天は人の上に人を創らず人の下に人を創らず

天は人の上に人を創らず人の下に人を創らず

福沢諭吉の「学問のすすめ」冒頭の「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと云えり」と言う言葉はとみに有名である。「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと云えり」と書かれてはいるが誰が云ったのかは不明であった。

この言葉は西欧の天賦人権説を表す福沢の独創であると考えられてきた。しかし、アメリカ独立宣言にも、フランス人権宣言にも、「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言う言葉は無い。しかしながら、「東日流三郡誌及び和田家文書には夥しい数の類似の言葉が存在する。

安倍時頼:天喜元年(1055年)5月2日〈寛政5年10月秋田孝季写し〉北方新社第一巻520~21頁

日高見国末代に住みよき国造り、夢追うが如く民にはげまし、いざこそ是れ荒吐族世の如く南越州、東坂東より北領の住人の国境及び司者を除きて住民一緒の政を布してより、飢え民ぞなかりしに、朝賊の汚名を蒙りて、帝は征夷の勅を以て吾れ討たむなりとせり。誠に浅猿しき哉。絹衣を朝夕にまといし都、麻を着る民の汗をついばむ輩に、何が故の献税ぞや

安倍次郎貞任:康平5年(1062年)正月日〈寛政5年秋田孝季写し〉北方新社第一巻519頁

吾が祖は、よきことぞ曰ふ。即ち人に生る者、天日に照らしては平等なりと、人を忌み嫌ふは人にして亦、人の上に人を造り、人の下に人を造るも人なり

安東太郎太夫貞季:建保2年(1214年)年孟春五日 安東律義法度 北方新書第二巻 317~19 頁

律義法度之事
一、安東一族に生を受く者、一毛の事項とて勝手にあるまずく寄合衆に決しべきこと。
一、将にあり、労奴にあり、必ず一族をして争ふべからず。上に謀るもの、下にありて労々の者、互いにむつむを以て生々和合を保つべし。
一、吾等一族の中にありては、権に利をむさぼらず、法に上下の離[隔カ]りなし。
 一族の民をして富貧を不問、不平等なるはなく、武士、農奴、商奴、漁奴、工奴、僧侶、神職はその暮し方異にするとも律義法度は鏡の如くしてあやまらず。善悪を審し是を裁判す。
一、侵敵に挙兵せるは、一族皆兵なり。
 而るに生命を徒らにして無謀に散らすべからず。敵に当戦しては、利ありてこそ向へ、利非ずして退くべし。かくして戦利謀りに謀りて敵を討つべきを要となし、猪突激怒の独判断ぞ起すべからず。 

藤井伊予:元禄10年(1697年)1月8日  安東一族抄第六巻北方新書二巻304~09頁

安東一族は古来よりかくなる人祖の理を覚り、天秤の如く、人をして上下を造らず、種別を嫌はず、戦を好まざる民族なり。

藤井伊予 :元禄10年(1697年)年5月 抜抄篇第三北方新書一巻64~65頁

われら人祖の祖血は世界皆一族にして、いかで人のうえに人ぞあるべきか、また富貴貧賎ぞ如何に以て人の世にのみあるべきぞ。人の道には父母に孝し、導くものを尊敬せる他に何事を以て争ふぞ。
 荒吐族は古来より全能の神なる天地水の荒吐神を平等摂取の神となし崇拝しきたり。…平等なる人の生々を子孫に遺しけるは尊ときところなり。  

秋田頼季:元禄10年(1697年)7月恨言述書〈秋田孝季写し〉北方新社第六巻301~02頁

津軽祖来の安倍一族を蝦夷と称すは都人の通称なれども、蝦夷とはなんぞや。
 血肉の異る紅毛の西蕃人なるか、安倍一族に生を受け、子孫幾代に渡りたるも、日本都人ならでは蝦夷なるか。依て、都人の智謀術数なる輩に従せざる者は蝦夷なるか。
 吾が一族の血肉は人の上に入を造らず、人の下に人を造らず、平等相互の暮しを以て祖来の業とし、以て救生の誓理と是を犯す者は如何なる巨敵たりとも蛇対蟻群の闘争の如しとも、一族の安泰を護る者は吾等なり。 

日高見国実史雑抄 北方新書一巻 179~82頁

人は人をして富貴貧賎をつくり、人の上下を位し、なんたる浅猿しき行為ぞ。平等は人と生れしものの生々なるも、国土をして主をなし、衣食住の安養をむさぼるものはたれぞ。

藤井伊予 :元禄10年(1697年)8月3日津軽秘聞抄 荒磯神社祭文 北方新書五巻83~84頁

荒吐神は天地一切、万物一切を神とし、男女の律儀を一夫一妻として護り、犯す者を赦さず科罪す。一族の者にして富貧をつくらず、人の上下を造らず、一汁一食たりとも私に非らず一族をして分つが捉とし、これを抜る者はただ死あるのみなりき。荒吐神はかくして荒吐族の心に生じたる神なり。

 いつよながら、人をして富貧をつくりては権をして凶兆をまねき、富貧の者限りなく世に策謀し、一草一物たりとも権者の私せるものなりとせば、是れ荒吐の神に依りて天誅ありとぞ信じたるは荒吐族なり。…荒吐神は常に日輪の光明の如く、いかなるところに住むる者と云いども照らす照らさざるといはれる教へなく、老若男女、何れに住むる者なるとも一子の如く世の渡りを平等とせり。茲に、荒吐神なる奥義を解かん。

藤井伊予: 元禄10年(1697年)8月北辰暗国談第二巻北方新書四巻417~18頁

荒吐族とは、諸族併合の一族なれば、倭族なるごとく人の上に人を置くことぞなく、人の下に人の置けることぞなし。先づ以て、老人を人師として諸事を習ひ、その子は労し親子を養ふは人の道とせり。依て、一汁一食たりとも、われ一人なるものとせず、神なる光明の如くこれを分ち合いて食すは荒吐族が暮しの習へなり。たとひ戦起り、敵ぞ侵さむるに挙ぐる一族の死線に向はむも同じなり。蟻の如く諸事はみな共労の暮しなり。

 藤井伊予: 元禄10年(1697年)8月日高見国実史雑抄北方新書一巻 179~82頁

人は人をして富貴貧賎をつくり、人の上下を位し、なんたる浅猿しき行為ぞ。平等は人と生れしものの生々なるも、国土をして主をなし、衣食住の安養をむさぼるものはたれぞ。是れ総て人の心、知謀な善悪の行為その使途に依れるものなりと、荒吐族は実相万能の神なるイシカホノリカムイに祈りて曰ふなり。 

藤井伊予: 元禄10年(1697年)8月日高見国大要北方新書一巻 394~98頁

荒吐族は階級平等に私権なけれども、職をして、その暮し異りぬ。海辺住、里住、山住の者は神を崇む祭事より異りて長老いたく心を悩ませりと云ふなり。…荒吐一族として、倭に対立して王国を得たる日高見国は、君民平等の故に私を赦さず、衆結を崩さざる契り固けるが故なり。依て、奥州は荒吐一族の勢は坂東及び越にも及びてとどまらず。茲に倭の国王驚胆し、急ぎ征夷の軍を起したり。 

藤井伊予: 元禄10年(1697年) 藤崎城譜北方新書二巻 226~29頁

蝦夷とは何ぞや、魂をもたざる鬼畜の類と思いきや、奥州に住むる故以てのあざけりか、蝦夷の血は赤白に異なすか、世の開闢に全能なる神が、いかでか異にして蝦夷を造りしや。天日は万物に光陽至らぬことありしや。神は、人の上に人を、人の下に人を造り給ふなし。 

秋田孝季:寛政2年(1790年)7月 荒覇吐神之事北方新書補巻52~53頁

神は人の上に人を造らず。亦、人の下に人を造り給ふなし。
 宇宙の創に起りき百千万億の星界より、日月星の天体ぞ生れきは自然顕神なる全能之神通力也。
 日輪、地界は万物を生ぜし父母神なり。
 人心にて夢想せし神なるはもとより架空なるものなれば、心して是を信じるに足らん。神あるとせし真理に於ては、天然自然なり。古人は是を、あらはばきいしかかむいと拝し、唱へては、あらはばきいしかほのりがこかむい、とぞ唱へ奉れり。
 即ち、天地水を神と崇むる故なる唱号なり。 

秋田孝季:寛政5年(1793年)1月秋田一族の秘は石塔山に存す 北方新社補巻27~29頁

石塔山に祀らるる諸々の聖霊ぞ人に上下を造らず、平等摂取の心身を自他倶に及して崇むこそよけれ。 

秋田孝季 :寛政5年(1793年)8月17日  紋吾呂夷土史談北方新書四巻 460~70頁

天は平等に光陰を万物に与へ、人のみのためならず、万物生々のもの総て神なる子なればなり。地に境をなし争ふさまは古今に通じて人は常に善なるは一人だになく罪人なり。
 神を造り法を定め種に従はすもの最悪なる罪人にて、天なる神はそのものに再び人身をして世に生命を与ふことなし。即ち、人心に神は造れず、聖者ともなれざる故に権を以て従かはせ、法を以て罰し、理を考じて洗脳せしにや。無智なる民はこれに順じたりきのみにして、神を用ふる術にかかりき衆生の哀れさなり。
 天地を父母とせざる神への反逆それぞ人として人を制する国王となりし人身に左右を自在さる世の捉こそ罪に深き作為なり。
 神は天に地に人の生々する所に境を造らず、照らす照さざるの地は非ざるなり。断じて余はいう、人は人をさばくことぞできざるものにて、神は人を人の上に造らず、人の下に人を造らず、万物ことごとく神の子なり。依て、生々に於て平等せしくらしに於て、人心いかで理ありとても、神なる造像をして衆を迷信に誘ては罪なり。神の最も分心怒に招く降罰行なり。
 日月の光明は至る不至の処なし、常にして平等たる万物の父母なれば、万物生々のものはみな神の子なれば、常に平等摂取にして、国王たる権にも法にも神よりみる処にしては万物の一物なる子にて特抜たる恵はなし。 

秋田孝季 :寛政5年(1793年)10月荒羽吐神起原大要北方新社五巻57~58頁

人の智恵は地より鉄を造り、海より塩を造り、人たる身をして空に飛ばん、水に走り、海底を潜行せん具をも造らんとせる智望やまざるなれば、人をして人を征する世に到らば、自から造りし具物に民族の絶滅あらむとして、是を天命なる神の念怒に障りなからしむるために、東日流荒羽吐族は、天、地、水の自然なるものを神とぞ崇めたり。
 神なるは人なる相に非らず、日月星、明暗、空風、雨雪、雲雷、寒暑、山川、火煙、地震、洪水津波、岩石、草木、苔藻、魚貝、湖沼、大海、虫けらにいたるすべてぞ… 

秋田孝季:文化2年(1805年)正月元日 秋田水月抄五巻 北方新社五巻 682~83頁

日本国の現なる歴史に学びては、まさに実相なき神がかりなるに基き、浅猿敷限りにて民心を迷信に誘なむ手段の権制にして、人の上下を造れる作為なり。
 吾等が奥州にしては、古来より一族の血脈に於て、人の上に人を造らず、亦人の下に人を造るなし。神なる信仰をして迷信を造らず、亦神を造るなし。
 天地水なる原理は天然の神なり。依て、人をして造語作説の神あるべきもなし。大宇宙は人智を遠く及し難き神秘界にて、吾等の住むる地界を宇宙界に当ては一塊の星にて、果は円に尽る也。
 荒覇吐之神は宇宙にして天然なり。
 人心をして造らる理に非らず。天理なり。法則なり。生死は生とし生ける万物に及び、亦形あるは壊れるの機に至らむ、総て世に金剛不壊なるはなし。

和田長三郎末吉:明治2年(1869年)5月19日 怨霊不滅之譜北方新書五巻 676~79頁

安倍一族、安東一族の者よ、心に苦悩ありせば石塔山に来りて祖霊を崇めよ。石塔山の神訓は降魔調伏福徳招授と曰ふ。
 吾ら一族の血には天然なる荒覇吐神なる無上自在の神たる摂取平等の神通力にあり。
 一族をして人の上人を造らず亦、人の下に人を造らざる古来の崇神に基きて成る主義を尊べり。依て、神救の真や石塔山に来りて得らる也。 

和田長三郎末吉 :明治20年(1887年)3月4日北方新書補巻96~97頁

安倍、安東、秋田、和田、朝夷各氏ノ来歴ハ秘事多クシテ世ニハバカル故ニ、祖来ノ諸伝遺物ハ、中山ナル□□□□□セリ。依テ子孫代ニ是ヲ密トシ護ルヲ家継ノ一大事ナル極秘ナリ。何レカ世ノ襲威是無キ世ニ至ラバ、一族ヲシテ来歴ノ実相ヲ知ル可キニ驚カム。
 一族ノ総テハ現今時政ニ併セ難キ史伝多ク、以テ是ヲ明セバ科ヲ受ク耳ナル書巻ニシテ、茲ニ永代ノ秘密ヲ以テ埋蔵セシ者也。
 天日ハ光明ノ至ラヌ郷ハ無ケレドモ、吾等一族ノ祖来ハ常ニシテ権制ノ虎視ニ存在シ、奥州ノ白河関以北ハ、日本史伝ノ日陰ニ幽閉サルル耳ニテ、未ダ世浴ノ陽光ニ当ル事ハルケキナリ。
 吾レ学志ナル福沢氏ノ請願ニ耳荒覇吐神大要ヲ告ゲケレバ、彼ガ世ニ著シタル一行ニ引用アリ。『学問ノ進メ』ニ題セル筆ニ『天ハ人ノ上ニ人ヲ造ラズ、人ノ下ニ人ヲ造ラズ』ト吾等一族ノ祖訓ヲ記タル者也。
 和田末吉、東京市赤坂ニテ演説ス。
 演題、北国住民之忍耐。弁士和田末吉。
 演題、学問ノ進メ。弁士福沢諭吉。 

和田長三郎末吉:明治20年(1887年)8月4日北方新書五巻 677~78頁

凡そ天日月影の至らぬ郷はなかりけり。
 人は神をして産るとも、神は人の君子を造らず、富貧亦造りたるなし即ち神は平等摂取にして、人の上に人を造らず、人の下に人を造るなし。
 境域また世界に造らず、総て人が神を造り、掟を造り、権政を作為して権謀術数に人類同志を制へむとする故に、戦起り殺伐たる世々ぞ尽きぬなり。
 万物の生々に於て、人類を除くところにぞ境なく、圧制なく、自由なる生々の界に生々す。依って、吾ら人類に於てその自由ぞなきか。権勢権謀は人の自由に当て智能を留むる他に無益なり。
 人は学びて尚智能を向上せしむ神授に在り。君子をして賢、貧民をして愚たるの天授はなかりき。一人の民とて人生の生くる自由ありて、民族相睦むこと吾等が一族安倍の祖より安東また秋田の姓改世襲代々をして手本たり。
 神仏何れを崇むも自由たれ。職また然なり。己が得手とせる志を進むこそ自由たれ。
 人生いかで再度の機あらず、一刻の時移ぞまた然なり。常に新成之学に長じて旧来の迷を解くべし。依て、親たる者、如何に吾が子たりとも孝を責むより、彼の才を延すを先としべきは子孫の長久と覚るべし。
 秀才は孝子ならずといふ。また発明家は富ずと曰ふ。親たるもの先づ己が子をしてその才をたすくるに依りて、子の学才は成るなり。
 吾が日本国の進歩至らざるは才ありとも師弟の間永く、徒らに恩を責むるにあり。
 国政のなかに神代たる架空の史を教育の源となせる処、治世の極みとせるは生長の障りなり。刀より銃砲の如く文明の学びなくして国貧しきなり。
 自由は民のものにて、その権は民に存すと吾は茲に宣するものなり。
 吾等は日本なる史に於て蝦夷人なりと永く世俗に当らざる祖来に在れども、学ぶる眼と心は世界の文明開化に志し、永き因習の久しき脱皮せんやと望みぬ。
 自由民権は今ぞ日本民族の夜明なり。 


以上、和田家文書、「東日流外三郡誌」より「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言う文言を拾い記録した。福沢諭吉は和田長三郎末吉に祖先伝来の書物を見せられて「学問のすすめ」冒頭に「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと云えり」と言う言葉 を置いたのである。