邪馬壹国は博多湾岸

邪馬壹国は博多湾岸

まず、邪馬臺国の国名だが、三国志の現版本(紹煕本・紹興本。明・清・中華民国本まで)全てが邪馬壹国である。「やまたいこく」と言うのは三国志において無いのである。三国志が言う倭人の国は、実は邪馬壹国、つまり「やまいちこく」であった。

江戸前期以来、三国志の魏志倭人伝中の「邪馬壹国」を「邪馬臺国」と改定する事によって、これを「大和」に当てて来たのだ。そしてあたかもこれが研究上の揺るぎない基礎文献で有るかの如く使用して来て居たのであるが、古田武彦氏の綿密な研究により、俾弥呼の国の名は「邪馬臺国」 ではなく 「邪馬壹国」だと氏の著書「邪馬台国はなかった」で詳細に示されて居た。

この改定文面による「邪馬台(臺)国」の当てて来た「大和」つまり近畿には弥生期における考古学的な出土物の中心では無いのである。近畿地方の弥生時代の出土物は主に銅鐸である。その最大の製作地は東奈良遺跡(大阪府茨木市)であり大和の唐古遺跡(奈良県磯城郡田原本町)は銅鐸鋳型の出土地として知られてはいるけれども質、量ともに東奈良遺跡が主中心とすれば唐古遺跡は副中心と言うべきであって、決してその逆ではない。

これらが考古学上弥生中期とされ、弥生後期(3世紀を含む)では無い事は知られて居る。その時期に属するとされる後期銅鐸の場合で見ても滋賀県、徳島県、愛知県、静岡県に渡り、決して奈良が中心では無いのである。

魏志倭人伝には

「兵用矛楯木弓短下長上竹箭或鐡鏃或骨鏃」「居處宮室 樓觀 城柵嚴設 常有人持兵守衞 」 とある。

倭人伝に書かれた「兵」は「特別に一大率の官を置き諸国を監察 」しており「城壁や柵が張り巡らされ、武器を持った者が常に警護にあたっている。 」とされ「兵器は矛・盾・木弓を用いる。木弓は下が短く、上が長くなっている。矢は竹であり、矢先には鉄や骨の鏃(やじり)が付いている。 」 

果たして近畿から竹箭、鉄鏃、骨鏃が出土するであろうか。宮殿を護衛する兵士の数は一人や二人では無かった筈で大量出土していなければならないが、近畿から竹箭、鉄鏃、骨鏃は出土しないのである。

俾弥呼の宮殿の地には衛士群が常置され、彼らが矛・楯・木弓を所持して居た事が示されて居る。その木弓の形態が示され、それには竹箭、鉄鏃、骨鏃が用いられていた、と記されて居る。三国志における夷蛮伝(烏丸・鮮卑・東夷伝)の筆法は1~2回目にした稀観物を記す訳では無い。当地出色の著目物を簡記するのが常例であるから上記記述は見過ごす事が出来ない。 

弥生時代が青銅器の時代であった事は周知の事である。その銅器の鋳型もこの「黄金地帯」に最も蒐集している。 

これらの鋳型(銅矛)や実物(銅戈・鉄鏃等)が出土するのは筑紫、事に筑前中域(糸島・博多湾岸・朝倉に至る領域)であって「弥生後期の大和」ではないのである。金属的出土物に関してほぼ裸の地帯ともいうべき「弥生後期の大和」が邪馬壹国である筈がないのである。


※上図は「よみがえる俾弥呼」古田武彦著より転載 

魏志倭人伝の記述内容に鏡・勾玉・刀が出て来る。この倭人達の権力は「三種神器」をシンボルとする国家であった事は疑いの余地はない。その「三種神器」が出土する弥生の王墓は「博多湾岸とその周辺」に限定されて居る。弥生の黄金地帯である。倭国の中心領域はこの地域以外には無いのである。

以下は博多湾岸の三種神器出土地

遺跡 時代 出土物  
吉武高木(博多) 弥生中期初頭
  • 細形銅剣9口
  • 細形銅戈1口
  • 細形銅矛1口
  • 多鈕細文鏡1面
  • 銅釧2点
  • 碧玉製管玉468点
  • 硬玉製勾玉4点
  • ガラス製小玉1点
  • 有茎式磨製石鏃1点
  • 小壺
三雲(前原) 弥生時代後期 1号甕棺
  • 銅剣 1
  • 銅戈 1
  • 朱入小壺 1
  • 銅矛 2
  • 銅鏡(前漢鏡) 31面以上
  • ガラス璧(瑠璃璧)破片 8個以上
  • ガラス勾玉 3個
  • ガラス管玉 60個以上
  • 金銅製四葉飾金具 8個以上

※銅鏡は27.3センチメートルから16.0センチメートルの物で『連弧文銘帯鏡』が 26面以上と大半を占める。

2号甕棺

  • 銅鏡(前漢鏡) 22面以上
  • ガラス垂飾(瑠璃璧の破片の再利用品?) 1
  • 勾玉 13個(硬玉製 1、ガラス製 12)
※銅鏡は11.4センチメートルから6.0センチメートルの小型鏡で、『連弧文「日光」銘鏡』が 16面以上と大半を占める。
須玖岡本(春日) 弥生中期後葉
  • 銅剣 2
  • 銅矛 4
  • 銅戈 1
  • ガラス璧(瑠璃壁) 2個片以上
  • ガラス勾玉
  • ガラス管玉
  • 銅鏡(前漢鏡) 32面以上(方格四星草葉文鏡 1、重圏四星葉文鏡 2、蟠螭(ばんち)鏡 1、星雲文鏡 5面以上、重圏文銘帯鏡 5面以上、内行花文銘帯鏡 13面以上、不明 5面)
井原鑓溝(前原) 弥生時代後期
  • 方格規矩四神鏡(流雲文、草葉文、波文、忍冬様華文などの縁がある)21面
  • 巴形銅器3、鉄刀・鉄剣類
平原(前原) 弥生時代後期
  • 日本最大の、直径46.5センチメートルの大型内行花文鏡(内行花文八葉鏡)4面(5面)、青銅鏡35面(方格規矩四神鏡32、内行花文四葉鏡2、四螭鏡1)
  • ガラス勾玉3個
  • 丸玉500個以上
  • 瑪瑙管玉12個
  • ガラス管玉とガラス小玉多数
  • 素環頭大刀(鉄刀)
図は「古代史の未来」古田武彦著より挿入
 

「三種神器」は日本列島の中にだけあるのではない。弥生時代最古級が草浦里遺跡(光州)にある。小型の「準・三種神器」は良洞里遺跡(金海)にある。「三種神器」分布領域は朝鮮半島の両岸にまたがって居る。

朝鮮半島南部の三種神器出土地

遺跡 時代 出土物  
草浦里(光州) 弥生中期初頭
  • 多紐紋鏡
  • 細型銅剣
  • 細方銅矛
  • 飾玉
良洞里(金海) 弥生後期
  • 方格規矩四神鏡
  • 鉄剣
  • 鉄矛
  • 碧玉製管玉

※図は「古代史の未来」古田武彦著より挿入

倭人伝の記述中、もっとも重要視されているのは絹である。「今、絳地交龍錦五匹、絳地縐粟罽十張、蒨絳五十匹、紺青五十匹を以って、汝の献ずる所の貢の直に答う。特に汝に紺地句文錦三匹、白絹五十匹、金八兩、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠鉛丹各五十斤を賜い、皆、装封して難升米、牛利に付す。」とあるようにわざわざ絹織物の名称までが書かれて居る。

絳地交龍錦五匹、絳地縐粟罽十張、蒨絳五十匹、紺青五十匹、紺地句文錦三匹、細班華罽五張、白絹五十匹と相当な数の絹織物が俾弥呼に与えられたのだから邪馬壹国からは絹織物が出土しなければならない。弥生時代の絹の出土地は「博多湾岸」という「黄金地帯」にほぼ限られて居る。特に中国絹が出土した遺跡は須玖岡本遺跡以外に日本列島中探しても無いのである。

図は同じく「古代史の未来」より転載

ガラスは当時の貴重品だが、その「ガラスの勾玉の鋳型」もこの「黄金地帯」が最大である。当時における最高度の工業製品というべきガラス(玻璃)製品の分布は、完全にこの「筑前中域」内に限られて居る。


ガラスの璧は天子の配下の「諸侯」に配られる権威のシンボルだが、三雲(前原)、須玖岡本(春日)、峰(朝倉)と「黄金地帯」に集中し、ここを取り巻いている。璧は、中国の天子の配下の諸侯(内臣と外臣。倭王は外臣)の所帯すべきものであるから、この出土地を置いて他に「漢委奴国王」や「親魏倭王」の都邑を求める事は法外である。


※上図は「よみがえる俾弥呼」古田武彦著より転載

三国志の韓伝によると鉄は弥生時代の貨幣だ。これもまた、筑前中域(博多・朝倉・前原)と言う「黄金地帯」に集中している。

もし「邪馬壹国は何処か、まだ解からない」と言う人が居れば、その人は必ず「日本列島各地、各所いずれにも上記のような出土分布図が存在する」ことを示さなければならない。自分が比定した女王国が上記のような「出土分布図」を持たないのであればその土地は邪馬壹国では無いのである。邪馬壹国は北部九州の博多湾岸に在ったのである。

参考:「古代史の未来」古田 武彦著

魏志倭人伝原文

倭人在帶方東南大海之中 依山㠀爲國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國 
 從郡至倭 循海岸水行 歷韓國 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里 
 始度一海千餘里 至對馬國 其大官曰卑狗 副曰卑奴母離 所居絶㠀 方可四百餘里 土地山險 多深林 道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田 食海物自活 乗船南北市糴 
 又南渡一海千餘里 名曰瀚海 至一大國 官亦曰卑狗 副曰卑奴母離 方可三百里 多竹木叢林 有三千許家 差有田地 耕田猶不足食 亦南北市糴 
 又渡一海千餘里 至末廬國 有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛 行不見前人 好捕魚鰒 水無深淺 皆沈没取之 
 東南陸行五百里 到伊都國 官曰爾支 副曰泄謨觚 柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐 
 東南至奴國百里 官曰兕馬觚 副曰卑奴母離 有二萬餘戸 
 東行至不彌國百里 官曰多模 副曰卑奴母離 有千餘家 
 南至投馬國 水行二十日 官曰彌彌 副曰彌彌那利 可五萬餘戸 
 南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月  官有伊支馬 次曰彌馬升 次曰彌馬獲支 次曰奴佳鞮 可七萬餘戸 
 自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳  次有斯馬國 次有已百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國  次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國  次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有爲吾國 次有鬼奴國  次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國  此女王境界所盡 
 其南有狗奴國 男子爲王 其官有狗古智卑狗 不屬女王 
 自郡至女王國 萬二千餘里

倭国の様子

 男子無大小 皆黥面文身 自古以來 其使詣中國 皆自稱大夫  夏后少康之子 封於會稽 斷髪文身 以避蛟龍之害  今倭水人好沈没捕魚蛤 文身亦以厭大魚水禽 後稍以爲飾  諸國文身各異 或左或右 或大或小 尊卑有差 
 計其道里 當在會稽東冶之東 
 其風俗不淫 男子皆露紒 以木緜招頭 其衣橫幅 但結束相連 略無縫 婦人被髪屈紒 作衣如單被 穿其中央 貫頭衣之  種禾稻 紵麻 蠶桑緝績 出細紵 縑 緜 其地無牛馬虎豹羊鵲  兵用矛 楯 木弓 木弓短下長上 竹箭或鐵鏃或骨鏃 所有無與儋耳 朱崖同 
 倭地温暖 冬夏食生菜 皆徒跣 有屋室 父母兄弟臥息異處 以朱丹塗其身體 如中國用粉也 食飲用籩豆 手食 
 其死 有棺無槨 封土作冢 始死停喪十餘曰 當時不食肉 喪主哭泣 他人就歌舞飲酒 已葬 擧家詣水中澡浴 以如練沐 
 其行來渡海詣中國 恒使一人 不梳頭 不去蟣蝨 衣服垢汚 不食肉 不近婦人 如喪人  名之爲持衰 若行者吉善 共顧其生口財物 若有疾病 遭暴害 便欲殺之 謂其持衰不謹 
 出真珠 青玉 其山有丹 其木有柟 杼 豫樟 楺 櫪 投橿 烏號 楓香 其竹 篠 簳桃支 有薑 橘 椒 蘘荷 不知以爲滋味 有獮猴 黒雉 
 其俗舉事行來 有所云爲 輒灼骨而卜 以占吉凶 先告所卜 其辭如令龜法 視火坼占兆 
 其會同坐起 父子男女無別 人性嗜酒〈魏略曰 其俗不知正歲四節 但計春耕秋收爲年紀〉見大人所敬 但搏手以當脆拝 其人壽考 或百年 或八九十年  其俗 國大人皆四五婦 下戸或二三婦 婦人不淫 不妒忌 不盗竊 少諍訟 其犯法 輕者没其妻子 重者滅其門戸及宗族 尊卑各有差序 足相臣服 

倭国をめぐる状況

 收租賦 有邸閣 國國有市 交易有無 使大倭監之  自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史  王遣使詣京都 帶方郡 諸韓國 及郡使倭國 皆臨津捜露 傳送文書 賜遣之物詣女王 不得差錯 
 下戸與大人相逢道路 逡巡入草 傳辭說事 或蹲或跪 兩手據地 爲之恭敬 對應聲曰噫 比如然諾 
 其國本亦以男子爲王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歷年 乃共立一女子爲王 名曰卑彌呼  事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫壻 有男弟佐治國  自爲王以來 少有見者 以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食 傳辭出入  居處宮室 樓觀 城柵嚴設 常有人持兵守衞 
 女王國東渡海千餘里 復有國 皆倭種  又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里  又有裸國 黒齒國 復在其東南 船行一年可至 
 参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連 周旋可五千餘里

倭国の年表

 景初二年六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡 求詣天子朝獻 太守劉夏遣吏將送詣京都 
 其年十二月 詔書報倭女王 曰
制詔親魏倭王卑彌呼 
 帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米 次使都市牛利 奉汝所獻男生口四人 女生口六人 斑布二匹二丈' 以到 
 汝所在踰遠 乃遣使貢獻 是汝之忠孝 我甚哀汝 今以汝爲親魏倭王 假金印紫綬 裝封付帶方太守假授 汝其綏撫種人 勉爲孝順 
 汝來使難升米 牛利渉遠 道路勤勞 今以難升米爲率善中郎將 牛利爲率善校尉 假銀印青綬 引見勞賜遣還 
 今以絳地交龍錦五匹〈臣松之以爲地應爲綈 漢文帝著皁衣謂之弋綈是也 此字不體 非魏朝之失 則傳寫者誤也〉絳地縐粟罽十張 蒨絳五十匹 紺青五十匹 答汝所獻貢直  又特賜汝紺地句文錦三匹 細班華罽五張 白絹五十匹 金八兩 五尺刀二口 銅鏡百枚 真珠 鉛丹各五十斤 皆裝封付難升米 牛利 還到録受  悉可以示汝國中人 使知國家哀汝 故鄭重賜汝好物也
 正始元年 太守弓遵遺建中校尉梯儁等 奉詔書印綬詣倭國 拜假倭王 并齎詔賜金帛 錦 罽 刀 鏡 采物 倭王因使上表答謝恩詔 
 其四年 倭王復遺使大夫伊聲耆 掖邪狗等八人 上獻生口 倭錦 絳青縑 緜衣 帛布 丹木 [犭付] 短弓矢 掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬 
 其六年 詔賜倭難升米黃幢 付郡假授 
 其八年 太守王頎到官 倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和 遺倭載斯 烏越等詣郡 說相攻擊狀 遣塞曹掾史張政等 因齎詔書 黃幢 拜假難升米 爲檄告喻之 
 卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 狥葬者奴碑百餘人 更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人 復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王 國中遂定 政等以檄告喻壹與 
 壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人 送政等還 因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雜錦二十匹 

魏志倭人伝・日本語訳

倭国・諸国と邪馬壹国までの行程(日本語訳)

倭人は帯方東南の大海の中に在り、山島に依って国邑を為す。もとは百余国、漢の時代に朝貢する者があった。今、使訳が通ってくる所は30箇国である。
帯方郡より倭国に至るには、海岸に沿って水行し、韓国に歴るに、たちまち南し、たちまち東し、〔倭の〕北岸の狗邪韓国(この間の距離は) 7000余里である。
始めて一つの海を渡り1000余里にして、対馬国に至る。この国の大官は卑狗(ひこ)と言い、副官は卑奴母離(ひなもり)と言う。住んで居る処は海に囲まれた孤島で広さは400余里四方ほどである。土地は山が険しく、森林が多く、道路は禽と鹿が通う小径のようで狭く険しい。(人家は)千余戸である。良い耕地がなく、人々は海産物を食料として自活しているが、船によって南北(の国々)から米国を。買い入れている。
また南に瀚海と呼ばれる海を1000余里渡ると一大国に至る。官は対馬国と同じ。300余里四方。竹、木、草むら、林が多い。3000許(ばか)りの家が有る。田畑は有るが田を耕すが食糧には足りず、南北から市へいく。
また海を1000余里渡ると、末廬国に至る。4000余戸が有り、山海に沿って住む。草木が茂り、前を行く人が見えない。魚やアワビを捕るのを好み、皆が潜る。
東南に陸行し、500里で伊都国に到着する。長官は爾支(にき)、副官は泄謨觚(せもこ)と柄渠觚(へくこ)。1000余戸が有る。世々、王が居た。皆、女王国に属する。(帯方)郡からの使者が倭と往来する折には常に駐在する所。
東南に100里進むと奴国に至る。長官は兕馬觚(しまこ)、副官は卑奴母離(ひなもり)。2万余戸が有る。
東へ100里行くと、不弥国に至る。長官は多模(たも)、副官は卑奴母離(ひなもり)。1000余の家族が有る。
南へ水行20日で、投馬国に至る。長官は彌彌(みみ)、副官は彌彌那利(みみなり)である。推計5万戸余。
南に水行10日と陸行1月で女王の都のある邪馬台国に至る。官に伊支馬(いきま)、弥馬升(みましょう)、弥馬獲支(みまかし)、奴佳鞮(なかてい)があり、推計7万余戸。
女王国の以北は、其の戸数・道里を略載することが可能だが、其の他の傍国は遠く絶(へだ)たっていて、詳(つまびらか)に得ることができない。斯馬国、己百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、 好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、 呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、 邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国。此れが女王の境界が尽きる所である。
其の南には狗奴国がある。男子を王と為し、其の官に狗古智卑狗(くこちひく)が有る。女王に属せず。
帯方郡から女王国に至る、1万2000余里である。

倭国の様子(日本語訳)

男性は大人も子供も、みな顔や体に入墨をしている。(黥面は顔の入れ墨、文身は体の入れ墨)
古くから、中国に来た倭の使者はみんな自らを大夫と称している。
夏(中国の王朝)の王の少康の子が、會稽に封ぜられた時、断髪して入墨をし、蛟(みずち)の害を避けたという。今、倭の漁師も好んで水にもぐって魚や蛤を捕り、身体に入墨をして大魚や水禽を避けていたが、後には飾りになった。
入墨は国ごとに異なり、あるいは左に右に、あるいは大に小に、階級によって差が有る。
その(倭国の)位置を計ってみると、ちょうど會稽や東冶の東にある。
その風俗は淫らではない。男子は皆髷を露わにし、木綿 (ゆう)の布を頭に巻いている。その衣服は幅広い布を結び合わせているだけであり、ほとんど縫われていない。婦人は髪に被り物をし後ろで束ねており、衣服は単衣(一重)のように作られ、中央に孔をあけ、貫頭衣である。
稲、紵麻(からむし)を植えている。桑と蚕を育てており、糸を紡いで上質の絹織物を作っている。
牛・馬・虎・豹・羊・鵲(かささぎ)はいない。
兵器は矛・盾・木弓を用いる。木弓は下が短く、上が長くなっている。矢は竹であり、矢先には鉄や骨の鏃(やじり)が付いている。
土地は温暖で、冬夏も生野菜を食べている。みな、裸足である。
家屋があり、寝床は父母兄弟は別である。身体に朱丹を塗っており、あたかも中国で用いる白粉のようである。飲食は高坏(たかつき)を用いて、手づかみで食べる。
人が死ぬと、棺はあるが槨のない土で封じた塚を作る。死してから10日あまりもがり(喪)し、その間は肉を食さない。喪主は哭泣し、他の人々は飲酒して歌舞する。埋葬が終わると家の者は水に入り体を清める、これは練沐の如し。
倭の者が中國に詣るのに海を渡る時は、いつも一人が選ばれ、頭(髪)をとかず、虱を取らず、服は汚れ放題、肉は食べず、婦人を近づけず、喪人のごとく。名づけて持衰(じさい)という。もし行く者が善ければ生口や財物が得られる。もし病気があったり暴害にあえば、その持衰が謹まなかったからだとして殺される。
真珠と青玉が産出する。倭の山には丹があり、倭の木には柟(だん、おそらくはタブノキ)、杼(ちょ、ドングリの木またはトチ)、櫲樟(よしょう、クスノキ)・楺(じゅう、ボケあるいはクサボケ)・櫪(れき、クヌギ)・投橿(とうきょう、カシ)・烏号(うごう、クワ)・楓香(ふうこう、カエデ)。竹は篠(じょう)・簳(かん)・桃支(とうし)がある。薑(きょう、ショウガ)・橘(きつ、タチバナ)・椒(しょう、サンショウ)・蘘荷(じょうか、ミョウガ)があるが、美味しいのを知らない。また、猿、雉(きじ)もいる。
特別なことをするときは骨を焼き、割れ目を見て吉凶を占う卜(ぼく)を行う。まず占うところを告げ、その解釈は令亀の法のように、火で焼けて出来る割れ目を見て、兆しを占う。
集会での振る舞いには、父子・男女の区別がない。人々は酒が好きである。敬意を示す作法は、拍手を打って、うずくまり、拝む。人は長命であり、百歳や九十、八十歳の者もいる。
身分の高い者は4、5人の妻を持ち、身分の低い者でも2、3人の妻を持つものがいる。
女は慎み深く嫉妬しない。
盗みはなく、争論も少ない。
法を犯す者は軽い者は妻子を没収し、重い者は一族を根絶やしにする。
宗族には尊卑の序列があり、上のもののいいつけはよく守られる。

倭国をめぐる状況(日本語訳)

租税や賦役の徴収が行われており、それを収める倉庫がある。国々には市場が開かれており、それぞれの産物の交易が行われている。これには大倭(たいわ)が命ぜられていて監督の任に就いている。
女王国の北には、特別に一大率の官を置き諸国を監察させており、諸国はこれを畏(おそ)れている。常に伊都国で治めている。あたかも中国でいうところの刺史(長官)のようである。
倭王が魏の都や帯方郡、韓の国に使者を派遣したり、帯方郡の使者が倭国に遣わされた時は、いつも港に出向いて荷物の数目を調べ、送られる文書や賜り物が女王のもとに届いたとき、間違いがないように点検する。
下級の者が貴人に道路で出逢ったときは、後ずさりして草の中に入る。言葉を伝えたり、物事を説明する時には、しゃがんだり、跪いたりして、両手を地に付け、敬意を表現する。貴人への返答の声は「噫(アイ)」という。中国でいうところの「然諾」と同じ意味である。
その国は、元々は男子を王としていたが、70〜80年ほど後、倭国は戦乱が起こって戦争が続いた。
そこで、国々は共同して一人の女子を王にした。その者は卑弥呼と呼ばれ、鬼道を使い人々の心をつかんだ。
彼女は高齢になっても夫はもたず、その弟が国の統治を補佐した。王となってから、彼女に目通りした者はわずかしかいない。
周囲に侍女を1000人仕えさせ、男子一人が、飲食物を運んだり、伝言を取り次いでいた。
起居するのは宮殿や高楼の中で、まわりは城壁や柵が張り巡らされ、武器を持った者が常に警護にあたっている。
女王国から東へ海を渡って1000余里行くと、また別の国が有り、それらも皆、倭人と同じ人種である。
さらに侏儒国がその南にあり、人の背丈は三、四尺で、女王国から4000余里のところである。
裸国と黒歯国がそのさらに東南にあり、船で1年航海すると着く。
倭の地について尋ねたところ、大海中の孤立した島嶼の上にあって、国々が離れたり連なったりしながら分布し、周囲を巡れば5000余里ほどである。

倭国の年表(日本語訳)

景初2年(西暦238)6月 倭の女王は大夫の難升米等を(帯方)郡に詣いるよう遣わし、天子に朝獻を求める。太守の劉夏は吏將をつけて京都(魏の都)に送った。
その年の12月、倭の女王に報いる詔書が出された。
曰く、
親魏倭王の卑弥呼に制詔(みことのり)を下す
帯方太守の劉夏が使者をつけて汝の大夫の難升米(なんしめ)、副使の都市牛利(といちごり)を護衛し、汝の献上物、男の奴隷4人、女の奴隷6人、班布二匹二丈を奉じてやってきた。何時は遥か遠い土地におるにも関わらず、使者を送り献上物をよこした。これこそ汝の忠孝の情のあらわれであり、私は汝の衷情に心を動かされた。いま汝を親魏倭王となし、金印紫綬を仮授するが、その印綬は封印して帯方太守に託し、代わって汝に仮授させる。汝の種族のものたち鎮め安んじ、孝順に努めるように。汝が遣わしてきた使者、難升米と牛利とは、遠く旅をして途中苦労を重ねた。いま難升米を卒善中郎将となし、牛利を卒善校尉となして、銀印青綬を仮授し、引見してねぎらいの言葉をかけ下賜物を与えたあと、帰途につかせる。いま絳地交龍文の錦5匹、絳地縐粟の罽10張、蒨絳50匹、紺青50匹をもって、汝の献上物への代償とする。加えて、とくに汝の紺地句文の錦3匹、細班華の罽5張、白絹50匹、金8両、5尺の刀2振、銅鏡100枚、真珠と鉛丹おのおの50斤ずつを下賜し、みな箱に入れ封印して難升米と牛利に託し、持ち帰って目録とともに汝に授けさせる。これらのすべては、それを汝の国のうちの者たちに示して、朝廷が汝らに深く心を注いでいることを知らしめんがためのもので、それゆえことさらに鄭重に汝に良き品々を下賜するのである。
正始元年(西暦240年)、太守の弓遵が中校尉の梯儁らを遺わし、倭國に詣りて詔書・印綬を奉じ倭王に拜假した。また、金帛・錦・罽・刀・鏡・采物をもたらした。倭王は謝恩の上表文を詔した。
その4年、倭王はまた大夫の伊聲耆・掖邪狗たち8人を遣わし、生口・倭錦・絳青縑・緜衣・帛布・丹木・拊(搏拊)・短弓矢を獻じた。掖邪狗たちは善中郎將の印綬をさずかった。
その6年、倭の難升米に黃幢を賜えと、郡に假授するよう詔が出された。
その8年、太守に王頎が到官。倭の女王の卑彌呼と狗奴國の男王の卑彌弓呼は元より不和で、倭は載斯・烏越たちを郡に遣わし、互いに攻擊している状態を説明した。塞曹掾史の張政たちを遣わし、詔書と黃幢を難升米に拜假し、告喻しこれを檄した(木札に書いた)。卑彌呼は死んでおり、塚が大いに作られ径100歩ほど、狥葬者は奴碑100人ほど。つぎに男王が立つが國中が従わず、互いに殺し合い当時1000人くらい殺された。その後また卑彌呼の宗女の壹與という13歳の者が王になり、國中がついに定まった。そういう訳で政(張政)たちは壹與に告喻し檄したのである。壹與は倭の大夫の率善中郎將の掖邪狗たち20人を遣わし、政(張政)たちが還るのを送るとともに、臺(魏の都)に詣り、男女生口30人、貢白珠5000孔、青大句珠2枚、異文雜錦20匹を獻上した。