穴戸国司草壁連醜経

穴戸国司草壁連醜経

【孝徳記 大化元年】

天豊財重日足姫天皇の四年を改めて大化元年となす。

【孝徳記 白雉元年】

穴戸国司草壁連醜経、白雉献りて曰さく「国造首同族贄、正月の九日に、麻山にして獲たり」と。(中略)詔して曰く「…今、我が親神祖の知らす穴戸国の中に、此の嘉瑞有り。」所以に、天下に大赦す。元の年を白雉と改たむ。

【天武記 下、朱鳥元年】

(7月)戊牛(20日)に、元を改めて朱鳥元年と曰う。朱鳥、此れをば阿訶美苔利といふ。

日本書紀の「大化」は645年から650年、「白雉」は650年から654年、「朱鳥」は686年、日本書紀に出現する元号はのこの3年号のみである。

それに対して九州年号の「白雉」は 652年から660年「朱鳥」は 686年から694年「大化」は695年から700年である。なお、九州年号では「白雉」から、「朱鳥」 の間に「白鳳」661年から683年「朱雀」684年から685年の2元号が入っている。

この「白鳳」「朱雀」がちらりと姿を現すのは【続日本記、巻第9、聖武天皇】である。

【神亀元年、724年、冬10月、聖武天皇】詔報して曰く、「白鳳より以来、朱雀以前、年代玄遠にして、尋問明め難し。・・・・・・・・・・・」

「白雉」改元の記事は孝徳記に長々と書かれている。

「白雉元年(650年、孝徳6年)二月の庚午の朔戊寅(9日)に、穴戸国司草壁連醜経が白雉を献った。曰く、「国造首の同族の贄が、正月の九日に、麻山で獲た。」と。

これについて百済君豊璋・沙門等・道登法師・僧旻法師達に問うたところ、交々吉祥であることを漢土の例を挙げて答えた

二月十五日、盛大な儀式を行い、巨勢大臣の賀詞と「孝徳天皇の詔」によって、天下の大赦と「白雉」改元とが宣布された。

醜経を褒美し、穴戸国に三年の調役を復した。

 「孝徳天皇の詔」の中に次の句がある。

我が日本国の誉田天皇(応神)の世に、白鳥、宮に樔う

大鷦鷯帝(仁徳)の時に、龍馬、西に見ゆ

応神天皇の治世していた頃に白鳥が宮殿に巣を作った、仁徳天皇の頃には龍馬が西の空に現れた、と孝徳は言っているのだが、残念ながら同じ日本書記の応神記に白鳥が宮殿に巣を作った記録記事はない。仁徳記に、西の空に龍馬が出現した記録記事もない。日本書紀「孝徳記」の詔が言っているのに同じ日本書紀の「応神記」「仁徳記」にこの当時誰でもが知っていたらしい瑞祥が記録されていないのはなぜなのだろう。「孝徳記」のいう瑞祥の対応記事がないのだ。

孝徳の詔では「...今、我が親神祖の知らす穴戸国の中に、此の嘉瑞有り。」と言っているが、山口県は少なくとも磐井の乱(日本書紀継体紀22年、528年)以前は近畿天皇家の支配領域ではない筈だ。

日本書紀「継体記」にはこうある。

詔曰
「良将之軍也、施恩推恵、恕己治人。
攻如河決、戰如風發。」
重詔曰
「大將、民之司命。
社稷存亡於是乎在。勗哉、恭行天罰。」
天皇親操斧鉞、授大連曰
「長門以東朕制之、
筑紫以西汝制之。
專行賞罰、勿煩頻奏。」

継体は物部麁鹿火に長門より東は自分が領地にする。筑紫より西はお前が領地にして良い、と言った事になって居る 。

つまり孝徳は「私の親愛なる先祖が統治していた穴戸国」と言える立場にないのだ。

応神の生きた時代はおおよその見当がつく。日本書紀応神記に絶対年代が特定できる海外文書との比較可能な文書が多々あるからだ。

日本書紀「応神記」

・亦、新羅人が参り渡って来た。そこで建内宿禰がこれを率いて堤池について地定し、ここに百済池を作った。

・亦、百済の国王、照古王は、牡馬一疋、牝馬一疋を阿知吉師に付けて貢上した。

照古王は肖古王の事だろうが百済の歴史には 肖古王は二人いる。初代肖古王は在位166年~213年、二人目の肖古王は在位346年~374年である。このことから応神の存在時期は4世紀の後半ごろ、その息子の仁徳も5世紀前半までの存在だと見ることができる。磐井の乱(日本書紀継体紀22年、528年)以前の穴戸国、筑紫国、肥前肥後、豊前豊後を領有していたのは筑紫君磐井であると日本書紀「継体記」が書いているのであるから、穴戸国司草壁連醜経が白雉を献上した相手は筑紫君である。