漢の倭奴国王黄金印

漢の倭奴国王黄金印

1784年(天明4年)筑前の志賀島から光武帝が委奴国王に与えたと思われる「漢の委奴国王」と読める文字を刻んだ金印が掘り出された。この金印に関する記事が後漢書に記載されている。

後漢書東夷伝

建武中元二年、倭奴国奉貢朝賀、使人自稱大夫、倭国之極南界也、光武賜以印綬

訳:建武中元二年、倭奴国貢を奉りて朝賀す、使人自ら大夫と称す、倭国の南界を極めるや、光武賜うに印綬を以てす.

建武中元二年(57年)、倭奴国、貢を奉じて朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武賜うに印綬を以てす。

安帝永初元年(107年)、倭国王帥升等獻生口百六十人、願請見。

訳:安帝永初元年、倭国の王として主帥する升等は、獻と生口百六十人を差し出し、朝見を請い願った。

この印字の委奴国(倭奴国)という名称は匈奴との対義語である。匈奴とは猛々しい部族、と言う意味だ。その対義語が「委奴」。従順な部族、という意味で、縄文期から朝貢してきた倭人を中心とする一大部族を総称する総合名称であった。匈奴の活動範囲は広く、東はシベリア東部から西はヨーロッパ中部までだった。対する委奴国(倭奴国)はどうかと言うと、南米の西海岸までを支配領域とする強大な国だった。

同じ後漢書の倭伝に「侏儒より東南船を行く事1年、裸国、黒歯国に至る。使駅の伝うる所ここに極まる」とあり、現在の高知県の足摺岬あたりが侏儒国である。当時の歴は2倍年歴であるから1年は6か月である。黒潮に乗って6か月で往復できる場所は南米海岸である。裸国、黒歯国はエクアドル・ペルーである。日本列島と「裸国」「黒歯国」に当たる南米西海岸北半部との距離は匈奴の活動範囲とほぼ同じ程度である。

中国は倭人によってその情報を得た事、さらには「倭人の世界が、そこ迄広がって居る」という認識から「金印」を授与した。後漢書の東夷伝に登場する国の中で倭人以外に金印を授与された例はほとんどない。極東アジアのNO1の国であったから中国王朝は金印を授与したのである。

上図は「古代史の未来」古田 武彦著より転載。

安帝永初元年(107年)の倭国王、「升」は自ら名乗った中国名称であろう。後の時代の倭の5王と同じく中国風の一時名を名乗って居る。俾弥呼の後継、壹與も壹国の與と読め、邪馬壹国の女王、與という漢風名だろう。

この倭人の住む国は、倭奴国(57年)→倭国(107年)となっている。恐らく自ら倭国と名乗った結果では無いだろうか。「倭奴国」も「倭国」も倭人が住む領域の事であり、決して魏志倭人伝の「伊都国」の事では無いのである。中心の王国以外に金印を授与される国などある筈が無いのであるから。