日本書紀は天武のために

日本書紀は天武のために

『日本書紀』全三十巻のうち二十八巻と二十九巻が天武天皇の事績、そして次の三十巻目は妻の持統天皇の事績である。「紀」の編纂は天武の生前に企画され、孫の元正天皇の養老四年(七二〇)、天武の息子・舎人親王により完成した。 

事績の記述においても、天武は「紀」全文中687行で第一位、第二位は欽明445行・第三位孝徳375行・第四位持統366行・雄略310行・以下200行代が5人・100行代が11人・あとは二桁・一桁代が20人 となっている。

「紀」の舒明天皇の条に
 「二年の春正月の丁卯の朔戊寅に、宝皇女を立てて皇后とす。后、二の男・一の女を生れませり、一を葛城皇子と曰す。近江大津宮御宇天皇なり。二を間人皇女と曰す。三を大海皇子と曰す。浄御原宮御宇天皇なり」

 とあるが、ここには大海皇子(大海人皇子)後の天武天皇の生年月日が書かれていない。「紀」のどこにも書かれていない。従って、崩御の年齢が不明であるため、兄とされる天智との年齢差もまた不明なのである。

 ところが、鎌倉時代成立の『一代要記』や南北朝時代の『本朝皇胤紹運録』に「天武の没年齢は六五才」とあって『本朝皇胤紹運録』には「天武は推古三一年(六二三)誕生」とある。

 そのようなことから、大和岩雄氏は、「天武は天智より四才年上」であると論述している(『天智・天武天皇の謎』1991年・六興出版。なお、これについては佐々克明氏の先行論文『天智・天武は兄弟だったか』がある)。また、井沢元彦氏も、「没年齢六十五歳(数え年)なら、天武は六二二年生まれということになる。しかし、その「兄」のはずの天智天皇は、六二六年生まれだ。すなわち、弟の天武の方が天智より四年早く生まれたことになってしまうのである(『逆説の日本史』2「古代怨霊編」1998年・小学館文庫)」

と述べている。

天武の皇后と妃

  • 皇后:鸕野讃良皇女(後に持統天皇) - 天智天皇皇女
    • 第二皇子:草壁皇子(662-689) - 元正天皇・文武天皇・吉備内親王父
  • 妃:大田皇女 - 天智天皇皇女、鸕野讃良皇女同母姉
    • 第二皇女:大来皇女(661-701)- 伊勢斎宮
    • 第三皇子:大津皇子(663-686)
  • 妃:大江皇女 - 天智天皇皇女、鸕野讃良皇女異母妹
    • 第七皇子:長皇子(?-715) - 文室真人・文室朝臣等祖
    • 第九皇子:弓削皇子(?-699)
  • 妃:新田部皇女 - 天智天皇皇女、鸕野讃良皇女異母妹
    • 第六皇子:舎人親王(崇道尽敬皇帝)(676-735) - 淳仁天皇父、清原真人等祖

となっており、天智の娘四人のうち鸕野讃良皇女と大田皇女とは、天智の生前に娶り、大江皇女と新田部皇女は天智の没後に娶ったようである。「紀」において実の兄とされた天智の娘四人も弟の妃にする事は、あまりにも異常。裏を返せば、天武は天智の最大の政敵だったことになる。これは、天智と天武の兄弟説に大きな疑問を投げかける一つ事象である。

その他の妃は以下のようになっている。

  • 夫人:氷上娘 - 藤原鎌足女
    • 皇女:但馬皇女(?-708)- 高市皇子妃
  • 夫人:五百重娘 - 藤原鎌足女、氷上娘妹、のち藤原不比等妻、藤原麻呂母
    • 第十皇子:新田部親王(?-735) - 氷上真人・三原朝臣祖
  • 夫人:大蕤娘 - 蘇我赤兄女
    • 第五皇子:穂積皇子(?-715)
    • 皇女:紀皇女(?-?)
    • 皇女:田形皇女(675-728) - 六人部王室、伊勢斎宮
  • 嬪:額田王 - 鏡王女
    • 第一皇女:十市皇女(653?-678) - 大友皇子(弘文天皇)妃、葛野王母
  • 嬪:尼子娘 - 胸形徳善女
    • 第一皇子:高市皇子(654-696) - 長屋王・鈴鹿王父、高階真人・高階朝臣等祖
  • 嬪:かじ媛娘(かじは木偏に穀。※歴史的仮名遣いでは「かぢ」) - 宍人大麻呂女
    • 第四皇子:忍壁皇子(?-705) - 龍田真人祖、のち知太政官事
    • 皇子:磯城皇子(?-?) - 三園真人・笠原真人・清春真人祖
    • 皇女:泊瀬部皇女(?-741)- 川島皇子妃
    • 皇女:託基皇女(?-751) - 志貴皇子妃
 そして、ここで注目すべきことは、胸形君徳善の娘を娶っていること。「胸形君は九州王朝の天子の系列」とも考えられており、大海人皇子の最大の支援者で、近畿天皇家"簒奪"のための原動力が彼にあったのではないかと思われる。そのことは、徳善の孫にあたる高市皇子が後に太政大臣(或いは天皇--後述)になっている事からも推測できる。 


通説では「大皇弟」とは天皇の弟のこととされています。しかしながら、「紀」で「大皇弟」と記されているのは天武だけ。

初見は、天智天皇三年(六六三)の条、
 「三年の春二月の己卯の朔丁亥に天皇、大皇弟に命して、冠位の階名を増し換ふること、及び氏上・民部・家部等の事を宣ふ」

 とある。

ところで、「大」の付かない「皇弟」は、用明天皇二年四月の条に「皇弟皇子」・孝徳天皇の白雉四年の条に「皇弟等」・白雉五年の条に「皇弟」が出現している。
 これについて砂川恵伸氏は、「大皇弟」の意味として、概略次のように述べている(前掲書)。
  「三国時代の呉の孫堅の呼称が『大皇』であり、倭国は『(呉の)太伯の子孫』とも自称していることから、北朝系の隋・唐に対抗して南方系支配者の呼称を採用した可能性はないとはいえない。大海人皇子は自分の身分を『大皇の弟』と呼称した」

 と。しかし、果たして中国の故事にかこつけた単なる呼称だったのだろうか。
 「大皇弟」の初見の、天智天皇三年条の時、天智はまだ天皇になっていない「中大兄皇子」の時代であり(「紀」によれば、天智の即位年は天智七年の正月)、そうなると天皇の弟すなわち「皇弟」を意味しない。それならばどのような意味があるのか。


 「皇弟は天皇の弟」を意味し、「大皇弟とは天子(天皇より格上)の弟」を意味する。

 因みに、隋書俀国伝 に登場する俀国王 "阿毎(あま 天)多利思北孤たりしほこ"はその国書に、
  「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無つつがなしや云云」

として、「天子」を名乗っていた。
 つまり、大海人皇子は、当時日本列島の宗主国である「九州王朝の天子の弟」だった。

「真人」の称号からも、そして大海人皇子(天武)は九州王朝の姓である"天(あま 海士・海人に同じ)"を名乗っていることからも、また諱(いみな 死後に言う生前の名前で姓ではない)も天渟中原瀛(あまのぬなはらおきの)真人(まひとの)天皇(すめらみこと)であり、九州王朝の皇子であった。 

因みに、近畿天皇家にも「天」の諱を名乗っている天皇が居る(「紀」による)。それは、三五代皇極(天豊財重日足姫尊)、三六代孝徳(天萬豊日尊)、第三七代斉明(皇極に同じ - 重祚)、三八代天智(天命開別尊)、それに近畿王朝になってからの天武系の四二代文武(天之真宗豊祖父尊)、四五代聖武(天璽国押開豊桜彦尊)、そして天智系の四九代光仁(天宗高紹)。 

 この中で近畿王朝以前の天皇について言えば、皇極は九州王朝の斉明と合体させた諱であり、天智についての命名も系図上斉明の息子で天武の兄とするからには「天」にする必要があったと思われる。また、孝徳についても斉明の弟としているため、「万世一系」系図作成のための創作ではないだろうか。 

大海人皇子は九州から近畿にやって来た時から「大皇弟」であっても不思議はなく、従って「紀」に言うところの、天智即位前の「大皇弟」の記述もおかしくない。また、「近畿天皇家」にとっては、極めて重大な出来事であった「乙巳の変」(中大兄皇子蘇我入鹿を殺害)にも大海人皇子の存在は、影も形もなく、突如、天智三年に登場することも肯ける。


 そして、天武の暴虐無人な振る舞いを語る有名なエピソードとして、 
 天智「即位の儀」の後に催された祝宴の最中、酔った天武が天智の面前で、槍を振り廻し床に"ぐさり"と突き刺した -- 

 ということが『藤氏家伝』(藤原氏初期の伝記・天平宝字四年<七六〇>成立)にある。これなども、普通の弟ならばできることではなく、「大皇弟」であったればこその所業と見ることができる。

 天武に「大皇弟」の尊称があった事から、「紀」は天智の弟としてデッチ挙げるのに都合がよかった。

天武天皇の諱は「天渟中原瀛(おきの)真人天皇」であり、「八色姓やくさのかばね」の「真人」の称号を名乗っていまる(「紀」)。


 「八色姓」とは「真人(まひと)・朝臣(あそみ・あそん)・宿禰(すくね)・忌寸(いみき)・道師((みちのし)・臣(おみ)・連(むらじ)・稲置(いなぎ)」の八つの姓(かばね)をいい、天武天皇十三年(六八四)に制定したとされている(「紀」)。

 しかし、この684年時の宗主国は、まだ九州王朝倭国なので、この記事は矛盾している。しかも「八色姓」を制定した天武天皇自身が、臣下第一等の「真人」を自らの称号にするということは、全くおかしい話。
 従って、この「八色姓」は近畿天皇家の制定に係るものではなく九州王朝の制度であり、これは大海人皇子(天武)の九州居住時代の称号だったのであるとみるとすっきりする。

「紀」は、天武天皇の父は第三十四代舒明天皇、母は第三十五代皇極天皇(重祚して第三十七代斉明天皇)であるとしている。しかしこれは創作である。

 今まで見てきた通り、天智と天武は兄弟ではなく、天武は「大皇弟」「真人」の称号から九州王朝の人となる。従って、通説の近畿天皇家の舒明・皇極(斉明)を父母とする系図は、全くの創作。

 更に言えば「宝皇女こと斉明天皇は九州王朝の天子である」ということになると、なお一層系図の虚偽が明確となる。
 また、推測の域を出ないが、舒明天皇も"伊予滞在五ヶ月(「紀」)"の検証から、九州王朝の天子だったと考えられている。
 古田氏はその著『壬申大乱』で、『万葉集』巻一に登場する"中皇命"を、「七世紀中葉・<白村江の戦い>以前の九州王朝の天子」としている事から、中皇命こそが舒明天皇ではないかという考えもあり得る。 

天武が「大皇弟」であるならば、一体如何なる天子の弟だったのか、ということになる。

唐の捕虜となった筑紫君・薩夜麻は斉明の摂政(古田説)ということでもあり、斉明の後を継いだ天子と考えられ(斉明の実子か)、年齢も天武の方が上と思われることから、時系列的に薩夜麻の弟では無い。
時代の整合性を加味して、消去法で見るならば、斉明こそが天武の"姉"と言う事になる。つまり、天武は「天子・斉明」の息子ではなく"弟"、即ち「大皇弟」だった。

 一方、兄弟ではなかった天智の父母はとなると、母は系図の通り「天豊財重日足姫=皇極」であり、父は不明ですが舒明の諱(いみな)とされる「息長足日広額」という人物だったことも考えられる。 

九州王朝の「天子・斉明」の弟で「大皇弟・真人」と称されていた「大海人皇子」は、「白村江の戦い」(662年)の敗戦で唐の進駐軍や復員兵でごったがえしていた九州王朝の首都・太宰府を脱出して、近畿に逃げ込んだ。

 その当時の近畿では、「中大兄皇子」の「天皇家」が、大豪族であった蘇我本宗家を滅ぼし、「白村江の戦い」にも参戦しなかったため、実力を蓄え台頭してきて、近畿地方に覇権を確立していたと思われる。
 そこへ、大海人皇子がやって来た。九州王朝は朝鮮半島での戦いに敗れ、亡国の瀬戸際に追い詰められていたとはいえ、皇子は"腐っても鯛"で、まだ格式だけはしっかりあり、往年の栄光を背後に背負ってやって来た。

その時、砂川氏が言われるように、九州王朝の"七枝刀"などの宝物を持ち運んで来たことも考えられる。
古田氏が述べておられる九州・久留米にあった九州王朝の宝庫「正倉院」の"御物"を持ち込んだのかもしれない。

 一方の天皇家の中大兄皇子は、即位して近畿天皇家の主・天智天皇となったが、侵入者で最大の政敵となった格上の大海人皇子に、脅威を感じて娘を二人も差し出し、歓待に務めたと思われる。

 しかし、天智との蜜月は長くは続かなかった。その理由としては、天智は当初、後継者を大海人皇子としていたものの、そのうちに息子の大友皇子を当てたい、と考えたためではないかと思われる。

 そんなことから、大海人皇子は天智天皇を山科の木幡で暗殺した。『扶桑略記』にあるように「遺体」がなかったということと、「紀」に歴代天皇で陵墓が記されていないのは天智天皇ただ一人であるという事実が、それを雄弁に物語っている。

 その後、大海人皇子は九州の大豪族で嫁の父・胸形君徳善と豊前の大豪族であった大分君恵尺をバックにして、近畿の豪族達をも味方に付け(「近江遷都」反対の不満分子か)、筑紫や肥前から近畿を舞台に争乱を引き起こし、大友皇子を自殺に至らしめ、近畿天皇家を簒奪した。

 ところで、「壬申の乱」は一つの見方として「易姓革命」だったと言われる。
 「易姓革命」とは、中国の儒教に基づく王朝交代の理論で、天子の徳がなくなれば天命が別の姓の天子に改まることを意味する。つまり、別の国姓への王朝交代であり、王朝が替われば国姓も替わるということになる。
 「易姓革命」であるとする根拠については、
 九州王朝倭国の天子の姓は「天あま」。『隋書 俀国伝』に、俀国(大倭国・倭国)王「姓は阿毎(天)」、「字は多利思北孤」とあることによって知ることができる。一方の近畿の天皇家には諱(いみな)はあっても姓はない。但し、古田氏によれば、「近畿の天皇家は九州王朝の分家」であり、「当初は姓があった」と述べておられる。しかし、この時代は近畿の天皇家には既に姓が無かった。従って、姓が"有る"ところから"無い"ところに替わった。故に、この場合は「姓が替わる王朝交代」と言える。

 因みに、近畿の天皇家に姓が無いことについて古田氏の解説では、「近畿の天皇家の言い分として、姓が無い方が特別の家系で、姓が有る方が格下である」ということのようである。これも"勝者の論理"による言い分とするべきか。
 なお、この時点では、日本列島の宗主国として九州王朝倭国が厳然として存在していることから、明確な「易姓革命」とはまだ言えない。それは、あくまでも九州王朝の枠組みの中での一王権の交代であるから。従って、完全な「王朝交代」は、大宝元年(七〇一)まで待たなければならない。
 つまり、天武による「近畿天皇家簒奪」のために引き起こした"争乱"は「易姓革命」の"序章"と言える。


 そして、「紀」は儒教思想に基づいて書かれていることから、何としても"簒奪"による王朝交代と、後世そしられることを避けたかった。そのためにも、"血のつながり"を建て前とする「万世一系」の系図を作成しなければならなかった。つまり、中国とは違って"「易姓革命」を隠すため"だった。それ故に、弟に成りすました。

 「紀」は九州王朝の天子であった「斉明」を、近畿の天皇「皇極」に、重祚という形でむりやり合体させ、「天智」と「天武」の実母にした。
 更に、古田氏によると、『三国志』「魏志倭人伝」に登場する「卑弥呼」と「壹与」を合体させて「神功皇后」を特出したように、"合体の手法"は「紀」においてはお手のものだった。 

何故天武は格上であった九州王朝の皇子だったのに、格下の近畿天皇家に入り込んで、九州王朝を"抹殺"したのか。

中国大陸の歴代王朝は九州王朝・倭国の宗主国だった(517年倭国の磐井が独立するまで)。倭国は中国歴代王朝の朝貢国であり、臣下の礼を取って爵号を授与されていた。
 つまり、中国は世界の中心であるという所謂「中華思想」が基本にあって周りの国は全て蛮族であり、日本列島は"東夷"と位置づけられていた。
 ところが、中国大陸は4世紀から続く南北朝争乱期で中国南朝は衰退、502年南朝「梁」による倭国王の称号降格を契機として、倭国は中国臣従を止めた(古田説₎。その後も、統一国がなかったこともあり、大陸とわが国とはその間の正式な国交は途絶えていた。


 それが、581年「隋」が興り、やがて中国全土を統一したため、日本列島の宗主国の九州王朝・俀国(倭国・大倭国)は、600年に慶賀の使節を派遣した。また、俀国は607年にも使節を派遣した。その時、俀国の天子・阿毎(あま 天)多利思北孤(たりしほこ)の「国書」が問題となった。そこに記載された文言、
  「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無つつがなしや云云」(『隋書俀国伝』)

 これは、わが国の尊厳を見事なまでに表現したが、中国から見れば「天子」を名乗るなどとはもっての外、許されないことだった。隋の皇帝「煬帝」は烈火のごとく怒った。つまり、「天子は世界で唯一人」であり「二人天子」は論外だった。『隋書』にある「此の後、遂に絶つ(国交断絶)」がそれを示している。

 そして注目すべき事だが、隋朝が短命(三七年間)に終わった大きな理由が、わが国からの国書の文言"天子"にあった。


「隋の将軍であった"李淵(唐の初代皇帝)"がクーデターを起こした大義名分は、東夷の国の俀国が"天子"を名乗る無礼極まる行為にも係わらず、隋は何もしなかった」ことにあった(古田説)。

 このように、中国にとって "天子"の語は「唯一無二」の極めて重いものだった。
 更に、七世紀中半から朝鮮半島に争乱が勃発。それに巻き込まれた九州王朝倭国は、大国・唐に刃向かった。それは、唐と新羅の連合軍が百済攻略戦を仕掛けたのを期に、倭国は百済の応援要請で唐に敵対した。これが世に言う「白村江の戦い」で、陸戦も含めて四度戦って倭国側は全て負けた。その際、近畿天皇家は倭国を裏切って参戦しなかった。

 唐にとって「白村江の戦い」は、倭国が行った先述の中国(事実は隋)に対する "非礼"に、鉄槌を加えることにあった。
 中国の慣習として、敵対した者に対しては徹底的に破滅させ、墓をも暴くということがあった。そのため、敵対した九州王朝の本拠地・九州北部の大きな古墳は、進駐軍により徹底的に破壊し尽くされた。現実に、地下の状況はともかく、地上にある古墳の存在が九州地方に少ないことからも解る。それに対して、近畿の巨大古墳は、戦いに賛同したと思われる蘇我馬子の墓と伝えられている「石舞台古墳」以外は無傷で遺されている。これは、近畿天皇家がこの戦いに参加していなかったことの証左である。


 戦後、九州王朝倭国の同盟国・百済は完全に亡くなった。同じ朝鮮民族の新羅に併呑された。一方の倭国は、国が大きくまた遠隔地でもあったため、結局のところ九州王朝から、701年に成立した近畿王朝に、政権の委譲で済まされたのである。 

 そして「紀」において、敵対した国は"なかった"ことにした(古田説)。また、「神籠石城・朝鮮式古代山城・水城」などの大土木工事を行った天子・斉明を、「狂心の渠」で象徴される"狂人"扱いにしなければならなかった。
 また、天武・持統は唐の進駐軍司令官であった郭務悰 の庇護のもと、九州から近畿への政権移譲を成就させることができた(古田説 -- 天武の短歌に登場する「淑人よきひと」の論証)。それだけに唐の権威に逆らうこともできず、「紀」は作成当時既に進駐軍はいなかったのですが、その"背後霊"の下、編纂されたものと思われる。この現象は戦後日本の教科書が進駐軍のマッカーサー元帥の下で墨で黒々と塗られたことに似ている。
    

 このような状況の元、天武は九州王朝倭国の皇子であったにも係わらず、唐王朝に敵対した我が王朝を"なかった"ことにして抹殺した。それに伴い同じく九州王朝傘下の「関東王国(群馬・栃木・埼玉県中心)」「吉備王国(岡山県)」「越智王国(愛媛県)」「風早王国(愛媛県)」などの参戦した国々もなかったことにして、史書上から抹殺したのである。 

九州王朝倭国の首都は太宰府を中心とした博多湾岸の北部九州であった。ここは、日本列島の端に位置し、中国や朝鮮半島に最も近く、文化・経済面に於いては最先進地帯で王朝の発展に繋がった。しかし、「白村江の戦い」で散々の目に遭ったので、対外戦争を考慮すれば、近いが故に不的確であった。それに対して、近畿地方ならば日本列島の中央(当時は北海道・東北・沖縄は日本国にあらず)に位置し、国家統治のためにも良かった。

 従って、近畿に居座ることにした。更に「紀」編纂にあたり、天武及び天武政権の人達にとって、九州王朝を抹殺して天皇家の系図に収まることは、やむを得ない仕儀だった。しかし、案外"好都合だった"と思ったようにも見受けられる。それは、古の栄光を背負っていたとはいえ、すっかり落ちぶれてしまった"敗残国の天子の弟"で、しかも天子・斉明の後継者として薩夜麻の存在があることから、もはや表舞台に出ることも適わなかった天武にとって、正に千載一遇のチャンスだった。
 なお、九州王朝の抹殺に係わったのは、天武は勿論のことその後継者と、それに当時の政界の実力者であった藤原不比等(ふじわらのふひと 藤原鎌足の次男)が大いに関与していた。いやそれ以上に不比等の仕業と言っても良いのではないか。 

天武から称徳天皇まで九代・八人(孝謙天皇は重祚して称徳天皇)は天武系の天皇であり、急死した称徳天皇に替わって、次の四十九代光仁天皇(即位時六二歳)からまた天智系に戻る。以後天武系は一人として皇位には着けなかった。

 皇室の菩提寺である京都の「泉涌寺・霊明殿」に、天智天皇と光仁天皇から昭和天皇(南北両朝の天皇も含む)に至る歴代天皇及び皇后の位牌が祀られている。ところが、そこには天武系の天皇の位牌がないと言う。


 これについて井沢氏は、位牌が無いことについて、歴史家小林恵子氏の発見にかかることとして、次のように述べている。
  「天武系七人の位牌がないということは、つまり祀られていないということで、この七人の天皇は<無縁むえんぶつ>として扱われていることになる(実際は八人だが、井沢著では四十七代淳仁天皇<淡路廃帝>を除いたか 」

としている。つまり、桓武天皇の父・光仁天皇を天智天皇の直系として位置づけ、天武系八人の天皇を、皇室の仏壇から排除していたのだ。

 更にまた、井沢氏は、これも小林恵子氏の発見にかかることとして、
「平安時代になってからの記録を調べると、歴代の天皇陵に対する"奉幣の儀"が、天武系の天皇に対しては、まったく行われていない」

 即ち、仏式・神式ともに、天武系の天皇は皇室の祭祀から除外されているという驚くべき事実がある。
九州王朝の大海人皇子(天武)に、近畿天皇家の天智・弘文が殺され、王権を簒奪されたこと、また好き勝手に系図を改作されたことに対しても、天智系による恨み骨髄の復讐の仕儀にほかならない。それでも、「万世一系・近畿王朝一元史観」を貫くために歴史資料としての日本書紀は否定できない、と言う事だろう。
 そして、五十代桓武天皇が、都を天武系の大和国・平城京(奈良市)から山背国(のち山城国)・平安京(京都市)に移したことは、一般に言われている"怨霊"から逃れるためではなく、天武系の忌まわしい過去を払拭するための遷都であったと思われるのである。

また天武の次の後継天皇は持統ではなく、天武の長男の高市皇子ではなかったのか。これについては、『日本霊異記』(にほんりょういき 平安時代初期成立・仏教説話集)に「太政大臣長屋親王」とあって、永らくこの"親王"問題が物議を醸していたが、近年、長屋王邸宅跡から出土した「長屋親王木簡」で"親王"だったことが判明した。親王とは天皇の皇子に限られるので、その父・高市皇子が天皇でなければならない。「紀」は持統の意に沿い、また藤原不比等やその息子達の思惑もあって、持統の実子でない「高市天皇」を消し去ったのでは、と推察される。

 また四国の越智国には斉明天皇の「紫宸殿」跡が残されて居る。これについては、遺跡の発掘が待たれるところである。「天武が近畿に入り天皇家の主となっていた頃、斉明は越智国明理川を九州王朝倭国の"首都"にしていた」と考えられる。 

参考:天武天皇の謎「万世一系」系図作成の真相 正木氏論文