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其王姓阿每氏 自言初主號天御中主 至彥瀲 凡三十二世 皆以 尊 爲號 居築紫城 彥瀲子神武立 更以 天皇 爲號 徙治大和州 次曰綏靖 次安寧 次懿德 次孝昭 次天安 次孝靈 次孝元 次開化 次崇神 次垂仁 次景行 次成務 次仲哀 仲哀死 以開化曾孫女神功爲王 次應神 次仁德 次履中 次反正 次允恭 次安康 次雄略 次清寧 次顯宗 次仁賢 次武烈 次繼體 次安閒 次宣化 次欽明 欽明之十一年 直梁承聖元年 次海達 次用明 亦曰目多利思比孤 直隋開皇末 始與中國通 次崇峻 崇峻死 欽明之孫女雄古立 次舒明 次皇極
— 新唐書卷220 列傳第145 東夷
その王の姓は阿毎氏である。自ら言う所によると初代王は「天の御中主尊」であり、築紫城に居住した。それからおよそ32代目で彥瀲に至り、その子の神武が大和州を統治した。とある。その後に神武以降の歴代の大和州を統治した豪族の名前を記している。何処にも大和州以外の地域の名前はない。更に言えば、その大和州の居住地も書かれてはいない。勿論城の名前も無い。しかしながら「日本国」の統治者として書かれている。
その出自は九州筑紫の阿毎氏である、としている。つまり遠い先祖は九州の為政者であると言って居るのだ。つまり阿毎氏の分流である。
旧唐書では「倭国伝」と「日本国伝」が分けて書かれていた。倭国は後漢の光武帝から金印を授与された倭奴国の後継王朝であると記載されている。倭国は大きな島を中心に小島群に取り巻かれていると書かれていた。
光武帝から授与された倭奴国王の金印は福岡県の志賀島(九州北部・博多湾岸の北)から出土した。倭奴国は北九州に有ったのである。小群島に囲まれた大きな島とは九州である。
600年に中国に国交を求めて来た隋書俀国伝の俀国も九州である。なぜなら隋書俀国伝に「その王、姓は阿毎、字は多利思北孤」と書かれている。「日出処の天子」も九州の「筑紫城」に居た事を明確に示して居るのである。
これに対して「日本国」は西と南は大海に至り、東と北は大山を限りとする、と書かれており、日本アルプスの山岳地帯より先の地域には勢力を伸ばして居ないと書かれている。「大和州」に移ってその地に割拠した、これが近畿天皇家の始まりである。
この分流豪族が600年頃、初めて中国と接触した。その際に倭国の王者、多利思北孤の代理であると自らの立場を述べたのである。「目多利思北孤」とは「多利思北孤の代理」と言う意味である。600年以前、この大和州の豪族は「我が国(中国)と国交を持った事はなかった。」と中国自身が言って居るのである。
つまり3世紀の俾弥呼も5世紀の倭の5王も、この大和州の豪族の一員では無かった。筑紫の「阿毎氏」の君主たちだったのである。7世紀の「日出処の天子・阿毎多利思北孤」も当然筑紫の天子なのである。