梁書 列傳 第四十八 「東夷」

梁書 列傳 第四十八 「東夷」

梁書 列傳 第四十八 「東夷」には、扶桑国からやってきたという沙門慧深なる僧が語った内容が記述されている。

「扶桑國者、齊永元元年、其國有沙門慧深來至荊州、說云「扶桑在大漢國東二萬餘里、地在中國之東、其土多扶桑木、故以爲名。扶桑葉似桐、而初生如笋、國人食之、實如梨而赤、績其皮爲布以爲衣、亦以爲綿。作板屋。無城郭。有文字、以扶桑皮爲紙。無兵甲、不攻戰。其國法、有南北獄。若犯輕者入南獄、重罪者入北獄。有赦則赦南獄、不赦北獄。在北獄者、男女相配、生男八歲爲奴、生女九歲爲婢。犯罪之身、至死不出。貴人有罪、國乃大會、坐罪人於坑、對之宴飲、分訣若死別焉。以灰繞之、其一重則一身屏退、二重則及子孫、三重則及七世。名國王爲乙祁。貴人第一者爲大對盧、第二者爲小對盧、第三者爲納咄沙。國王行有鼓角導從。其衣色隨年改易、甲乙年青、丙丁年赤、戊己年黃、庚辛年白、壬癸年黑。有牛角甚長、以角載物、至勝二十斛。車有馬車、牛車、鹿車。國人養鹿、如中國畜牛。以乳爲酪。有桑梨、經年不壞。多蒲桃。其地無鐵有銅、不貴金銀。市無租估。其婚姻,壻往女家門外作屋、晨夕灑掃、經年而女不悅、卽驅之、相悅乃成婚。婚禮大抵與中國同。親喪、七日不食。祖父母喪、五日不食。兄弟伯叔姑姊妹、三日不食。設靈爲神像、朝夕拜奠、不制縗絰。嗣王立、三年不視國事。其俗舊無佛法、宋大明二年、罽賓國嘗有比丘五人游行至其國、流通佛法、經像、教令出家、風俗遂改。」

「文身國、在倭國東北七千餘里。人體有文如獸、其額上有三文、文直者貴、文小者賤。土俗歡樂、物豐而賤、行客不齎糧。有屋宇、無城郭。其王所居、飾以金銀珍麗。繞屋爲壍、廣一丈、實以水銀、雨則流于水銀之上。市用珍寶。犯輕罪者則鞭杖。犯死罪則置猛獸食之、有枉則猛獸避而不食、經宿則赦之。」

文身國は倭國の東北7000餘里、この当時の1里は約75mだから525k。倭国の政庁が大宰府だとすると出雲市あたりか。

 

「大漢國、在文身國東五千餘里。無兵戈、不攻戰。風俗並與文身國同而言語異。」

大漢國は文身國の東5000里、この当時の1里は約75mだから375k。京都府宮津市大垣の籠神社あたりか。

扶桑國は大漢國の東に20000里にあり、中國の東に位置すると言う。この当時の1里は約75mだから1540k。青森県五所川原市石塔山あたりか。

「慧深又云『扶桑東千餘里有女國、容貌端正、色甚潔白、身體有毛、髮長委地。至二、三月、競入水則任娠、六七月產子。女人胸前無乳、項後生毛、根白、毛中有汁、以乳子、一百日能行、三四年則成人矣。見人驚避、偏畏丈夫。食鹹草如禽獸。鹹草葉似邪蒿、而氣香味鹹。』天監六年、有晉安人渡海、爲風所飄至一島、登岸、有人居止。女則如中國、而言語不可曉。男則人身而狗頭、其聲如吠。其食有小豆。其衣如布。築土爲墻、其形圓、其戶如竇云。」

扶桑國から東に約1000里、女國が有ると言う。この当時の1里は約75mだから750k。北海道網走、紋別、あるいは歯舞、色丹あたりか。容貌の描写が白人的だし。北海道の名産物は小豆だ。当時中国と近しい間柄の国と言えば当然裏日本、日本海側だ。海を渡って交流するのに内陸部や太平洋側は有り得ない。5世紀ならなおさらだ。この時代に仏法を求めて中国まで行った僧、慧深は東北の人だったと思うのだが、どうだろうか。