環頭太刀

環頭太刀

環頭太刀とは古墳時代後半に古墳から出土する刀の頭部に金銅の装飾部を持つ刀の事である。様々な装飾で刀のグリップエンドが飾られている。

朝鮮半島の環頭太刀は5世紀の墳墓から出土する。環の中に三つ葉の植物紋を装飾した三葉環頭大刀や三つの輪を重ねた三累環頭大刀が初期の製作物であると言える。三累環頭大刀は5世紀中頃の福岡県朝倉市堤当正寺古墳、香川県原間6号墳から出土している。此処から出土した太刀の環頭は釜山福泉洞8号古墳から出土したものと酷似している。

※左図は金宇大滋賀県立大学人間文化学部准教授論文「刀剣から読む古代朝鮮と倭」より

武寧王陵からは単龍環頭大刀が出土しており武寧王の死去年代は523年であり6世紀初頭である。これが環頭太刀の源流と見る学者が多いし、環頭太刀の最も初期の物と思われるから環頭太刀は百済を発信地とする考え方が大勢を占めていると見られる。しかし福岡県朝倉市堤蓮町1号基古墳の物は5世紀中頃の物なのである。

年代 三累環頭大刀 年代 単龍環頭大刀 年代 双龍環頭大刀 年代 獅子噛三塁環頭太刀 年代 三葉環頭大刀
5世紀中頃
福岡県朝倉市堤蓮町1号基古墳
6世紀後半? 兵庫県養父市大藪古墳群(伝 野塚18号墳) 不明 高畑2号墳 7世紀後半 秋田県丹後平古墳 5世紀後半 姫路市四郷町宮山古墳
5世紀中頃 香川県原間6号墳 7世紀前半~中葉 奥谷蕪谷古墳 6世紀末 兵庫県揖保郡黍田15号墳        
6世紀末 兵庫県たつの市中井1号墳 6世紀中頃 岡山岩田14号墳 5世紀~6世紀中頃 兵庫県尼崎市御園古墳        
    6世紀後半 神戸市窟屋1号墳 7世紀 兵庫県美方郡文堂古墳        
    6世紀前半~7世紀中頃 大阪府須賀WA1号墳 6世紀後半 丹後湯船塚古墳        
    6世紀中葉 千葉県姉崎市山王山古墳 6世紀後半 群馬県オトカ塚古墳        
        6世紀~7世紀 島根県高広遺跡        
        不明 愛知県磯部大塚古墳        
        6世紀中頃 茨木県舩塚古墳        

武寧王陵の環頭装飾はメッキ技術のみによるものだが、大阪府海北塚古墳、大阪府須賀WA1号古墳出土の単龍環頭太刀は龍の部分のみメッキで仕上げ、周りの輪は金板を巻いて仕上げているので工法に違いがある。意匠は同じでも工法に多少の違いがあるのは製作依頼者のセンスの違いなのだとも思われる。

※左図は金宇大滋賀県立大学人間文化学部准教授論文「刀剣から読む古代朝鮮と倭」より

次に以下の図で見るように環頭太刀の出土地は朝鮮半島の南、恐らく倭地があったと思われる場所に集中している。任那日本府、安羅日本府があったと思われる場所である。図は奈良県立橿原考古学研究所,調査部調査課,主任研究員、持田大輔氏の「龍鳳文環頭大刀の日本列島内製作開始時期と系譜」による。

 

倭国と百済の同盟関係は白村江の闘いに至る以前からの強い絆だった。百済から倭国への七枝太刀贈呈は泰和4年(369年)夏のことだった。

七枝太刀の銘文には倭王が百済王の為に7つの地域を平定した礼文が書かれている。

「泰和4年₍369年₎夏中月なる5月、最も夏なる日の16日、火徳の盛んな丙午の日の正午の刻に、百度鍛えた鋼の七支刀を造る。これを以て百兵の兵器の害を免れるであろう。恭謹の徳ある侯王(倭王)に栄えあれ、寿命を長くし、大吉の福祥あらんことを。」

「先世以来、未だこのような刀は、百済には無かった。百済王とその世子は、生まれながらにして聖徳の有る倭王に奇しくも生かして貰えた。それ故に、倭王旨の為にこの刀を造った。後世にも永くこの刀と共に倭と百済が伝え示されんことを。」

支刀の贈呈は百済王から倭王への「七ヶ国平定」と領土確保のお礼である。比自㶱・南加羅・喙国・安羅・多羅・卓淳・加羅七国を平定して百済王の領土にしてあげたのである。それを記念して、7か国=七支の黄金刀を作って百済が倭王にプレゼントした。

癸未年(503年)には大宰府の近傍、石坂宮に居た大王年の弟宮に人物画像鏡が百済王武寧から送られている。

金石文は

「癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長泰遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟」

要約すれば、癸未₍503年₎の年八月 日十大王、年、男弟王₍弟₎が意柴沙加₍いしさか₎の宮におられる時、斯麻₍武寧王₎が長泰を念じて開中費直₍かわちのあたい₎、穢人₍漢人₎今州利の二人らを遣わして白上同₍真新しい上質の銅₎二百旱をもってこの鏡を作る。となる。

これだけ濃密な関係であった倭と百済なのである。環頭太刀も意外と倭王と百済王、両者の好みで作られた可能性が高い。百済と倭国の流行で有ったと思われる。

東北で出土した獅子噛三塁環頭太刀は明らかに西日本で製作された物とは意匠が異なり獅子の顔を主題としている。荒覇吐神は獅子神なので有るから当然とも言える。

※図は秋田県丹後平古墳出土の獅子噛三塁環頭太刀

双竜環頭太刀の分布図は以下のようになる。図は「古代は輝いていたⅠ」古田武彦氏の著作による。双竜環頭太刀は紀伊半島には出土例が無い。静岡・愛知を中心とした勢力の好んで持つ意匠であった事が解る。

※図は双竜環頭太刀

また、兵庫県の古墳からは三累環頭大刀、単龍環頭大刀、双龍環頭大刀、三葉環頭大刀、獅子噛三塁環頭太刀とおよそ環頭装飾の全てが出土する。この事は何を意味するのだろうか。兵庫県は日本書紀に播磨国として度々出現する。仏教の伝来も播磨国からと記述されている。あるいは播磨国が近畿地方よりも先進的な都市を持つ国であったのではなかろうか。日本列島の太刀の全てが出土すると言う事は、この地が列島人の行きかう都市であった事が伺えるのだ。この地から東南の近畿からは主な環頭太刀は出土していない。大きな経済力を持つ支配勢力は近畿地方には居なかったと言う事がうかがい知れる。大和朝廷など無かったのである。出土刀剣から見る、これが歴史の真実である。