欠史8代

欠史8代

神武以降の8代は系譜のみが有って、事績が記されて居ないので、歴史を持たない天皇だとされて居る。書かなかったのではなく「書けなかった」歴史なのだと思う。魏志倭人伝に出て来る長官は「爾支(にき) 」「彌彌(みみ)」と言い、大官は「大官は卑狗(ひこ) 」と言ったと記述がある。

役職名の連想から邇邇芸は長官であった可能性があるし、神武の息子多芸志美美「みみ」。多芸志地方の長官であった可能性を指摘しておきたい。九州の邪馬壹国の軍事将軍、あるいはそれを自称したと見られる。

どうやら7第孝靈迄は、奈良盆地の磯城県主として暮らしていたらしい形跡がある。天の下をしろしめすどころか、それ迄の奈良盆地の豪族と婚姻関係を結び、何とかかんとか奈良盆地の「県主」として地方長官程度にはなって居たようである。何故そう考えるのかと言うと古事記・日本書紀の記述では綏靖から孝安まで彼らの正妃の出自が磯城県主の娘となっているからである。

最も古事記綏靖天皇条に

神沼河耳命坐葛城高岡宮治天下也
此天皇娶師木縣主之祖河俣毘賣 生御子師木津日子玉手見命【一柱】

とあり、綏靖が娶った河俣毘賣 は師木縣主之祖とある。と言う事は綏靖以降は天皇家と呼ぶ家系自らが師木縣主であった、と言う事にもなる。磯城県主の娘を娶ると言う事は当時の階級、階層を考えると、同じ階級、階層からの婚姻形態であったと思われるので、いわゆる天皇家は最初は唐古遺跡(奈良県磯城郡田原本町)に盤踞する県主であったと考えられるのである。

欠史8代

  1. 綏靖天皇 - 神渟名川耳天皇(かむぬなかわみみのすめらみこと)
  2. 安寧天皇 - 磯城津彦玉手看天皇(しきつひこたまてみのすめらみこと)
  3. 懿徳天皇 - 大日本彦耜友天皇(おおやまとひこすきとものすめらみこと)
  4. 孝昭天皇 - 観松彦香殖稲天皇(みまつひこかえしねのすめらみこと)
  5. 孝安天皇 - 日本足彦国押人天皇(やまとたらしひこくにおしひとのすめらみこと)
  6. 孝靈天皇 - 大日本根子彦太瓊天皇(おおやまとねこひこふとにのすめらみこと)
  7. 孝元天皇 - 大日本根子彦国牽天皇(おおやまとねこひこくにくるのすめらみこと)
  8. 開化天皇 - 稚日本根子彦大日日天皇(わかやまとねこひこおおびびのすめらみこと)
「總輯東日流六郡誌全 邪馬台国之滅亡 攻防八年之戦史抄 寛政十年五月 秋田孝季 和田末次 菅江真澄」 には
 
「佐怒、邪馬台国の賊国を全略なして立君し、神武天皇と称して日本紀元を建てたりと、世に伝わるも、史実にあらず。邪馬台国に睦みし諸国の王、佐怒の侵奪を非道なりとて、従わざる多く、これらが平征戦、これより二十八年間に及び、佐怒はこの中で死して、立君つひに成らざりきといふが史の実相なり。」
 
と書かれており、これが事実なら神武は一代で終わって居る。
 
そうかと思えば以下の記述もある。
 

「丑寅日本記 第六」“侵入不可侵之東日流”には

「荒覇吐王の発祥せし東日流及び宇曾利の国は津保毛王の一万年前より応永十七年に至る間、倭領直治のなかりける民族自治の国たり。是の地に耶靡堆より落来たる安日彦王一族を始めとせる落人多く、その智聖を遺したるは、造誘作説の倭史に記さる偽史なり。
 吾が日本国は一統信仰になる国治安泰を永代せし国なり。倭人の如何なる智謀も東日流、宇曾利には通ぜず、以て侵入不可侵の国土たり。吾が国より倭国の天皇となりしは大根子彦にして、世に是を孝元天皇と曰ふなり。その誕生せる地に、大根子神社のありきは、今に遺りけり。」

とあり、欠史8代の7代目の孝元は荒覇吐王の血統であるらしいのだ。その次代の開化も孝元の息子であり、神武の血統は6代目で絶えている。

10代崇神は「たたり神」の名を持つように、朝鮮半島から渡来の侵略者であったらしい。

「丑寅日本記 第七」“丑寅日本国史抄”には

 「倭国の天皇記に曰く。韓国より渡来せる崇神天皇とて倭王となれるあり。常にして丑寅にうかがえて、兵を遣して敗るが故に、河内王和珥帝と和睦せんとせるも、和珥帝、元より膽駒王富雄郷之長髓彦系なりせば、春日穂無智別を遣して崇神天皇を討伐せり。
 和珥帝に縁れるは、宇治氏、大津氏、木津氏、春日氏、ありて蘇我郷の崇神天皇と常にして攻防の戦を相争ふたり。
 崇神天皇に加勢せるは、葛城王にて、日向の出なり。故地日向は、筑紫王磐井氏に滅亡さるまま崩滅せる後を猿田氏が地配せり。是また薩陽王、隼人王、併軍押領に屈したり。
 筑紫にては熊襲王、邪馬壹王と併せて奴国王を亡し、茲に立国せり。崇神天皇とは伊裡王の事なり。天皇系にして、景行天皇、倭武、神功皇后、ぞ実在せざるとぞ、天皇記に記述ありき。
   文正丙戌年二月七日
     船史恵尺之流胤 竹内宗達」

とあり、10代崇神も河内王和珥帝に討伐されたようである。筑紫王磐井氏によって日向の葛城王が滅亡させられ、その地を猿田氏が分割統治したと読める。この時期に薩陽王と隼人王も領地横領に晒されたらしい。しかも景行、倭武、神功は実在しないと記載されている。

これは当然だと言える。日本書紀は突然、何の脈絡も無く、仲哀が豊浦宮で天の下をしろしめす、とか景行が九州に遠征したりを記述する突飛さだ。その前後関係は一切語られない。語られないのに突然に戦闘している。ほぼ意味不明な記述の連続だと言っても過言ではない。

この時代、近畿内は混沌として、主権者が居なかったと思える。しかし、近畿には崇神が伴って来た軍人が敗北しつつも居残った筈で、近畿の人々に朝鮮半島由来のDNAを持つ人が多いと言う理由もうなづける。この時代は奴隷制社会で、奴婢の他に生口と言って捕虜も多く労働を強いられた時代である。敗北した民族は「墓守」にされる時代である。近畿内に大規模古墳が造営されたのは、こうした事情からなのかもしれない。多くの生口を得ると、労働させなければならなくなるからである。