百済の珊瑚樹

百済の珊瑚樹
図は「古代史を揺るがすー真実への7つの鍵」古田武彦著の扉絵。福岡県山門郡瀬高町太神のこうやの宮の人形を写したものである。こうやの宮の当主の即位を祝って各国の大使が贈り物を献じ、集まった姿を模したものだと思われる。

ここに南方からの使者の人形が有る。この南方とは一体、どこの国なのだろうか。高句麗好太王碑の碑文の欠落個所に「官兵、師を百残に移し、その城を囲む。百残王、懼れ、復使を遣わし、5尺の珊瑚樹2、朱紅の宝石、筆牀1を献じ、他は前に倍し、其の子、勾拏を質とす。」との記載が有ったと言う。

朝鮮半島に珊瑚は産出しない。南海のいずこかの国から得た者であろう。

「隋書百済伝」

平陳之歳、有一戰船漂至海東聃牟羅國、其船得還、經于百濟、昌資送之甚厚、并遣使奉表賀平陳。 

訳:平陳の歳、有一戰船漂ひて海東の聃牟羅國に至る、其の船還るを得、百濟に行きて、昌(百済王)之を資送 すること、甚だ厚し、并びに使を遣わして表を奉じ、平陳を賀す。 

其南、海行三月有聃牟羅國、南北千餘里、東西數百里、土多獐鹿、附庸於百濟。百濟自西行三日、至貊國千餘里云。

訳:その南海、行くこと3か月、 聃牟羅國あり。南北千余里、東西数百里。土に獐鹿多く、百済に附庸す。

朝鮮半島東南岸から(この当時は2倍年歴だから)一月半で到達する南海の島は何処だろう。百済に附庸していた島ならば当然倭国とも親しかった筈。6~7世紀までは百済と交流が有った南海の島。ヘラ鹿が多く生息する島。

日本とも時差が無く、古代日本と同じ二倍年歴だったパラオであろうか…。