崇峻の本当の名

崇峻の本当の名

wikipediaによると、”日本で「天皇」号が成立したのは7世紀後半、大宝律令で「天皇」号が法制化される直前の天武または持統の時代とするのが通説である。”と記述されている。つまり大宝律令以前の社会には「天皇」は無かったことになる。

翻って海外資料には「日本の天皇」記述はもっと以前からあるのだ。

百濟新撰云。己巳年。葢鹵王立。天皇遣阿禮奴跪來索女郎。百濟荘飾慕尼夫人女曰適稽女郎。貢進於天皇。」₍雄略2年₍戊戌458年₎7月日本書紀₎

雄略の時代に己巳年は無く、458年は戊戌。己巳年なら429年となり時代は允恭の頃の事となる。日本書紀が意図的に雄略2年の場所に百濟新撰の記事をずらして挿入したと考えられ、「天皇」の呼称は429年時点では既にあったと見られる。

※日本書紀は「百済新撰」の「蓋歯王立つ~適稽女郎」(429年己巳允恭18年)記事を26年後の雄略2年₍458年戊戌₎に挿入している。應神崩御から雄略即位迄の干支二巡の120年間の水増し(255年乙亥の肖古王薨御記事が375年乙亥の仁徳63年に記述されている。)と、「蓋歯王立つ~適稽女郎記事の26年で、146年間の繰上げをはかっている。日本書紀には「日本舊記に云はく」も頻出し、九州王朝の歴史書「日本舊記」からの転用もあるので正確な時代は外国文献との比較で測らなければならなくなるが、少なくとも429年には対外的にも「日本の天皇」と言う概念は有ったと思われる。

決定的な「日本の天皇」記述は531年辛亥にある。

「大歳辛亥三月 軍進至于安羅 營乞乇城 是月 高麗弑其王安 又聞 日本天皇及太子皇子 倶崩薨 由此而言 辛亥之歳 當廿五年矣」

 ₍百濟本記₎

大歳辛亥三月(531年3月)日本の天皇は安羅に進軍し、乞乇城に宿営していた。高句麗はその日本の王、安を弑逆した。また、日本の天皇とその太子、皇子、共に乞乇城での戦いで崩薨された。との記述があるのをどう見るのか。近畿天皇家の天皇自らが朝鮮半島で激戦し、戦没した記録は古事記、日本書紀ともに全くないのだ。日本の天皇とは、そもそも誰の事だったのだろうか。

それはさておき、本題は、近畿天皇家の事に戻るが、”奈良時代、天平宝字6年に神武から持統までの41代、及び元明・元正の漢風諡号が淡海三船によって一括撰進された事が『続日本紀』に記述されている。”とあり、現在の近畿天皇家の元号にあたる漢風諡号は後付けの名称に過ぎない。あくまでも古事記、日本書紀に記述された”天皇”のおくり名に過ぎない。だから臣下に弑逆されたとされる崇峻も本当の名は解らないのである。

そこで気になるのは、日本書紀崇峻前紀の捕鳥部万の記述である。

 物部守屋大連の資人(つかひと)捕鳥部万(ととりべのよろづ)、万は名なり。一百人(ももたりのひと)を将(ひきゐ)て難波の宅(いへ)を守る。而して大連滅びぬと聞きて、馬に騎(の)りて夜逃げて、茅渟県(ちぬのあがた)の有真香邑(ありまがむら)に向(ゆ)く。仍りて婦(め)が宅(いへ)を過ぎて、遂に山に匿(かく)る。朝庭(みかど)議りて曰く、「万、逆心(さかしまなるこころ)を懐けり。故、此の山の中に隠る。早(すみやか)に族(やから)を滅ぼすべし。な怠りそ」といふ。万、衣裳(きもの)幣(や)れ垢(あか)つき、形色(かほ)憔悴(かし)けて、弓を持ち剣を帯(は)きて、独り自(みづか)ら出で来れり。有司(つかさつかさ)、数百(ももあまり)の衛士(いくさびと)を遣(つかは)して万を囲(かく)む。万、即ち驚きて篁藂(たかぶる)に匿る。縄を以て竹に繋(つ)けて、引き動(うごか)して他(ひと)をして己が入る所を惑はしむ。衛士等、詐かれて、揺(あゆ)く竹を指して馳せて言はく、「万、此に在り」といふ。万、即ち箭(や)を発(はな)つ。一つとして中(あた)らざること無し。衛士等、恐りて敢へて近つかず。万、便ち弓を弛(はづ)して腋(わき)に挟(かきはさ)みて、山に向ひて走(に)げ去(ゆ)く。衛士等、即ち河を夾(はさ)みて追ひて射る。皆中つること能はず。是に、一(ひとり)の衛士有りて、疾(と)く馳せて万に先(さきだ)ちぬ。而して河の側(かたはら)に伏して、擬(さしまかな)ひて膝に射(い)中(あ)てつ。万、即ち箭を抜く。弓を張りて箭を発つ。地(つち)に伏して号(よば)ひて曰く、「万は天皇の楯(みたて)として、其の勇(いさみ)を効(あらは)さむとすれども、推問(と)ひたまはず。翻(かへ)りて此の窮(きはまり)に逼迫(せ)めらるることを致しつ。共に語る者(ひと)来(きた)るべし。願はくは殺し虜(とら)ふることの際(わきだめ)を聞かむ」といふ。衛士等、競(きほ)ひ馳せて万を射る。万、便(たちまち)に飛ぶ矢を払ひ捍(ふせ)きて、三十余(みそあまりのひと)を殺す。仍(なほ)、持たる剣を以て三(みきだ)に其の弓を截(うちき)る。還(また)、其の剣を屈(おしま)げて、河水裏(かはなか)に投(なげい)る。別(こと)に刀子(かたな)を以て頸を刺して死ぬ。河内国司(かふちのくにのみこともち)、万の死ぬる状(さま)を以て、朝廷(みかど)に牒(まう)し上ぐ。朝庭、符(おしてふみ)を下したまひて称(のたま)はく、「八段(やきだ)に斬りて、八つの国に散(ちら)し梟(くしさ)せ」とのたまふ。河内国司、即ち符旨(おしてふみのむね)に依りて、斬り梟す時に臨みて、雷(いかづち)鳴り大雨(ひちさめ)ふる。
 爰に万が養(か)へる白犬(しらいぬ)有り。俯し仰ぎて其の屍(かばね)を廻(めぐ)り吠ゆ。遂に頭(かしら)を嚙(く)ひ挙げて、古冢(ふるつか)に収め置く。横(よこさま)に枕の側(かたはら)に臥して、前に飢ゑ死ぬ。河内国司、其の犬を尤(とが)め異(あやし)びて、朝廷に牒し上ぐ。朝庭、哀不忍聴(いとほしが)りたまふ。符を下したまひて称(ほ)めて曰(のたま)はく、「此の犬、世に希聞(めづら)し。後に観(しめ)すべし。万が族をして、墓を作りて葬(かく)さしめよ」とのたまふ。是に由りて、万が族、墓を有真香邑に双(なら)べ起(つく)りて、万と犬とを葬す。
 河内国司言さく、「餌香川原(ゑがのかはら)に、斬(ころ)されたる人有り。計(かぞ)ふるに将に数百(ももあまりばかり)なり。頭身(むくろ)既に爛(ただ)れて、姓字(かばねな)知り難し。但衣の色を以て、身(むくろ)の者(ひと)を収め取る。爰に桜井田部連膽渟(さくらゐのたべのむらじいぬ)が養へる犬有り。身頭(むくろ)を嚙ひ続けて、側に伏して固く守る。己が主を収めしめて、乃ち起ちて行く」とまをす。(崇峻前紀用明二年七月)

この記述の朝廷(みかど)とはいったい誰なのか。この頃、近畿天皇家に朝廷(みかど)は不在である。用明死して帝位を継ぐ者は未定の時代なのだから近畿内乱状態であった筈だ。その頃に、朝廷によって「八段(やきだ)に斬りて、八つの国に散(ちら)し梟(くしさ)せ」と言われた捕鳥部万は河内地方に8国の支配領を持つ有力者であったと知れる。

この文章はあたかも物部守屋の残党討伐譚だと見做される様な順番で日本書紀に組み入れられているが、”衛士””牒(まう)し””符(おしてふみ)”等の律令的文言が見られ、物部守屋討伐の前文とは明らかに文章に現れる社会構造が異なっている。律令時代の用語の「牒」や「符」という字が突然ここに出現する。ここに描かれた朝廷(みかど)は律令世界の朝廷(みかど)である。

当時の近畿社会とは隔絶した律令社会による現地征伐、或いは侵略が伺われるのだ。捕鳥部万の忠犬の事を”朝廷に牒し上ぐ”た”河内国司”とは一体誰なのか?近畿内乱の折に河内周辺の国々の支配を任された朝廷の傀儡であっただろう。考えられるのは蘇我氏である。蘇我氏も元々は九州を本貫地とする豪族である。乱の少し前に畿内入りして”河内国司”としての権能を押し広げようとしていたのだろう。

この戦争を仮に河内戦争と呼ぶとして、その根本原因はなんだったのだろうか。阿毎多利思北孤による仏教を基軸とした西日本分割統治にとって捕鳥部万の河内支配は邪魔で有ったからだろう。捕鳥部万の制圧で九州倭政権は目出度くその傀儡である蘇我氏を新たな支配者として近畿に送り込むことに成功したのである。九州王朝は俾弥呼の時代からの兄弟統治を特徴とする。崇峻の母は蘇我稲目の女・小姉君とされているから、九州倭政権に繋がる女性の子であった可能性もある。この時代”君”は王族、「小姉君」と言う名は九州王朝に独特の兄弟統治を連想させるに十分な名前なのである。崇峻(捕鳥部万一族)討伐で、九州王朝は河内の地を直轄領に組み込んだのである。だからそれ以前には仏教伝播の歴史の無い機内に数多の仏教寺院が建設されるに至ったのである。8世紀以前の機内の遺構に、大規模な条坊構造の宮殿が無いのもこうした背景からである。

崇峻の妻は大伴小手子と言う。現在の福島県川俣町に落ち延びて養蚕を伝えたという「小手姫(おてひめ)伝説」がある。西日本で権力の座を追われた者は東北に逃れている。Wikipediaには”小手子の子、蜂子皇子は厩戸皇子(聖徳太子)の計らいで京を逃れ、山形県鶴岡市の出羽三山の開祖となったと伝えられるが、小手子も、蜂子皇子を捜し求めて、実父と娘・錦代皇女とともに東北に落ち延びた。旅の途中に錦代皇女を亡くした小手子は、故郷の大和の風情に似た、現在の福島県伊達郡川俣町や伊達市月舘地域にとどまり、桑を植え養蚕の技術を人々に広めたという。”と書かれている。

この文章は何を語るのか。当時の東北は近畿王権や九州王朝の支配の及ばない地域で有ったから、大伴小手子とその郎党は東北に逃れたのではないのか。現在で言う政治亡命である。旧唐書の「倭国伝」「日本伝」は「唐会要」の「倭国伝」「日本国伝」が種本で、この「会要」の倭国伝には、永微五年(650年)12月に倭国遣使貢献した折の高宗が、新羅が高句麗と百済から侵犯を受けているので、倭は出兵して新羅を救えと国書を出している。この時、屋久と波耶と多尼は皆倭に付属していると認定している。20年後の670年に、唐が高句麗を平定した祝いの遣使を倭国が送り”かくのごとく、後まで継続して朝貢していた”と書かれている。703年の則天武后時には、自ら、その国日に近いので「日本国」と号し、倭を雅ならずにて、変えたと説明している。これが、「会要」の倭国伝である。一方、同じ「会要」の日本国伝は「旧唐書」と同じ文章が載っている。更に蝦夷国が独立国の扱いで、659年に倭国に伴われて入朝している事が記載されている。

崇峻は東漢駒(父は東漢磐井といい子は坂上弓束孫は坂上首名 )によって殺害された。東国の調が来るので謁見した折に東漢駒の凶行に倒れたと言う。この場合の東国が何処の地を指すのかは解らない。東漢駒は一般にはヤマトのアヤのコマと呼びならわすらしいが,東はアズマとしか読めない。平たく読めばアズマのカンのコマと読めるのみである。「梁書」に記載されて居る、斉の永元元年(西暦499年)に荊州に扶桑国からやってきたという沙門慧深なる人物が語る東国の大漢国のコマなのかも知れない。父の名が磐井というのも筑紫君磐井を連想して何やら気になる。そしてなにより子孫を残しているのだから誅罰はされなかったのではないだろうか。

捕鳥部万が誰であるのかは定かではないが、時期的にも状況的にも整合するのは穴穂部皇子だろう。とすれば穴穂部皇子の弟とされる崇峻は捕鳥部の何某だと言う事になる。捕鳥部万とその愛犬の墳墓と伝えられる大山大塚古墳と義犬塚古墳(ともに天神山古墳群)は、岸和田市八田町に現存している。してみると穴穂部皇子の墓はこの〒596-0834 大阪府岸和田市天神山町2丁目に残る大山大塚古墳であろう。

崇峻は死亡した当日に葬られたとされている。しかも、崇峻には陵地・陵戸がないとされて居る。しかしながら、崇峻の墳墓は宮内庁の推定では奈良県桜井市大字倉橋にある倉梯岡陵であるという。果たして本当にそうなのだろうか。真相は深い霧の中にある。

参考文献:唐書における7世紀の日本の記述の問題  青木英利氏

参考文献:河内戦争-心の自由を求める戦士と名前の無いミカドが歴史を変えた-冨川ケイ子氏

参考文献:九州王朝の難波天王寺建立 古賀達也氏

参考文献:続『日本書紀』成書過程の検証 編年と外交記事の造作 三宅利喜男氏

 
「大歳辛亥三月 軍進至于安羅 營乞乇城 是月 高麗弑其王安 又聞 日本天皇及太子皇子 倶崩薨 由此而言 辛亥之歳 當廿五年矣」₍百濟本記₎

詳細を読む: https://minsyu-rikken-jiyuu.webnode.jp/%e4%b9%9d%e5%b7%9e%e5%b9%b4%e5%8f%b7/
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「大歳辛亥三月 軍進至于安羅 營乞乇城 是月 高麗弑其王安 又聞 日本天皇及太子皇子 倶崩薨 由此而言 辛亥之歳 當廿五年矣」₍百濟本記₎

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「大歳辛亥三月 軍進至于安羅 營乞乇城 是月 高麗弑其王安 又聞 日本天皇及太子皇子 倶崩薨 由此而言 辛亥之歳 當廿五年矣」₍百濟本記₎

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