背景、真の一大権力者は誰か。この那須国造碑の金石文はリアルに明示している。それは輝ける中華の女帝、則天武后なのである。
参考:白雉改元の宮殿「賀正礼」の史料批判 古賀達也氏 https://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaiho116/kai11603.html
:古賀達也の洛中洛外日記「二中歴」一覧https://koganikki.furutasigaku.jp/koganikki/category/ni-tyu-reki-the-old-japanese-calendar/
:「なかった」真実の歴史学第6号
:朱鳥改元の史料批判 古賀達也氏論文 https://www.furutasigaku.jp/jfuruta/sinjitu4/koga04ko.html
:「古代は輝いていたⅢ」古田武彦氏