法隆寺 釈迦3尊像の光背銘

法隆寺 釈迦3尊像の光背銘

法隆寺の本尊は釈迦三尊である。その光背には196文字が刻まれている。この金石文の登場人物は「上宮法王」とその母「鬼前太后」、「上宮法王」の妃「干食王后」となっている。そして実際に製造に携わったのはお使いとして仏師に依頼した司馬の官、鞍首と、止利という仏師であると言う。

原文

法興元卅一年歳次辛巳十二月鬼前皇后崩明年正月廿二日上宮法皇枕病弗悆干食王后仍以勞疾並著於床時王后王子等及興諸臣深懐愁毒共相發願仰依三寶當造釋像尺寸王身蒙此願力轉病延壽安住世間若是定業以背世者往登浄土早昇妙果二月廿一日癸酉王后即世翌日法皇登遐癸未年三月中如願敬造釋迦尊像并侠侍及荘厳具竟乗斯微福信道知識現在安穏出生入死随奉三主紹隆三寶遂共彼岸普遍六道法界含識得脱苦縁同趣菩提使司馬鞍首止利佛師造(「飛鳥・白鳳の在銘金銅仏」奈良国立文化研究所飛鳥資料館編による)

訳文読み下し


法興元31年、歳次辛巳(621年)12月、鬼前皇后崩ず。

明くる年(622年)正月22日、上宮法皇、枕病して良からず。干食王后、よりて以て労疾し、並びに床につく。

時に王后・王子等、及び諸臣とともに、深く愁毒を懐き、共に相い発願す。

「仰いで三宝に依り、まさに釈像を造るべし。尺寸の王身、此の願力を蒙り、病を転じ、寿を延べ、世間に安住せんことを。若し是れ定業にして、以て世に背かば、往きて浄土に登り、早く妙果に昇らんことを。」と。

2月21日、癸酉、王后、即世す。

翌日(2月22日)、法皇、登遐す。

癸未年(623年)、3月中、願の如く、釈迦尊像ならびに侠侍及び荘厳の具を敬造しおわる。

斯の微福に乗ずる、信道の知識、現在安穏にして、生を出で死に入り、三主に随奉し、三宝を紹隆し、遂に彼岸を共にせん。六道に普遍する、法界の含識、苦縁を脱するを得て、同じく菩提に趣かん。

使司馬・鞍首・止利仏師、造る

法皇とは「仏法に帰依した天子」の事であるのだが、定説に見る厩戸皇子は天子、天皇位に付いたことがあっただろうか。天皇の位に等付いては居らず、もっぱら推古女帝の補佐役であったのではなかったか。


王后とは「天子の母」であるが厩戸皇子の母は「穴穂部間人皇女」で「鬼前太后」などと言う名前ではない。ましてその妻は本妻が菟道貝蛸皇女、第二夫人が橘大郎女、第三夫人が刀自古郎女、第四夫人が膳大郎女で、いずれも「干食」等と言う仏教的な名前ではない。


そうして一番の疑義は近畿天皇家には司馬の官など一切無いと言う現実なのだ。記紀共に近畿天皇家の官職に「司馬」などと言う官職に付いての記述が無いではないか。「宋書」倭国伝には「太祖の元嘉2年(425年)讃、又司馬曹達を遣わして表を奉り方物を献ず。」とあり、司馬の官がいたのは九州倭国である。


法興31年辛巳が推古29年だとすると法興元年は辛亥591年で 崇峻4年に当たる。その崇峻はその一年後の崇峻5年11月に弑逆されて居る。それなのにこの「法興」年号は改元される事も無くその後32年間も延々と継続した事になる。法興年号も、釈迦三尊像も、近畿天皇家とは本来無関係な御物だとしか考えにくいのではないだろうか。


しかも、厩戸皇子の宮室は上宮等と言う場所には無かった。斑鳩という場所であった事は周知の事実なのだ。

上宮が有る為には中宮が有り、下宮も無ければならない筈だ。厩戸皇子の宮は単に斑鳩のひとつのみであったではないか。斑鳩の宮が上宮と呼ばれる蓋然性はひとつもないではないか。聖徳太子だと目されている厩戸皇子は斑鳩に宮室を持っており、その住まいは"上宮"ではない。


大宰府裏の竈門神社に上宮、中宮、下宮があり、大分県の英彦山にも熊本県の阿蘇山にも同様に上宮、中宮、下宮がある。上宮法皇は恐らく大分県の英彦山の上宮に於いて崩御したのではないだろうか。


上宮法皇は法興32年(622年)の2月20日に崩御した。対して厩戸皇子は推古29年(621年)2月の癸巳(5日)に死んでいる。この2人は没年と月日が異なる。同一人物では有り得ない。しかも九州年号に「法興」の元号がある。


上宮法皇」は法興32年(622年)に没し、癸未年(623年)に釈迦三尊像は造られた。


癸未年(623年)は九州年号「仁王」元年なのである。


この事実は「上宮法皇」の死没と言う凶事のために行われた改元とすればぴったりと一致するのである。


では、この「上宮法王」とは誰か。


この法興年間(591年~622年)に当たる九州王朝俀国の俀王の名をわたくしたちは知っている。隋書俀国伝に明記されて居る阿毎多利思北孤その人である。俀国伝に表れているのは、開皇20年(600年)~大業4年(608年)

の9年間であり、それは法興年間に当たって居るからだ。


多利思北孤は

大業3年(607年)其の王多利思北孤、使いを遣わして朝見す。使者曰く「聞く、開西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと。故に遣わして朝拝せしめ、兼ねて沙門数10人、来たって仏法を学ぶ」と。


この時の使者が持参した国書、それが例の「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す、つつがなきや、云々」の文を含むものだった。多利思北孤は沙門数10人を送り仏法を学ばせているのだから、仏法を篤く信じた王者であった事は十分察しられる。隋の煬帝に「開西の菩薩天子」と呼びかけた時自らも「海東の菩薩天子」だとの自負があったと思われる。その菩薩天子とは仏法に帰依した天子に他ならない。結跏趺坐して政務を聴いた天子、多利思北孤の姿が、この釈迦三尊像に模されて居ると思われてならない。


法隆寺の釈迦三尊像は近畿天皇家の関連するものでは決してない。そして当の釈迦三尊像が安置されて居る法隆寺もまた、近畿天皇家には関連を持たない。博多の四天王寺が移築されたものなのである。