従属の論理はどのように形成されたのか 《安保幻想》と《吉田神話》日本外交の論理を歴史から見直す。

従属の論理はどのように形成されたのか 《安保幻想》と《吉田神話》日本外交の論理を歴史から見直す。

★前衛2002年5月号 「特集 安保発効50年」

★前衛2002年5月号「従属の論理はどのように形成されたのか」 <安保幻想>と<吉田神話>日本外交の論理を歴史から見直す中部大学教授三浦陽一氏論文をご本人のご許可のもと、 掲載させていただきました。★

「外国の軍隊はこれを招きいれた側に必ず災いを与える。なぜなら、外国軍が負けるとあなたは滅びるし、勝てば勝ったで、 あなたは外国援軍の虜(とりこ)になるからである。コンスタンティノポリスのある皇帝は、周辺の国に対抗するためにトルコ兵一万人をギリシャに導き入れた。 しかしこの外国の兵は戦争が終わっても去ろうとしなかった。外国援軍の兵士は外国の王に忠誠を誓っている。異教徒に対するギリシャの隷属はここにはじまる」
(マキアベリ『君主論』)

 アメリカ同時多発テロ事件を契機に、日本は戦時派兵国になった。「正義」を口実に戦争をするーそれは、いわば「日本のアメリカ化」と言えよう。 逆に、「アメリカの日本化」を指摘する識者もいる。アメリカでは、テロ対策と称してアラブ系移民を不当に逮捕したり、 イスラム教徒にいやがらせをする事件が起こっている。戦争に協力的でない人を弾圧し、「非国民」と呼んだ戦前の日本に似ているからである。

 このように、日本とアメリカがある種の一体化をとげていくなかで、経済を見れば、日本の状況は悪く、アメリカ経済とは非対称なところがある。 日本の現状と将来をどう読み解けばいいのだろう。日本の針路がますます不透明だと感じている人は多いだろう。そうさせている根本要因に、安保体制がある。

 日本の軍事・経済・政治をアメリカに追随させるための仕組みである安保。それを「なんとなく」肯定したり、当然の前提とさえ考える傾向は、じつに根深い。 私が接している学生たちのかなりの部分が、「米軍基地がなかったら日本は危険にさらされる」 「もしアメリカの保護がなかったら、もっと軍事費が必要になり、戦後の経済成長はなかっただろう」などと語る。

 わが国の小泉政権は「改革」をくり返し口にする。「改革と言う以上、何を矛盾と考え、どう変えようというのかが問題になるが、小泉首相には、 アメリカとの関係で日本がかかえている深刻な矛盾が全く見えていないようである。

 アメリカでのテロ事件の後の日本政府の対応は、まったくのアメリカ追随であり、昨年夏の沖縄での海兵隊員による女性への暴行事件についても、 小泉首相は一言もアメリカに抗議をしなかった。なぜ、アメリカとの矛盾が見えないのか。アメリカは日本を守ってくれているという意識―幻想が根本にあるからだろう。

 安保体制は日本の針路を規定している最大の《からくり》である。それが認識できない政権や国民は、安保を漫然と容認しつづける。 この《からくり》がどのように形成されたのか、安保で「アメリカが守ってくれる」という意識のどこが幻想に過ぎないのか。 それを明らかにすることが本稿の目的である。


一、 日本国憲法のシナリオ


 いまの日本は、戦争国家アメリカに似てきただけでなく、戦前の日本にも似ているところがある。不況、財政破綻、失業増加。そして外交面では、 右翼教科書容認や首相の靖国参拝など、国際世論を逆なでする政府の行動、それに対するアジア諸国などの国際「圧力」、 そしてそうした「圧力」に対する日本の一部の反発といった悪循環がある。

 私自身は、海外で起こった戦争に、無節操に引きずりこまれていると言う点でも似ていると感じている。 戦前以来、日本政府は海外での戦争発生を漫然と傍観し、やがてみずから戦争に参加していくという日和見傾向をもっている。

 しかし、過去との大きな違いもある。戦前は「満州」など日本の外で日本の兵隊が戦争を起こし、それに政府と国民が引きずられていったが、 いまはアメリカが海外で起こす戦争に日本が引きずりこまれていることである。

 いまや日本が戦争に引きずりこまれる最大の原因は安保にあるが、安保のこうした危険性が国民によく理解されているとは言えない。 そしてもうひとつ、戦前との大きな違いは、安保の対極にあるものとして、われわれが日本国憲法をもっていることである。 憲法の立場に立つとき、安保の危険性はくっきりと見えてくる。


《軍隊のないことを起点に新国家を構築した憲法》


 ここで憲法について詳論する紙数はないが、次の点にだけはふれておきたい。それは、日本国憲法の支柱というか、出発点は第9条であるということだ。 日本国憲法は、軍隊をなくせばどんな国ができるかという視点から、まさに全体が構成されていると言っても過言ではない。

 まず、21条の表現の自由、22条の居住・移転・職業選択の自由、23条の学問の自由などなど、多数列挙された国民の権利には、「公共の福祉」(13条) による制限は当然として、ほかにはほとんど何の制限も記されていない。

 これは、戦前とちがって軍隊がなく、それゆえ国家機密の多くを占めるといわれる軍事機密がほとんどないからこそ可能であったと見ることができる。 国民に隠すべき軍事機密や戦争計画を国家がもたない以上、国民に大幅な自由を認めても支障がないからである。

 41条の、国会が国権の唯一最高の機関だという規定も、軍隊がないからこそかけた文章であり、その実現も軍隊がないからこそ保障できるのだといえる。

 なぜか。それは、中南米やアジアなど多くの国の例を見ればわかる。議会や選挙で決めたことが、軍隊によるクーデターや内乱で転覆するという歴史が 繰りかえされている。つまり9条は、民主主義の最大の保障でもある。また、軍隊がないことによる経済効果もある。 25条にいう、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利も、9条が出発点である。

 軍隊がないから、民衆の生活を破壊する最大の原因である徴兵や戦争から開放され、ムダな軍事費をゼロにして国民の福利にふりむけることができる。 9条があるからこそ、自由であり、民主的であり、最低限の生活が保障されうる。ぜいたくはできないかもしれないが、戦争と軍隊から解放されて、 一人一人が安心して暮らせる平和な国。これが憲法の描く「日本のシナリオ」である。


 では、9条を変更すればどうなるか。改憲論のなかには、9条の一部を変更するだけだ、ほかに大した変更を加えるわけではないから国民にとって大差はない、 といった論調のものがある。これは意図的なごまかしか、全くの無知である。

 軍隊が合憲化されれば、憲法全体の解釈に根本的な影響を与える。国民の自由と民主主義と福利は、一段と、しかも公然と制限される。 戦争と軍隊からの開放を根本条件にして、安心にて暮らせる平和な国をつくるという憲法のシナリオは、軍靴で踏みにじられる。


 では、戦後半世紀たつのに、憲法の描いた「日本のシナリオ」は、なぜ実現しなかったのか。それは9条が「非現実的」だったからではない。 日本に米軍基地をおき、日本の再軍備を強要した安保体制があったからである。

《憲法9条は現実離れか》

 アメリカの戦争に協力しないのは「現実離れ」していて、日本は孤立するという若者も多数いる。しかし、もっと広い目で「現実」を見るとどうか。 国連の第一の目的は、「われら一生のうちに二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨禍から将来の世代を救う」こと、(前文)つまり、 戦争を起こさないことであり、その点で日本国憲法と同じである。

 この国連憲章をほとんどの国が承認して、国連に加盟している。もし、戦争否定論が孤立しているとすれば、孤立していることそのものよりも、なぜ、 孤立しているようにみえるのか、そうさせているものがなんなのかを問題にするほうが本来であろう。

 9条は非現実的だという人も多いが、本当に9条は実現不可能なのか、まともに考えたことのない人が圧倒的のようだ。たとえば現在、 世界に非武装国家いくつあるかご存知だろうか。中米のコスタリカは非武装国として近年有名だが、ほかにも、南太平洋の国々やモナコ、バチカン、 アイスランドなど約20カ国もあるのです。

 その中にはヨーロッパのミニ国家や太平洋の島嶼国のように、日本とはかなり事情の違う国も含まれているが、世界に約200の国があるとして、 約一割はすでに非武装国家なのであり、しかもそうした国々が軍事的侵略を受けたという話は聞かない。

 コスタリカは1949年に内戦回避のために憲法で非武装を実現し、近隣諸国に影響を与えている。

 コスタリカの隣のパナマは、20世紀初頭に、運河をアメリカが支配することを条件にアメリカの援助を受けて「独立」して以来、 「運河を守る」などを口実にしてアメリカ海兵隊が駐留していた。

 国民の粘り強いたたかいで、1977年には、99年末に運河の返還と基地撤退を定めた新「運河条約」を締結したが、その後、1989年に2万7千人のアメリカ軍の軍事侵攻を受け、 自国軍が壊滅した。これを契機に、パナマは非武装の憲法を制定し、軍隊を廃止してしまった。

 その非武装国パナマは1999年末、条約通りパナマ運河をアメリカから奪還し、米軍基地まで全面撤退させた。パナマは中米に位置し、 アメリカにとって軍事的にはきわめて重要な地域だとされてきた。この点では、東アジアにおける沖縄に似ている。 だからアメリカは一貫してパナマを重視してきた。そのパナマで、米軍撤退を実現させた。しかも、軍隊も持たない国が、である。

 パナマのような小国が、アメリカという大国をを相手にして、どのように非武装と運河返還と米軍撤退を実現したか。一つは、 パナマ軍とアメリカ軍が国民の人権を抑圧しているということを、パナマ国民は経験を通じてよく知っていたということ。 もう一つ大事なのは、孤立的した対応をはしなかったことであろう。

 近隣諸国や国連に友人の国をつくり、国際世論を背景に自国の安全を確保しつつ、アメリカと粘り強い交渉をした。パナマ運河はパナマのものであり、 かつ世界の財産であって、アメリカ一国が支配するのはおかしい、地域の安全に米軍は不要だという点について、国際的な合意を形成していった。

 アメリカが真に恐れるのは他国の軍備ではない。軍備やテロは、かえってアメリカに侵略の口実を与える。アメリカが怖いのは国際的な孤立なのである。

 パナマの例とくらべるとき、日本のネックになるのが、「戦争責任」の問題である。「戦争責任」を十分清算していないため、 あいかわらず日本は他国から真に信用されず、アメリカに頼らざるを得ないということが言われるが、そのとおりである。こうして、 「戦争責任」の問題は安保依存へとつながっている。

 パナマに見られるような国民の合意と国際的な友人づくりー実はこれこそ、戦後日本の外交に一貫して欠けているものである。 それは、戦後外交の出発点である「吉田外交」に典型的に現れている。安保締結時の「吉田外交」の真実とはどんなものだったか。

二、 つくられた《吉田神話》

 1951年9月8日、サンフランシスコで、講和条約と安保条約(いわゆる旧安保条約。現行安保条約は1960年に改定されたもの)が締結された。 その50周年を記念して、小泉首相は「日米同盟関係の重要性はいっそう高まっている」と声明し、田中真紀子外相(当時)は、 「この地で日米は平和と安全のための協力を誓った。このたいまつを次の世代に引き継ぐのがわれわれの義務である」と演説している。

 これに対し、松永信雄元駐米大使がシンポジウムで、「日本には米国に主導されたサンフランシスコ講和条約を受け入れるほかに選択肢はなかった」 と発言していることが注目される。安保は主体的な「私たちの選択」だったのか?あるいは、ほかに「選択肢はなかった」だけなのか? それとも、真実はもう少し複雑だったのか?

《国民に秘密にされた安保条約》 

 安保条約は、締結間際まで国民には秘密にされ、国会でもまともに議論されなかった。もっとも、条約案は当時すでに新聞などにほぼ正確に報道されており、 「こんな条約では、軍事占領の継続ではないか」といった議論は国会の内外にあったが、、吉田首相は、「条文はまだ完成していないから議論できない」と言い続けた。

 (以下、吉田外交の事実や引用文の典拠などについては、簡便には、三浦陽一「講和と安保を再考する<吉田神話>からの脱却のために」 『年報 日本現代史』5号、1999年8月、現代資料出版所収を、詳しくは三浦陽一『吉田茂とサンフランシスコ条約』大月書店を参照されたい。)

 吉田外交の特徴をよく表しているのが、1951年1月のダレス特使との講和・安保をめぐる折衝である。 吉田首相は、国会を無視し世論に依拠しないでダレスと交渉をおこなった。世論を背にしない密室外交では、 ダーティーな部分を隠すための密約や《神話》がつくられやすい。この折衝についても、吉田首相はダレス特使の執拗な再軍備要求を拒否し、 経済で日本は自由世界に貢献すると言い切った、といったイメージが、まことしやかに信じられるようになったが、実際には、国民を無視した吉田外交は、 以下述べるようにアメリカの思うつぼとなった。

 吉田とは対照的に、ダレスらは、アメリカ議会の圧力を利用した交渉を展開した。たとえばアメリカが軍事同盟を結ぶ場合、 相手国もそれなりの自助(自主的な努力)をする必要があると言うアメリカ上院の決議(バンデンバーグ決議)を突然持ち出し、日本に再軍備を迫った。

 その後の行政協定(現在の地位協定の全身)の締結交渉のときも、アメリカ代表だったラスク(のちの国務長官)は、 行政協定の効力発生までに日米が合意できない場合には、現在使っている基地を実質的に米軍が引き継ぎ使用できると読める規定や、 米軍兵士や家族が犯罪を犯した場合、日本政府は刑事裁判権をもたないという規定を、アメリカ議会が承知しないことを理由に日本に迫り、認めさせた。

《吉田首相は「堂々とわたりあった」か》

 さらに、吉田首相は流暢な英語を駆使してダレスらと堂々とわたりあい、日本を早期寛大講和に導いたというイメージがふりまかれてきたが、 これも事実無根の《神話》である。

 吉田茂は、退官直前にイギリス大使としてロンドンに滞在したことはあるものの、外交官としての経歴は主として中国が中心で、 「米語はお上手だったとも思わない」(西村熊雄・外務省条約局長《当時》)「英語は下手」(側近の白州次郎)であった。

 しかし問題は、英語が多少たどたどしかったというだけでは終わらなかったことである。吉田・ダレス会談はまず1951年1月29日に行われた。 ダレス側は使節団4人が顔をそろえたが、日本側は吉田首相一人が出席した。

 吉田首相は、講和と直接関係のない話題や反ソ反共論で意気投合しようとしたが、これを米側は、講和を安易に考えた不真面目な態度と談じ、 「この条約は非常に真剣に取り組まなければならない事柄だ」と吉田首相に注意したり(米側速記録)、「ダレス大使、甚だ不興な気色を示す」 (吉田首相による会談後の備忘録)と記したような状況となった。

 不完全な英語で、たった一人で密室での交渉に臨んだ吉田首相は、複数のアメリカ人の前で、威圧的な雰囲気にさらされることになったのである。

 この会談の初日の2日前、ダレスはマッカーサーから、「日本人に対しては、まったく飾り気なく正直に話すのが効果的だ。吉田のような男には、 遠まわしな外交官的態度よりもそのほうが効果がある」とアドバイスを受けている。日本列島の好きな場所に望むだけの期間、 米軍基地を設置するという法外な「特権」(ダレスの1月26日の使節団への発言)を日本から得ようと必死であったダレスは、マッカーサーが示唆したように 威圧的態度が効果的であると考え、そのとおり実行したものと思われる。

 1月31日の第2回会議では、米側は5人、日本側は吉田首相のほか外務官僚が2人同席したが、米側は会談後、このときの吉田首相の態度を問題にし、 「日本の総理はダレスのいうことを十分わかっているのだろうか。おかしい」と申し入れてきた(同席した西村条約局長の証言)。

 吉田が、英語でダレスらと直接交渉をする手法をとった結果、ダレス側は吉田の話題や英語力までも槍玉にあげ、日本側に屈辱を与えて威圧的に交渉をすすめ、 結果的にすべての目的(とくに米軍基地の継続と日本再軍備)を達成したのである。

《再軍備に抵抗したのか》

  次に、「吉田首相はアメリカの再軍備要求に頑強に抵抗した反骨の政治家であった」というのも、多分に《神話》の要素が含まれている。 吉田がいたからこそ、再軍備は最低限の規模ですみ、抑制されたという《神話》である。

 たしかに、吉田・ダレス会談において最初は、経済力の不足や世論の反対などの理由をあげ、日本は再軍備できないと吉田首相がのべたことは、事実である。 しかし、そこにはいくつかのコメントしておかなければならない問題がある。

 まず、もともとダレスの再軍備要求は大規模な日本軍再建ではなく、アメリカの軍事占領下にあるうちに、日本政府から明確な再軍備開始の確約を得ることであった。 ダレスは、日本再軍備は「形ばかりの貢献」でよいとか「多くを期待しない」と吉田首相にくりかえし明言している。

 ダレスは、講和後の日本が経済的に自立できるかどうかに強い不安を感じており、日本向けの原料や食糧の輸入見とおしについて、 みずから専門家を通じて調査していたほどであった。また、日本の憲法やアジアの反発などを考慮すれば、日本軍を再建したとしても、 アメリカの戦略に直接役立つには時間がかかると判断していた。

 したがって、ダレスが追及したのは、急に大規模な日本軍をつくることではなく、日本が独立をとげる前に、規模はともかく、 日本政府の代表から明確な再軍備の約束をとりつけておくことだったのである。

 当初、日本の再軍備が抑制されたのは、吉田首相の抵抗の成果というまえに、そもそもダレスの構想であった。他方、吉田首相は、 米軍基地を許容するかどうかという外交カードをまったく使わずにダレスの要求に屈し、「再軍備のための当初措置」(51年2月3日)と題する文章を米側に提出し、 「日本において再軍備を発足する」と明言し、海陸あわせて5万人の保安隊の創設をみずから提案したのである。

 吉田首相が国民の議論にもとずいた外交を重視し、アメリカに対して反骨精神をもっていたならば、アメリカの意向に反してでも、国会などの世論を後ろ盾にする、 総選挙をおこなう(実際は1949年1月から1952年10月まで総選挙なし)、安保条約の条文をできるだけ早く公表するなどの努力をしたはずである。

 吉田首相は、国会(与党をふくむ)などの要望にもかかわらず、アメリカの指示を守って、こうした努力をしなかった。吉田首相が反骨ぶり(?)を発揮したのは、 むしろ国民に対してであったとさえいえよう。

《再軍備は「やむをえなかった」のか》

  吉田がいずれ再軍備は不可避と考え、早期講和の獲得を優先させていた以上、吉田首相が5万人の再軍備をダレスに約束したのは「やむをえない」、しかし、 この再軍備の約束を国民に秘密にしたことは、日本の安全保障問題に「ゆがみと欺瞞」をもたらしたという評価がある (田中明彦『安保保障戦後50年の模索』読売新聞社、1997年など)。

 しかし、これは本来成り立たない空論である。そもそもなぜ吉田首相は再軍備の約束を秘密にしたのか。 アメリカの再軍備要求に屈したことを公表すると国民の批判を浴びて、早期講和と自分の政権が瓦解する恐れがあると思ったからである。 つまり、安保体制は、再軍備の約束を公表しなかったからこそ成立したのである。安保体制を肯定しながら、同時に再軍備の約束を公表しなかったことを批判するのは、 非歴史的である。

 また、吉田首相が再軍備に消極的だったことが、戦後日本の経済成長の基礎を築いたとの主張もある。 吉田首相が他の有力者、たとえば鳩山一郎や芦田均らとくらべて再軍備に消極的だったことは事実であり、彼らが首相の地位にいたならば、 (国民や国際世論が許せばの話ではあるが)吉田より簡単にアメリカの再軍備要求に応じ、その後も軍備増強に力を注いだ可能性もあっただろう。 しかし、鳩山らの再軍備論は、日本の軍事的自主を主張しており、その点がダレスの警戒をよんでいた。

 これに対して吉田首相の再軍備構想は、当時5万人と比較的小規模で、かつ米軍人の「助言」 (前衛「再軍備のための当面の措置」の中の表現)をえて増強するとしており、アメリカへの従属性を認めていた。

 つまり、日本の反米的再起を警戒していたアメリカは、アメリカ従属の再軍備と言う要求に唯々諾々としたがう吉田茂をもっとも都合がよい人物とみた。 だから政権につかせていたともいえる。

 吉田が軽武装論者だったから経済成長できたという議論をする場合、その前提として、吉田路線とは、日本の米軍従属を確実にし、経済的崩壊を阻止するために、 軽武装からはじめさせるというアメリカの戦略にしたがっただけだという側面が忘れられていることが多い。

 また、軽武装路線が高度成長を可能にしたというのなら、憲法にしたがい、非武装国ならばもっと成長できたはずである。日本の軽武装路線という「現実」を理由に、 9条を「非現実的」と言うのは、たくみなすりかえである。

《孤立していた吉田外交》

  吉田首相の講和交渉は、アメリカ追随であれ何であれ、結果的には望んだものを手に入れたのだから、成功だったという評価についてはどうだろうか。 吉田外交によって、

  1. 早期かつ寛大な講和条約が実現した、
  2. 安保条約によって日本の安全が確保できた、 
  3. 再軍備を密約したのは吉田外交の失点だが、吉田の再軍備消極姿勢が経済成長に寄与した、というわけである。


  しかし、吉田外交に批判的な最近の研究は、

  1. 吉田首相は外務省など周囲の懸念をおしのけて、アメリカの早期講和戦略に追随して講和をあせり、
  2. 米軍基地の提供を拒否しうるという日本側の最強の外交カードを無能にも利用せずに、米軍基地を自主的に是認して日本列島をアメリカの基地にして危険にさらし、
  3. アメリカの狡猾な外交に抵抗できず、再軍備の密約をさせられ、日本の経済復興を危険にさらしたと主張している。


 (室山義正『日米安保体制』有斐閣、豊下 楢彦『安保条約の成立 吉田外交と天皇外交』岩波新書、三浦『吉田茂とサンフランシスコ条約』前掲)

 たとえば1.について、吉田外交の肯定論者は、早期講和という実績を安保条約の成立と不可分のものととらえている。もし、 基地提供をカードに使ってアメリカに譲歩を迫っていたら、交渉は「はるかに険悪なものになっていたであろうし、講和自体が頓挫したかもしれない」とし、 そもそもアメリカの示した講和案は日本側を満足させるほど寛大だったのだから、この時期を逸することは不利であったとするのである。

 この種の考え方の根本にあるのは、当時、一日も早く講和条約を結ぶことは国民の総意であり、吉田首相はその期待に応えたのだから、 吉田外交はそれだけでも評価できるという発想であり、また、全面講和は無理であった、理想論にすぎなかったという考え方であろう。

 たしかに、講和の早期実現を望む声が圧倒的であったことは間違いない。しかし、5年以上も軍事占領下にあった国民にしてみれば、 それはあまりにも当然である。むしろ朝鮮戦争の緊張化にあってもなお、中国やソ連をふくむ全面講和に賛成する人が46%(「朝日新聞」1950年9月実施の世論調査) もいたことのほうが、注目すべき事実とみることも可能である。

 また、当時は、5年あまりの占領の下で改革はあらかた終了し、占領軍が朝鮮戦争に忙殺されていたこともあって、 内政や貿易などが大幅に日本政府の手に返還される<事実上の講和>が、着々と進行していた。

 占領の終結を国際的に宣言し、軍事主権だけを除いて日本の国家主権を大部分回復する方法を考慮していた者も、アメリカや日本政府の中に存在した。 そうしたなかで、アメリカの指示に従い、1日も早くと片面講和を急ぐことに、どれほどの意味と国民の合意があったか、考えてみる余地があるだろう。

 事態を客観的にみれば、吉田首相の秘密外交によって朝鮮半島の緊張下で基地提供条約を結び、実質的に軍事占領を固定化してしまったことのほうが、 より大きな禍根を残したとさえいえるだろう。

 また、吉田茂が首相だった以上、そうなったのはしかたがなかったのでは?と思う人ももいるかもしれない。しかし、「しかたがなかった」と諦めることと、 吉田首相が「正しかった」と肯定することは同じではない。

 事実は、アメリカが日本国民に講和についての情報をあたえず、<しかたがなかった>と思わせるように行動したのであり、吉田首相はこれに追随したのである。 こうして、日本の軍事侵略の最大の犠牲者であった中国をはじめ、ソ連など重要交戦国が参加しない、国際孤立を招く「講和条約」に日本は調印した。

 では、どうすればよかったのか。国民や国会に講和の進展について情報を与える、総選挙をする(石橋湛山)、国会審議にかける(宮沢喜一)など、世論を喚起し、 それを背景に外交をすれば禍根ははるかに小さくなったはずである。

 じつは、吉田首相が自分の講和外交を完全な成功と思っていた可能性は少ない。安保条約にたった一人で署名したとき、吉田首相は「安保条約は不人気だ。 政治家がこれに署名するのはためにならん」といい、アメリカ側(アリソン補佐官)も、もし講和と同時に安保を署名させたら、 日本代表団のうち少なくとも一人は帰国後暗殺されるだろうと語った。

 講和と安保の調印を終え、サンフランシスコから帰国したとき、人々は吉田全権一行を歓迎するようにみえたが、 その日、吉田首相は外相官僚の慰労会で「この家も焼き討ちにあわずに結構でした」と挨拶した。当事者の意識は孤立していたのである。

 のち、吉田茂は「国防問題の現在に付深く責任を感じ居候」(親しかった辰巳栄一あて手紙)と書いている。この言葉は講和後、 アメリカの圧力の下で国民の目をごまかす形で再軍備を進行させたことばかりではなく、講和と安保をめぐるこうした経緯についても、 吉田茂が心の中で自責の念をもっていたことを示唆するのかもしれない。

 こうして、サンフランシスコ講和と旧安保を通して、国民の世論に依拠せず、もっぱら"アメリカが気に入ってくれること"をガイドラインとする 友人のいない外交=対米追従外交の原点が形成されたのである。

 前述の松永元駐米大使のいう、安保に「選択肢はなかった」という表現は、アメリカにもっぱら追従させられたという意味では、事実であるが、追従に陥った責任が、 吉田首相をはじめ外務省にもあったことも事実である。

 他方、安保が「私たちの選択」(田中前外相・上記演説)だったとすれば、それは国民不在と国際孤立の外交をアメリカに強いられ、 吉田首相ら保守政権もそれを「選んだ」ということであり、その意味で、選んだのは「追従という選択」であったと 言えるだろう。

三、なんのための安保か

 さて、これまで安保についての議論で、あまり言われなかったと思われる点について補足しておきたい。

《軍事同盟幻想》

 ひとつは、安保条約は広い目でみれば、歴史上に類例もある従属的軍事同盟の一例であって、その観点からみると、安保の本質も見えやすくなるという点である。

 たとえば安保条約は、日本自身がかつてむすんだ二つの条約に、形式・内容とも、きわめてよく似ている。一つは、1904年の日韓議定書、もう一つは、 1932年の日満議定書である。これらの「議定書」は、一読して体裁がたがいに似ているだけでなく、旧安保条約にも共通する点が多いのは驚くほどである。

 歴史を知る人ならば誰でも知っているように、日韓議定書と日満議定書は、いずれも相手国がノーと言えない状況をつくって日本が強引に調印させた、 侵略と植民地化のための軍事条約・基地提供条約である。

  そして興味深いことに、日韓議定書では、「領土の保全に危険である場合は、大日本帝国政府は臨機必要の措置をとる」(四条)と、一方的な保護(?) 規定しかなかった段階から、日満議定書では、「一切の脅威には・・・両国共同して国家の防衛にあたる」(二条)という「共同防衛段階」へと移行している。

 これはちょうど、旧安保(1951年調印)が、「日本国に対する武力攻撃を阻止する」(前文)、「日本国における大規模の内乱および騒擾を鎮圧するため」米軍が 出動できる(一条)という一方的保護(?)規定しかなかった段階から、現行安保条約(1960年調印)では、日米両国が「共通の危険に対処する」という「共同防衛」 の段階へと移行した(6条)ことと、まったくパラレルである。

 (もちろん、前者は日韓から日満へと、対象国が変化しているところが日米安保と違っているが)。これをもじっていえば、岸信介内閣による「安保改定」とは、 旧安保の日韓議定書(独立喪失・戦争基地化)の段階から、日満議定書(従属同盟国)の段階への移行のことであったと言えよう。

  このように、力に大きな差がある二国、つまり強大国と弱小国が「軍事同盟」関係をむすんで、強大国が弱小国に軍隊や基地をおく場合、 今日大国の側には二つの目的がある。ひとつは、第三国を対象にした目的で、第三国による攻撃から自国 (強大国を守る、あるいは第三国を侵略する最前線として弱小国を利用することである。

 この目的については通常、「東洋の平和」(日満議定書)とか「国際の平和」(進級安保条約)といった美辞で表現されてきた。 もうひとつは「同盟」相手である弱小国を対象にした目的で、弱小国からの攻撃を封じる、あるいは弱小国をコントロールすることである。 この第二の目的は、字句上は強大国による「防衛」の約束、つまり「守ってやる」という主旨の表現になることが多く、その侵略性は以外に意識されにくい場合がある。

 その好例が、アメリカが日本を守ってくれるという《安保幻想》である。日韓議定書や日満議定書が、第三国(中国など)侵略だけでなく、 締結相手である朝鮮国や「満州」じたいを攻撃したりコントロールするための取り決めであったように、そもそも力の違う国家どうしの軍事条約・基地提供条約は、 強大国が「同盟」相手の弱小国に対する内政干渉権を握り、場合によっては弱小国に軍事介入したり軍事攻撃するために、締結されるのである。

  たとえば第二次大戦後、ソ連やアメリカは他国に軍事介入をくりかえしたが、その多くが「同盟」関係をむすんでいる相手国を対象にした侵略であった。 つまり集団的自衛権を口実に相手方の内紛などに介入しているのである。たとえばソ連は、ハンガリー動乱、チェコのプラハの春、そしてアフガニスタンなどに対して 軍事介入したが、いずれも集団的自衛権にもとづき、相手国の治安を維持するという名目であった。

 同様にアメリカは、ベトナム、レバノン、ドミニカなどで、同盟国=「味方」であるはずの、いや、「味方」であるからこそ、容易に軍事介入をおこなった。 外国軍に「守ってもらえる」というのは、現実には「侵略してもらえる」(?)ということも含意していることを忘れてはならない。

 《民衆虐殺の実態》

  では、かりに強大な「同盟国」に「守ってもらった」として、現実にはどういう事態が起こるのか?たとえばアメリカは「守ってやった」国で、どんな行動をしたか。

 ひとつの例が、1968年におこったソンミ虐殺事件である。この事件は、米軍が「守った」はずの南ベトナムで、500人以上のベトナムの民衆(大部分が老人と子供) を虐殺した事件として有名である。

 さらに、朝鮮戦争のときにも、米軍は同様の事件を多数起こしていたことが最近明るみに出た。たとえば1950年7月の老斤里(ノグンリ)事件である。 米軍は韓国の民衆を村から連れ出し、トンネルに閉じ込め三日間にわたって銃撃しつづけた。

 犠牲者は250人から400人であろうといわれる。(呉連鎬[オヨンホ]『朝鮮の虐殺』大田出版)。こうした例は、米軍に限ったことではない。 さきの戦争では、日本軍が民衆を犠牲にした事例が多くあったことはよく知られている。

 安保肯定論者は、軍事力なき平和は空論であり、安保は「現実的」だという。しかし、安保条約にしたがって米軍が「日本を守る」という場合、 日本の民衆が居住する地域で米軍が戦闘を行う場合をふくむであろう。その場合、日本の主権が直接及ばない外国の軍隊が、 無防備な日本の民衆に対してどんな行動に出るか。

 第二のソンミ、第二の老斤里が起こらない保障はあるのだろうか。民衆の立場からみて、米軍が「守ってくれる」というのは、 はたしてほんとうに「現実的」な期待なのだろうか?

 《軍隊幻想》

  これに関連して、ぜひ指摘しておきたいことがある。米軍に限らず、軍隊とは、もともと「民衆を守る」ための組織ではない、という事実である。 そう言うと、奇異に感じる読者もおられるかもしれない。

 一例をあげよう。自衛隊制服組のトップであった栗栖弘臣元自衛隊統合幕僚議長は、近著で次のように書いている。

  「今でも自衛隊は国民の生命、財産を守るものだと誤解している人が多い。政治家も往々この言葉を使う。 しかし、国民の生命、身体、財産を守るのは警察の使命(警察法)で、武装集団たる自衛隊の任務ではない。

 自衛隊は『国の独立と平和を守る』(自衛隊法)のである。この場合の『国』とは、わが国の歴史、伝統に基づく固有の文化、長い年月の間に醸成された国柄、 天皇制を中心とする一体感を共有する民族、家族意識である。決して個々の国民を意味しない」
(栗栖弘臣『日本に国防軍を創設せよ』小学館文庫、2000年)

  つまり、民衆を守るのは警察であって、自衛隊は「歴史」「文化」「国柄」など、昔の言葉でいえば、まさに「国体」を守るのだと明言している。 しかし、国民を守らないで、自衛隊が守るという「国体」とは、つまるところいったいなんのことであろうか?

 これは、軍隊が国民主権に根本から反する立場であることを、みずから告白したものではないか? それこそ、戦前の帝国軍隊が突き進み、国民の生活を破壊した道そのものではないのか?

 もちろん、軍隊が警察行動を行い、個々に民衆を守るようなケースもあるかもしれない。しかし、本来、軍隊は自分自身が生死をかけ、 相手方の戦闘集団を破壊するための組織であり、装備を見ても明らかなように、具体的な個々の「民衆を守る」 (たとえば傷ついた民衆を保護・治療する)ことが本旨ではない。

 米軍が、軍隊が、自分たちを「守ってくれる」という《安保幻想》を霧散させたい。そのためにも、安保が立派な外交の結果であったという《吉田神話》や、 軍隊が民衆を守るという《軍隊幻想》を打ち破りたい。

 非武装が非現実的だとか、九条が世界で孤立しているとかいった《反憲法幻想》も広く深く根をはっている。 ここでは紙数がなくてほとんど書けなかったが、《安保を廃棄したらアメリカに報復される》という、深刻で重大な疑問にも、パナマなど他国の例も参考にしながら、 深く答える必要がある。

  筆者がここでいいたかったのは、いまわれわれが前途を見失っているようにみえる大きな原因は、 安保や軍隊に関するこうした幻想にかられてアメリカに追隋しているからであり、そこにとどまるかぎり、未来が見えてこないのは、ある意味で当然だということである。

 戦争と軍隊をなくして、自由で民主的な生活ができる国と世界をめざすー憲法のシナリオが示しているのは、いわばただそれだけの、 単純な航路である。しかしそれは困難な航路である。これが一度に実現するとは思っていない。

 しかし、どんなに小さかろうと、消えかかっていようと、灯台の光は私たちに方向を示してくれる貴重な光である。 重要なのは、まだ間に合ううちに、ほんの少しでもいい、憲法の光が輝く方向に、この国の舵(かじ)を切ることである。 (みうら・よういち)