戦後の世論が産みだした 日本国憲法 《「現行憲法はアメリカに押し付けられた」のウソ》

戦後の世論が産みだした 日本国憲法 《「現行憲法はアメリカに押し付けられた」のウソ》

日本国憲法の制定の時期が、アメリカの占領下であった時期と時期的に重なることが、この「憲法はアメリカにおしつけられた」ように感じさせる大きな 要因であろうと思われます。しかし、ご存知のようにアメリカは敗戦間もない日本に対して執拗に再軍備を求め、その確約を当時の吉田内閣から国民には内密に 取り付けています。

 1951年9月8日にはサンフランシスコで講和条約と旧安保条約が締結されていますが、安保条約は、いうまでもなく軍事同盟であり、日本に軍備なり、軍隊なりの組織が存在しないかぎり成り立たない性質のものです。

 だからアメリカは当時の日本の内閣に執拗に再軍備を求めた。そのアメリカがどうして日本に平和憲法を、とりわけ、集団的自衛権を放棄した9条の条 文を「アメリカが押し付けた」といえるのか?条文を素直に読むならば、他国との軍事同盟をむすぶことと9条とはまるで水と油、決して相容れないと言うこと は明らかでしょう。

 それでも、なにがなんでも、「アメリカに憲法を押し付けられた」と言う人の言葉を信じるべきとするなら、当時のアメリカ政府には二重人格者が大勢 いて、議会はいつも方針が決まらず二律背反な決定がつねになされていて、握手しながら手をつねりあうことが日常の挨拶であったとでもしなければ解決も説明 もつかない不毛な論理であると思います。

《憲法作成のための最初の行動をおこしたのは日本の国民でした。》

 軍備によらない国家をめざすと言う主張は、明治維新とともにはじめられた富国強兵政策を批判して、植木枝盛、中江兆民ら自由民権運動の思想家たち によってすでに明治時代から展開されていました。その、明治憲法制定から敗戦までの56年間のうち、その半分以上の長い期間を日本の国民は戦争の中で過ご すことを強いられてきていたのです。

 当時の日本の国民は、戦争で多くの肉親を失っただけでなく、膨大な軍事費の重圧にあえぎ続け、最後には人類初の原子爆弾の投下をこうむるという言 語に絶する苦難を味わったのです。当時の国民の中に、「戦争はもうごめん」の気持ちが渦巻いていたとことは想像に難くありません。

 敗戦によって戦争からようやく解放された国民の中から、日本は二度と軍備を持たない国となって世界平和に貢献すべきだとの議論が起こったのは当然の帰結でした。

「われわれは、まったくここで心を新たにし、新たに無武装の平和日本を実現するとともに、ひいてはその功徳を世界に及ぼすの第悲願を立てるを要す。」
石橋湛山、「東洋経済新報」1945年10月12日)

「武装を解除せられた日本が、純然たる文化国家として隆々として繁栄を遂げ・・・日本の武装解除は単に日本一国の武装解除にとまらないで、やがて世界の武装解除を誘導し来る」
(中谷武世議員、衆院予算委、45年12月8日)

 などの活発な議論が頻出したのです。憲法論議が進むにつれ、46年2月の憲法懇談会における弁護士・海野晋吉の、「日本国は軍備をもたざる文化国家とす」との提案のようにそれを憲法に盛り込む主張も登場しています。

 しかも、成立したばかりの国際連合は、武力行使を安保理の決議にもとづく場合(42条)か、国連加盟国にたいする武力攻撃が発生した場合の自衛権 の行使(51条)のみに限定し、紛争の平和的解決を各国に義務付けた。この精神は、その後の各国憲法に様々な形で反映され、日本が徹底した平和主義の憲法 を持つ国際的基盤も広がっていたのです。

 それにたいして、連合軍は旧来の日本政府を通じてポツダム宣言を具体化するとしていました。しかし、降伏後の東久邇内閣やその後の幣原内閣は、戦 前の絶対主義的天皇制の、「国体」(天皇を中心とする国の形)を変更することなどまったく考えていなかったのです。したがって明治憲法を「改正」すると言 う意思も持ってはいなかったのです。

 一方の敗戦後の政治統括者であるアメリカは、明治憲法体制の根本的転換をはかり、日本を民主化するという大義名分を掲げてはいましたが、その「民主化」は、「アメリカの目的達成を満足に促進する限り」(「初期の対日方針」)と言う当初からの限界を持っていました。

《民主的で平和な日本を目指して。》

 こうした両者の間で明治国憲法の「改正」なり、「新しい憲法の制定」なりが早急に進んでいくはずもなく、経過は遅遅として進みませんでした。そんな中、憲法制定はいつしか東久邇内閣の期間では決まらず、幣原内閣の期間にまで持ち越されていたのです。

 そんな中、明治憲法の改正、ー実質的には新しい憲法の制定を目指す行動を開始したのは日本国民であったのです。国民の間では、敗戦直後から治安維持法の撤廃をはじめとする民主化運動が起こり、労働組合や民主団体の再建・結成が相次いでいました。

 憲法研究者の鈴木安蔵は1944年10月2日には、憲法改正の研究を始めており、11月5日には、労働運動研究家の高野岩三郎、評論家の室伏高信らと憲法研究会を結成して、憲法改正案作成の具体的な作業を開始しています。

 1944年11月10日、真っ先に発表されたのが天皇制廃止、主権は天皇にではなく国民に有りとした日本共産党「憲法草案の骨子」でした。つい で、1944年12月26日には天皇を儀礼的君主とする憲法研究会による「憲法草案要綱」が発表され、天皇制は廃止とした高野岩三郎の「改正憲法私案要 綱」がこれに続いて発表されました。

 翌年1945年に入ると天皇制をそのまま残す自由党案や進歩党案、「主権は天皇を含む国民共同体にあり」とする日本社会党案、その他の民間構想が相次いで発表されました。

 日本国政府の「調査委員会」が明治憲法の「改正」を目的にすえたのは、こうした流れが目に見えてきた1945年11月10日のことでした。その内 容は国民の議論を遮断した中で進められていましたが、1946年2月1日の毎日新聞の記事がこの、政府の「調査委員会」による憲法案の一端を報道しまし た。

 正式なものは2月8日、日本政府によってマッカーサーに提出されましたが、その内容は、明治憲法第一条「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」はそのままに残し、第三条の「天皇ハ神聖」の「神聖」を「至尊」に置き換える程度のものでした。

 これにはマッカーサーも「自由と民主主義の文章として受け入れることのまったく不可能な文書」としてこれを拒否したように、天皇制政府の手で新しい憲法を制定すると言う方針は、はじめから破たんしていたという状況にありました。

 おりしもその時期、日本の占領政策をめぐって対立していた米ソは1945年12月の外相会談で、「日本国の憲法機構の根本的変革」などを推進する 極東委員会の設置について合意し、その発足が1946年2月26日に迫っていました。このため、マッカーサーは、みずから憲法草案を作成して日本政府に提 示することを決定し、その作業を急ぐことにならざるを得ない状況に立たされたのです。

 日本国内では1945年11月、日本共産党が天皇制打倒、人民共和政府の樹立など12項目の「人民戦線綱領」を発表し、46年に入ると社会党でも これに対応した論議がおこり、1月26日に日本共産党が主催した「国民大会」には、社会党指導者や自由主義者たちを含む4万人が参加して民主戦線、人民戦 線に賛同を表明し、尾崎行雄も人民戦線に「欣然賛成」のメッセージを送る状況も生まれていました。

 「国民大会」席上、憲法研究家の鈴木、高野は民主的憲法制定議会を提唱し、国民のイニシアチブによる日本国憲法の制定を高らかに主張していました。日本国憲法はこのような国民的運動の高まりの中から生まれたのです。

 それに対して、マッカーサーは日本国民自身による民主化運動がそれ以上発展する前に、そしてアメリカ以外の国からそれを支援する動きが起こる前に、みずからの影響力を行使して「米国の目的達成を満足に促進」する既成事実を作ってしまおうとしたのです。

《国民運動の盛り上がりの前に》

 マッカーサーは、憲法草案作成に当たって

  1. 天皇は政治的権限をもたない君主とする。
  2. 自衛のためであっても、紛争を解決する手段としての戦争を放棄する。
  3. 日本の封建制の廃止

の三点を基本にすることを民政局に指示しました。アメリカの国益を損なわずに、日本の支配層も内外の世論をも納得させる妥協点を、この三点に求めていたと思われます。民政局長ホイットニーは、これに加えて国連憲章を念頭に置くようにスタッフに命じています。

 連合国軍総司令部は、それまでも日本国民の憲法論議を注意深く見ていました。46年1月11日には、ラウェル中佐による「日本の憲法についての準 備的研究と提案」との報告書も作成されています。それは憲法研究会案に強い関心を示し、「この憲法草案中に盛られている諸条項は民主主義的で賛成できる」 と、若干の補足をして、採用するよう提案しています。民政局案はこれらを基礎に、内外の動向を配慮しつつまとめられたものでした。

 天皇制についての憲法上の扱いについて、当時、昭和天皇の戦争責任を追及する国際世論が広がっており、アメリカ本国でも天皇に戦争責任があるとする世論は71%に達していました。こうした中の1月25日、マッカーサーは次のような電報を本国に送っています。

 「天皇を裁判に付せば、日本人はこれを史上最大の裏切りとして、長期間連合国に対して怒りと憎悪を抱きつづけるだろう。その結果・・・軍事活動が 停止されたとき見出すのは、民衆の間に広範に広がっている共産主義的組織活動のみとなろう。これに対処するには少なくとも百万人の軍隊と数十万人の行政官 と戦時補給体制の確立を必要とする」

 天皇の権威は百万人の軍隊に匹敵するとしたこの発想は、イタリアの降伏が迫った第二次大戦中の43年8月、チャーチル英首相がルーズベルト米大統 領に送った電報と同じものです。それは、「(降伏後のイタリアで)ボルシェヴィズムを抑える力を持つものは王家しかいなくなった」と君主制の「効用」を説 いたものでした。

 イタリアは、戦後、国民投票によって王政を廃棄しました。しかし、長年にわたり強固な天皇制の支配の下に置かれていた日本国民が、その呪縛から解放されることは容易ならざることでした。

 そうはいっても、憲法改正問題が表面化した45年10月13日には、「わが国建国以来の君民一如の国体は、たとひ憲法に如何なる改定が加えられよ うとも変動あるべきではない」としていた「毎日新聞」記事が、2ヵ月後の新聞記事では近衛の「憲法改正要綱」を、「天皇が統治権を総攬するという憲法の条 章を存置することは、将来疑義の因となり、或いは反動分子の利用するところとならぬを保し難い」と批判しているように、状況は急変しつつありました。発表 された憲法案でも日本共産党や高野岩三郎は天皇制廃止を主張していました。

 国民の手による憲法研究会の論議も、高野の天皇制廃止の主張を受け、「日本が共和制たることが望ましい。しかし、現在の過度的段階にかんがみて、しばらく民主主義的性格強き立憲君主制が妥当」と、それを「過度的段階」としたものでした。

  憲法研究会のまとめ役であった鈴木安蔵にしても、45年9月には、天皇を「神聖」とする明治憲法第三条は「国家の元首に対する規定としては当 然」と述べていましたが、47年4月には、「後の世のために、国家機構・政治体制としての天皇制は廃止されることが幸福」(『明治憲法と新憲法』)として いるように、まさに当時の日本は「過度的段階」にあったといえます。結果的に天皇を「象徴」とした民政局が、国民主権を前提に、儀礼的存在として天皇制を 残すとした憲法研究会案を基本に考察を重ねたことはこのことによって明白です。

《アメリカの対日支配の道具として。》

 マッカーサーは、国民の意識をこのような「過度的段階」にとどめ、天皇制を日本支配をよりやりやすくする道具として役立てようとしたのです。それ は、46年6月、日本政府が国会に提出した「帝国憲法改正案」で、「国民主権」を「国民至高の総意」と曖昧なかたちに書き換えたことを容認したことにも表 れています。

 結果的に「国民主権」は憲法に明記されましたが、それは6月28日、日本共産党がこの問題を国会で追及し、直後の7月2日、極東委員会が「日本の憲法は主権が国民にあることを認めるべき」と決定したためです。

 このときにも、マッカーサーは日本政府を窮地に立たせないために、極東委員会の決定内容の報道を差し止め、ひそかに日本政府に手を回して修正を行わせています。

 基本的人権の規定の具体性や豊富さも日本国憲法の先進性を特徴付けるものであると言われていますが、この点では、特に憲法研究会案との類似点を数多く指摘することができます。

 たとえば、「国民ハ、法律ノ前ニ平等ニシテ出生又ハ身分ニ基ク一切ノ差別ハ之ヲ廃止ス」(研究会案)→「すべて国民は、法の下に平等であって、人 種、信条、性別、社会的身分、又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」(日本国憲法第14条)、「国民ハ、拷問ヲ加エラレ ルコトナシ」(憲法研究会案)→「公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる」(憲法第36条)などなどです。

《自由民権運動の灯は消せなかった。》

 「国民ハ健康ニシテ文化的水準ノ生活ヲ営ム権利ヲ有ス」(研究会案)も国会審議の段階で、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」(憲法第25条)と取り入れられました。

 さらに注目されることは、鈴木安蔵は自由民権運動の有数な研究者であり、自由民権運動の憲法思想が憲法研究会案にも強く反映されていることです。 たとえば、上記の日本国憲法の規定を植木枝盛の「日本国国憲案」と比較してみると、「日本ノ人民ハ法律上ニ於イテ平等トナス」、「日本人民ハ拷問ヲ加エラ レルコトナシ」、など共通点が多いのです。(詳細は家永三郎『歴史のなかの憲法』参照)

 また、生存権の規定がワイマール憲法をモデルにしていることはよく知られています。日本国憲法の平和的・民主的条項は、まさに日本国民からみた歴 史と伝統、そして人類の進歩の歴史の到達点を刻み込むことによって、どの国の憲法よりも先駆的、先進的なものとなったのです。日本国憲法はまさに憲法の先 駆けであり、前衛です。

 アメリカが日本に押し付けたのは安保条約という軍事同盟なのであって、この世界的にも優れた日本国憲法ではありえません。日本国憲法こそは日本の国民の運動が軍国主義や戦争の苦難に耐えて何年もけかけて制定にこぎつけた国民的叡智の結集であり、至高の法律なのです。

 日本に憲法を押し付けたとされるアメリカで、1992年には米オハイオ大学のオーバビー教授が中心となって「9条の会」ガ結成され、今では活発に 活動を続けています。この会は、「アメリカやすべての国が、日本国憲法のように戦争放棄の理念を憲法に盛り込むように訴えていこう」と呼びかけています。

 オランダのハーグで開かれた「ハーグ世界市民平和会議」の最終日に採択された「公正な世界秩序のための基本十原則」は、その第一項目で、「各国議 会が、自国政府の戦争を禁止するように、日本国憲法の9条のような決議をする」ことを提起しています。ハーグ会議は、世界各国の平和運動に携わるNGOを 集めた権威の高い会議です。ここでも「公正な世界秩序」を築くには日本の憲法を学ぶことが「第一の原則」であると認知されたのです。

 この優れた憲法をアメリカに押し付けられたと言う人は日本の歴史をもう一度国民の立場から読み直す努力をするべきであると思います。当然のことな がら、私たち一般の国民はこの国のお偉い政治家でも日本の資本家でも、アメリカの軍事産業の社長でもありません。憲法を改正して戦争が始まっても一銭の儲 けにもならないばかりか生存の危機にさらされてしまうでしょう。

 日本の偉い人たちはアメリカの要求のままに憲法を亡き者にして再び軍事的な国へと日本の進路をゆがめようとしています。そのために、憲法をことも あろうに「アメリカから押しつけられた」などと攻撃しています。こんなでたらめな根拠のないことを持ち出してまで憲法を改正することに利益や利権がある人 たちと私たち国民の立場は根本的に違います。

 私たち国民の立場からいえば、国民の側からものを考えられない人たちの空論に惑わされて、この豊かな憲法制定の功労賞を日本の国民のものとして称えずに掠め取り、リボンをかけてアメリカにプレゼントしなければならない根拠も必要性もまるでありません。

参考文献:前衛2000年2月号、《特集》日本国憲法の値打ちはどこにあるのか「アメリカから押しつけられた”自主憲法”制定論」憲法会議事務局長川村俊夫論文、「改憲勢力の三つの俗論を批判する」 吉村 剛 氏論文