方円墳

方円墳

「前方後円墳」という言葉がある。「前に方形、後ろに円形、その2つがセットになった古墳」と言う意味である。江戸時代の蒲生君平(1768年~1813年)の命名だ。現在ではこの「前後」という見方は誤りであることが確認されている。下から上への方部にあたる道は中央のくびれ部分にある。従って「方部」が「前」である見方は成立不能なのである。だから「前方後円墳」ではなく「方円墳」と云うのが事実に近い。

被葬者の石室があるのは円墳内である。これに密着して方形の高台がセットされて一体化しているのである。では何故このような方形の高台を必要としたのであろうか。それはこの高台が司祭者たちが「儀礼を行う場」であったからである。この方形の高台がセレモニーの舞台なのである。これから先は古田 武彦氏の考察であるが、この高台で行われる死者を祀る儀礼は鏡によるセレモニーであった。

  • 高台上の儀礼は鏡を用いて行われる。従って高台の高さに比例して太陽光や月光の反社範囲は拡大する。参加する民衆の人数の増大に対応するのである。
  • 従ってこのタイプの巨大古墳は「しめやかなる死者への追慕」というよりも「在地民衆に対する広大な誇示・宣伝」をこそ目標としている。
  • 最も重要な点は「遥かなる故国の地の、代々の祖先に対する遥拝の礼」がこの高台で行われた、と見做す事である。
日本書紀「神武紀」
「わが皇祖の霊が天より降り、鑒光(鏡が照らす事)してわたしの身を助けた。今、(この大和の)すべての敵を制圧し、海内は平和となった。そこで神を祀り、それによって大孝(祖先への恩返し)をしなければならない。」以上が奈良盆地の一角(橿原近辺)に拠点を定置し、鳥見山の小野榛原に「皇祖・天神」を祀った時の「神武の言」として記載されている。この「天神」とは「天孫降臨」と呼ばれる筑紫制圧以前の「天国」の「天つ神」を指し、その征服以降の「三種の神器、原初時代」の初代の王者、邇邇芸たちを「皇祖」と呼んでいる「吉武高木・三雲・須玖岡本・井原・平原」の弥生王墓群である。
 
弥生時代、近畿とその周辺は「銅鐸」を宝器とする文明下にあった。中国に於いて周代などの時代に政治・軍事用の楽器を「祭器」として用いていた。神武の軍は、その銅鐸文明圏の中枢に侵入したのである。三種の神器祭祀圏による銅鐸祭司圏への制圧であった。このような、近畿における新たな支配者が巨大古墳を造営し続けた。その目的は
 
  • 「反銅鐸祭司」の社会へと劇的転換が行われた事を民衆に明示する
  • 西方なる九州への「遥拝儀礼」を行う事によって、自らの「鏡」文明、「三種の神器」文明の淵源を明らかにする
  • 巨大古墳造営のための大量かつ長期の労働提供を新しい権力に対する「忠誠テスト」とする
  • 「巨大古墳」の下には、旧勢力による墳墓や聖地が「押しつぶされ」民衆の目から「隠される」事となった可能性が有る
「巨大古墳造営」という巨大労働と巨大面積の土地の使用は、新しき征服地に於いて、始めて可能であり、かつ有効なのである。
以上が古田 武彦氏の巨大古墳についての考察である。
 
それはさて置き、都道府県別の前方後円墳の数はと言えばこうなって居る。
 
1位 千葉県 685基
2位 茨城県 444基
3位 群馬県 410基
 
近畿地方   中国地方   九州地方  
奈良県 239基 鳥取県 280基 福岡県 219基
大阪府 162基 島根県 155基 佐賀県 53基
兵庫県 174基 岡山県 291基 長崎県 32基
京都府 183基 広島県 248基 熊本県 65基
滋賀県 132基 山口県 28基 大分県 77基
和歌山県 58基     宮崎県 149基
        鹿児島県 25基

大山古墳は巨大さゆえにこれこそは仁徳天皇陵だと言われている。梅原末治氏(京都大学教授)大林組(土木建築)が推定・算出した土砂の量は140万~143万立方メートルで、土をつき、葺石を張るとなると、古代工法では15年8か月かかると言う。これは、一日2千人が土を運ぶだけの作業である。そこへ食事、住居、病気のアクシデントを考えると、その財源はどうしたのであろうか。また、これくらいの大工事にも拘わらず、古事記、日本書紀に記載が無いのは何故なのか?

古墳についての記述が無い事も不審だが、古墳を天皇家の陵墓と単純に決め付けられない理由はいくつも有る。

例にとれば椿井大塚山古墳(京都府木津川市・3世紀末頃)・黒塚古墳(奈良県天理市・4世紀初頭〜前半頃)からは角縁神獣鏡が大量に出土し、その同笵鏡が西日本各地の古墳から出土していることが知られる。これこそは大和の有力者が各地の豪族へ「下賜」したのだ、とする論者も居る。では、何故、この両古墳は「天皇陵」あるいは「皇族」の陵墓とされていないのか。近畿天皇家とは無関係な陵墓から西日本各地に鏡を「下賜」した王者が出現してしまうのは何故か。

旧唐書倭国伝と日本国伝が明確に倭国と日本国を書き分けており、「日本国は倭国の別種也…その地を併せたり…」と記載して居るのに、そうしてそれが8世紀初頭の古墳時代の終わり切った時期であるのに、一体どうしたら近畿内の古墳をして天皇陵だと言えるのか。

などなど疑問点は多いのである。実際の数で見ると、近畿が中心の古墳分布などでは決してない。関東3県の方が近畿地方よりも古墳が多いのであるから。もし仮に古墳の大きさや数の多さから古墳時代の支配勢力を確定しようとするのなら、全国一位の古墳群を誇る千葉県の王者に近畿は制圧されていたのか、という話にもなりかねない。千葉県の王者がNo 1の支配者となるであろう。岡山の造山古墳も5世紀最大なのだから、岡山の王者がNo 1の支配者と言う事にもなる。

古墳の出土事実からすれば、近畿に強大な権力が有ったとは考えにくい。尚、前述の三角縁神獣鏡は日本製の鏡で有り、俾弥呼が中国皇帝から貰った中国鏡ではないのである。鑒光(鏡が照らす事)して身を助け、「皇祖」を遥拝する祭器であったのだろう。三種の神器祭祀圏の祀りの形を表すための神器であり、これを以て「中心の権力の証」だとは言えない。古墳に付いては出来る限り発掘調査をし、日本の古代現像を探るべきだと思う。このままでは「学問」ではなく「憶測」や「推測」に留まるばかりである。歴史と言う学問が「中心の権力者は天皇家でなくてはならない」というイデオロギーに忖度している限り、日本の歴史の真実は知る事が出来ないのである。

 
参考資料「ゼロからの古代史辞典」ミネルヴァ書房藤田友治・伊ケ崎淑彦・いき一郎共著
「失われた日本」原書房 古田 武彦著
古賀達也の洛中洛外日記 https://koganikki.furutasigaku.jp/koganikki/category/zenpou-kouen-fun-large-keyhole-shaped-tomb-mound/