建国記念日

建国記念日

日本の建国記念日は2月11日とされて居る。建国の年は紀元前(BC)660年だと言う事になって居る。縄文時代晩期である。縄文時代晩期と言っても、日本には文字は列島に渡って来た人々が既に持って来ていたからそれなりの伝承はあったとしてもおかしくは無い。ただ、この建国年は近畿天皇家のPR文書である「古事記」「日本書紀」が元となって居る。

この2書「記紀」は8世紀初頭に神武以来の近畿和政権の歴史的記録として作り上げられた。一応歴史書と言う体勢をとっているから紀元(出発点)となる初代神武の即位年が必要となる。その際に用いたのが中国古代の予言説、つまり占いの本である。「讖緯説 」である。

「讖緯説 」は「大きな革命が1260年に一回来る」という陰陽の説で、前漢・後漢で流行した予言の書。陰陽・天文の説であるが、「易姓革命」とも関係してくるため、ときの権力者はこの説を弾圧する傾向があった。実際、この讖緯説を利用して前の王朝を倒した例がある(新の王莽・後漢の光武帝ら)。

当時は年を数えるのに十干(甲、乙、丙…癸 )と十二支(子、丑、寅…亥)を組み合わせて使った(60年で一巡し還暦となる)。「讖緯説 」ではそのうち58番目の辛酉(かのととり)の年には大変革が起こり、更にその辛酉の年が21回繰り返された年には決定的な変化がある、とされて居た。

そこで直近の重大変革があった辛酉の年はと見ると、聖徳太子が政治・宗教上の大改革に踏み出した西暦601年がその年に当たる。それから60年を21回、つまり1260年を遡ると西暦で紀元前660年となる。この年こそが歴史の始まり、神武即位の年であったに違いない、と両書の編纂者達は考えたのである。

神武以降の歴代の「天皇」の名は「帝紀」という本に遺されて居るが、そこに記された人数では1260年間は到底埋められない。そこで苦肉の策として神武の136歳(「古事記」「日本書紀」では127歳)を始め、100歳以上も長生きした「天皇」が続出する事となったと見られている。但し、継体迄の歴は二倍年歴であったと考えられるため、辻褄合わせのためとばかりは言い切れない。近畿天皇家内の一定の事実の反映も幾ばくかは有りそうである。

では、どうして2月11日なのであろうか。これは「日本書紀」に神武の即位は辛酉の年の1月1日だと書かれて居た。そこで明治維新で生まれた新政府は明治5年の1月1日を「紀元節」として定めたが、同年末に旧暦を陽暦に切り替えた。そのため日付がずれて前年の1月1日が2月の11日へ移動したのである。

以上から解るように、第二次世界大戦で日本が敗北する迄「紀元節」として、天長節(天皇誕生日)と共に最大の祝日とされた2月11日は架空の計算に基づく虚構の日なのである。

ところが第二次世界大戦前の日本では、この虚構が歴的事実として教え込まれ、それに疑問を持つ者は「非国民」とされた。

虚構を歴史的事実にする第一歩は明治22年(1889年)だった。政府はこの日を選んで大日本帝国憲法を公布したのである。この憲法において「万世一系」つまり神武以来2550年の血統を受け継ぐ天皇は「神聖なこの国の当統治者」であり、陸海軍を統率する大元帥である、と宣言され、次いで翌年の2月11日には、軍人の勲功を讃える「金鵄勲章 」が制定されたのであった。

虚構を事実としたこの国は更に迷妄を深め、遂に「現人神」天皇をいただく「神国」と信じるまでになり、子どもに「日本ヨイ国、キヨイ国。世界二ヒトツノ神ノ国。」と唱えさせると共に、多くの国民が戦争の末期、空襲で家を焼かれながらも最後は「神風」が吹いて日本は勝つと信じ込んでいたのだった。嘘みたいな本当の話である。

しかし1945年、第二次世界大戦での敗北、翌46年公布の日本国憲法により、日本が「天皇主権」から「国民主権」の国に生まれ変わると、当然「神国日本」の原点である「紀元節」は廃止された。

ところが「大日本帝国の時代」を懐かしみ「天皇陛下万歳」を三唱したい政治勢力が57年以降、紀元節復活の運動を展開、66年遂に佐藤栄作内閣の下で「建国記念の日」として蘇ったのであった。

以来、半世紀を超えて、この国では神話的虚構による「建国記念日」を祝い続けている。これも全て、真実の歴史探求がないがしろにされて来た結果である。

参考:2021’2’10’しんぶん赤旗紙上7面梅田正己氏小論文