始まりは旧石器時代

始まりは旧石器時代

日本列島には後期旧石器時代から人々の歴史が刻まれている。

35,000年前からの遺跡としては

秋田県の米ヶ森遺跡、群馬県の岩宿遺跡、東京都の武蔵台遺跡、広島県の冠遺跡、島根県の原田遺跡、沖縄県のサキタリ洞遺跡がある。

日本の縄文時代は北から始まったと見えて、日本最古の縄文遺跡は、縄文時代草創期初頭(紀元前13,000年頃)の大平山元遺跡₍青森県外ヶ浜町₎である。縄文時代早期の遺跡も同じく青森県八戸市の長七谷地貝塚遺跡である。

和田家文書『北鑑』第廿巻に

「安日彦大王、長髄彦王の以前に丑寅日本国のオテナ及びエカシの王国ありき古事を知るべきなり。氷渡りの民アソベ族、山靼より人祖とて渡り来たるはその大祖にして、十五萬年乃至三十萬年前と曰ふは、語部録の筆頭たり。此の国に氷海を渡り、樺太、サガリエン、渡島、オショロを経て東日流ジパンに赴き来たるは、アソベ族なるエカシにてマブ、エルマ、オキリ、ハナ、イナ、ヘラの六人と男女百七十人と曰ふ。その住分になるは、後世に漢字に當てたる馬郡、璤瑠澗郡、奥法郡、鼻輪郡、稲架郡、平川郡にして東日流外三郡、内三郡の付名と曰ふ。更に宇曽利にてはツボケ族渡来したるは、アソベ族より一千餘年の後なりと曰ふ。ツボケ族は馬をつれ、犬をつれて来たると曰ふ。オテナと曰ふ王をして卆ひ来たる人々三百七十人と傳ふなり。その王にヌカン、ツボ、ウシリ、ヌカヘ、シリの五王あり。初めて筏にて海上を渡り、今なる宇曽利大間に着陸せりと曰ふなり。總ての智能に備はり、その後續、年毎に渡来せりと曰ふなり。それぞれ五人のオテナのもとに入族し、東日流にも住分けせしありきは、アソベ森の噴火にてアソベ族の災死の跡地及び中山、外浜一帯なりと曰ふ。代々この二族は併合し、その住分を西浜を秋田に移住せしを熟族とし、東浜を岩手に移住せしは麁族とて、代々西南に移りゆけり。まさに吾が国の人祖、此の住分を以て發達せりと曰ふも過言のありまずや。坂東より更に今の倭国に人跡を遺せしは此の住分にて成れるものなり。古き世の由はアソベ族に創まりツボケ族にて丑寅日本に人の生殖を国土に擴げ、今に至るを知るべきなり。」

とある。

となると十五萬年乃至三十萬年前に日本列島に来日したアソベ族が後期旧石器時代の遺跡群の営々者で、その最初は族長六人と男女百七十人であった。その次に秋田なる宇曽利に渡来したのはツボケ族で、馬をつれ、犬をつれて来た。最初はオテナと曰ふ王をして卆ひ来たる人々三百七十人であったが、年毎に渡来せり、つまり継続的にツボケ族は来日し続けた。と言う事だ。

後期旧石器時代の最古の遺跡、縄文時代最古の遺跡が青森にある事からも和田家文書の遺跡出土事実との対応は整合している。和田家文書は繰り返し、古代シュメールが人祖だと説いているが、そう言えば確かに文章にも族長の記述、王の記述など、旧約聖書との類似性がある。近い将来、和田家文書は日本のバイブルとなりそうな気がする。