最初の渡来者

最初の渡来者

日本列島の最初の渡来者と日本列島の始まり

日本列島の最初の渡来者は原人である。出雲市の砂原遺跡から、11万~12万年前の石器が発掘されている。遠野市で発掘された8-9万年前の金取遺跡からも石器が出土しているが、これらは現生人類とは別の原人のものであろうと目されている。

和田家文書では日本列島の最初の渡来者はバイカル湖周辺に居た阿曽辺族という。最も寒冷となった2万年前にバイカル湖周辺の人々が山靼を出て、動物を追って東に移動し、一部は沿海州から樺太、北海道へと渡った。これが阿蘇部族だ。

次に渡来したのが津保化族で、最も寒冷となった2万年前にバイカル湖周辺の人々が動物を追って東に移動し、一部はアラスカを経て、北米大陸へ渡り、南北米大陸に渡った津保化族の祖先がそこで定住したが、後にその子孫が故地のバイカル湖周辺を目指して移動中に日本列島に流れ着いた。これが津保化族である。

1万年前に南北米大陸に渡った津保化族の一団は下北半島「都母(つも)」にやって来たと言う。

つまり阿蘇部族と津保化族はルーツは同じなのである。

狩猟を主体とした阿蘇部族は岩木山₍青森県弘前市および西津軽郡鰺ヶ沢町に位置する火山₎の噴火で滅んだと言われている。

一度は米大陸に移住した津保化族だったが何らかの事情で祖先の地に帰ろうとしたらしい。アジア大陸のバイカル湖周辺を目指して引き返す途中青森県の下北半島根付けに漂着した。宇曽利、糠部、都母に一旦定着した後、次第に西に移動し、三内丸山などに移り住んだ。三内丸山遺跡は5500年前から始まっている。三浦半島の田戸遺跡も5000年前の遺跡とされている。

亀ヶ岡石器時代遺跡は4000年前頃に始まるとされる。八甲田山の大噴火により、難を逃れて亀ヶ岡などへ移動した。印象的な遮光器土偶で知られる亀ヶ岡土器は近畿にまで及び、九州にも影響を与えている。これを亀ヶ岡文化圏とすると、石器時代にも列島を覆う祭司圏が広がっていた。和田家文書では荒覇吐神の似姿として遮光器土偶が描かれており、日本列島の最初の民族、津保化族の神の姿を知る事になった。

「渡島住民をアイヌとて忌み嫌ふべからず。彼の民こそ古き世より神の古道を遺せし民なり。クリル族、ギリヤーク族、オロッコ族、オロチョン族、チングース族、ウデゲ族、何れも古祖にして血の縁れる民なるを異にする勿れ。山靼は大陸にして擴し。西果てに紅毛人国あり、黒人国ありて、吾等は黄色人種に屬す。その渡れる方處世界果つる国に住居して、古代の證を遺しつる人の種族なり。」

和田家文書  丑寅日本国古事抄 語部録抄壹之巻 より

「丑寅日本国にては紅毛人の歸化をも認めき故に、かく知識を得たるゝなり。知らざるは知識を山靼に求むは、何事の支障もなかりき。古にして奥州は青眼、紅毛頭髪の民、多かりしと今に傳ふなり。

人の種になれるは、ブリヤート族、シュメール族、シキタイ族、ギリシア族、モンゴル族ら多彩なり。丑寅日本国に住みては、信仰は先住のモンゴル、シュメール神なるブルハン及びアラハバキ神を以って一統さる他は自在たり。」

北鑑第12巻より

「東日流とは日高見国の国末にて、古代に於てをや、氷原を以て海を閉し、支那の地に到るを歩めし世ありき、渡り来たる阿曽辺族、次には津保化族を以て人住む国となりける地なり。抑々、わが東日流の国ぞ、安東浦、曽止浦の海幸に豊けきところなりせば、古人の祖住ぞ今なる倭の国より古けき国とぞ曰ふ。

北辰に続く広大なる国土ぞ、日輪の不沈国ありて、丸き日輪も四角に神変せるぞ拝せらるなり。これなる氷原国ぞ、みな日下将軍の国土にして、蝦夷とぞ軽笑に化外せる倭朝の不知るところなり。
 地の果まで日下の国は続きけるに、安東水軍ぞ古代より海征をなしたるは、その幸を求むる故なりき。われら人祖の祖血は世界皆一族にして、いかで人のうえに人ぞあるべきか、また富貴貧賎ぞ如何に以て人の世にのみあるべきぞ。人の道には父母に孝し、導くものを尊敬せる他に何事を以て争ふぞ。

荒吐族は古来より全能の神なる天地水の荒吐神を平等摂取の神となし崇拝しきたり。
 人とし殺伐、欲と盗、自望勝手たるを赦すことなく一族を護りきに、倭人はこれを夷賊とて永き征伐の歴史を遺したるに、如何なる悔もなきは忿怒やるかたなき外道の制悪にして永代忘却を赦さざる憎恨なり。

凡そ生を世に人身をして受け、陽陰少かに五十年を限りとし、生々流転安きことなき無常一刻の夢になにをか以て争ふるぞ。
 冬寒永き日高見の国に到る一刻の陽期にまかなふる衣食住の備を奪ふるは倭朝の輩にて、これに応ぜざれば蝦夷の反きとぞ征夷の刃ぞあらましぬ。依て荒吐族は古来より一汁一食たりとも私にせず、生々相互の分ちあふ生命の保つを暮しとせり。

これを犯すものは、いかなるものとて一族を挙げて討つべくは生きるべく人の道にして、神ぞあらばいづれが正邪ぞ知るべきところなり。北辰の民はかくして生命を今に保つきたるなりと伝はり、平等なる人の生々を子孫に遺しけるは尊ときところなり。
 かくある荒吐族の生命ぞ、今尚以て征夷の軍配とどむなく、いつぞやこれを討破らむ陽光当るべき日の近からむ兆ぞあらめ。
 神ぞ知るべくを以て筆をとどむるなり。
  元禄十年五月    藤井伊予」

東日流外三郡誌 抜抄篇第三 藤井伊予 元禄十(一六九七)年五月 一巻64~65より 

日本列島の始まりはクリル族、ギリヤーク族、オロッコ族、オロチョン族、チングース族、ウデゲ族、ブリヤート族、シュメール族、シキタイ族、ギリシア族、モンゴル族の混血である津保化族の石器時代の渡来である。

東日流外三郡誌 抜抄篇第三 藤井伊予 元禄十(一六九七)年五月 一巻64~65より 

日本列島の始まりはクリル族、ギリヤーク族、オロッコ族、オロチョン族、チングース族、ウデゲ族、ブリヤート族、シュメール族、シキタイ族、ギリシア族、モンゴル族の混血である津保化族の石器時代の渡来である。

 




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