最近の歴史家は津田左右吉以来「どうせ造作だ」と言って「古事記」「日本書紀」の研究はしないのだと言う。日本書紀の記述がどうにも近畿の土地に整合しない事から「神武東征」は神話として片付けられ、史実かどうかの専門的な吟味もされないそうである。
例えばこの歌が近畿に整合しない。
宇陀の 高城に 鴫罠張る 我が待つや 鴫は障らず いすくはし 鯨障る 前妻が 菜乞はさば 立そばの 実の無けくを こきしひゑね 後妻が 菜乞はさば いちさかき 実の大けくを こきだひゑね ええ しやこしや こはいのごふぞ ああ しやこしや こはあざわらふぞ
訳は
宇陀の高台に、鴫を獲ろうと罠を張る。俺が待ってると、鴫は掛からず、りっぱな鯨が掛かった。さあ、皆に御馳走だ。古女房がおかずに欲しがったら、ソバの木の実のように中身の無いのを、たっぷり切ってやれ。新しい女房がおかずに欲しがったら、ヒサカキの実のように大きいのを、たっぷり切ってやれ。ええい、ばかものめざまあみろ、これは罵っているのだぞ。あっはっは、ばかものめざまあみろ、これは嘲笑っているのだぞ。
と言う意味となる。奈良県宇陀郡は盆地で山の中。鯨など罠にかかる筈が無い。だから歌と場所がうまく整合しない。津田左右吉は、この支離滅裂さに匙を投げ、日本書紀、古事記は造作である、神武は架空の存在である、と断じたのである。
天孫降臨の「筑紫の日向」の場所は福岡市の西。祖山連峰周辺である。であれば当然、神武の出発地も此処なのである。糸島郡の高祖山西麓には「宇田河原」が有る。瑞梅寺川に面した場所だが弥生時代には海岸だった。この海岸には鯨や海豚が集団で方向を見失い押し寄せるように陸に上がったのだ。つまり神武の兵士らは「近畿の宇陀」に侵入し、故郷の「宇田」を想起し、故郷の歌を歌ったのだ。
みつみつし 久米の子等が 粟生には 臭韮一茎 そ根が茎 そ根芽繋ぎて 撃ちてしやまむ
訳は
いさましい久米の者どもの、粟の畑には臭い韮が一本。その韮じゃないが、根元も茎も一緒に(根絶やしに)、やっつけずにおるものか。
久米と言う地名は各地に有るが筑前の国志麻群、つまり糸島にもあった。神武集団の主体は「久米部」だったのである。神武の軍は「久米部のみの残存部隊」を率いてゲリラ的に熊野山道を迂回し、大和盆地に収入した。だから神武軍の歌は久米部への呼びかけだけなのである。
みつみつし 久米の子等が 垣下に 植ゑし 椒 口疼く 我は忘れじ 撃ちてしやまむ
訳は
いさましい久米の者どもの、陣営の垣の下に植えた山椒。その山椒じゃないが、口がひりひりするような恨みを俺は忘れないぞ。やっつけずにおるものか。
と言う事で兄や兵士を長脛彦との戦闘で失った敗戦の恨みを歌っている。
神風の 伊勢の海の 大石には 這ひもとほろふ 細螺の い這ひもとほり 撃ちてしやまむ
訳は
神風が吹く伊勢の海の、大岩にびっしり這いまつわってる、細螺(しただみ)のように、敵を隙間なく囲んで、やっつけずにはおるものか。
この当時三重県の伊勢にはまだ皇大神社は無かった。だからこの文は架空だと論じる学者も有った。しかし、高祖山の西、糸島郡には「神在(かむあり)・伊勢・大石」の地名が連なっている。神風は”神(かむ)ヵ瀬”ででもあろうか。
楯並めて 伊那佐の山の 樹の間よも い行きまもらひ 戦へば 我はや飢ぬ 島つ鳥 鵜飼が徒 今助けに来ね
訳は
楯を並べて射るという、伊那佐の山に登り、樹の間から敵をうかがいつつ行軍し、戦ったので、俺はもう腹ぺこだ。鵜飼いの仲間どもよ、はやく助けに来てくれよ。
「伊那佐の山」とは出雲だ。出雲の国譲りの時の古い歌であるから、鵜飼部がそのまま久米部に発展したのだろう。出雲侵攻の折に兵站の役割を担ったのが、その当時の鵜飼部であった事が伺われ、神武の父が鸕鶿草葺不合という鵜飼であったことも連想される。鸕鶿草葺不合という名は鵜飼に似つかわしくない優秀な、と言う意味だろう。
このように神武の歌は博多湾岸を故郷に持つ久米部武装集団の歌であったとすると全てが整合する。「神武架空」を旗印にして人々を洗脳して来た戦後史学は見直しの必要がある。
神武の出発地、それは「弥生の黄金地帯=三種神器の集中地帯」である。その地域の兵士らが大和盆地を侵略したお話、それが「神武東征」なのである。
3世紀を迎えた大和盆地内で、突然銅鐸が廃棄され、制作されなくなったのは何故か。銅鐸文明が新たなる文明を基礎とする勢力に滅ぼされ、駆逐されたのだとするのが一番合理的である。3世紀になると銅鐸は大和盆地から消滅し、代わりに銅鏃が作られるようになる。何故か?神武達久米部は、大和盆地に侵入することは出来たが、周囲を敵陣営に囲まれ、銅を輸入できなかったのである。
止む無く、敵の祭祀具である銅鐸を鋳つぶして武器を作った、だから大和盆地から出土する銅製品は銅鏃のみなのである。
この様な現地の出土事実と古代文書との整合を見ても、多くの歴史学者は「神武何て架空だ」と言い、疑いもしない様子なのである。
それでいて、相変わらず日本にはただの一系統だけの皇統が大昔から君臨していたという歴史観に基づいて遺跡や出土物を見るのだと言う。神武東征が必ず嘘で架空で有ると言うのであれば、その論拠を示すべきだろうが、それは示さないらしい。関連文献や物的証拠が無いのだ。
それに対して「神武東征」は史実であると言う論者も居た。古田武彦氏である。2世紀頃に、狭量なごく狭い範囲内、奈良盆地でだけ、銅鐸が姿を消し、代わって銅鏃が出土するのは何故か。それは銅鐸祭司圏に別の祭祀を行う部族が侵入したからではないのか。と言う問いから古田氏は「神武東征」を史実だと見なされたのだ。そこにある文献が現れた。「和田家文書」である。
「流民族長佐怒王」が東征して阿毎氏安日彦王と長髓彦王とが故地を奪われ東日流に落ち延びた話が和田家文書に記述されている。
「丑寅日本記 第八」“安倍抄記之序”
「第一章に曰く。
筑紫王たる猿田彦王、是なる流民族長佐怒王に自国を献じて、民を併せしに、その東征ぞ破竹の勢にして、豊の国を略し、遂にして赤間の速水峡を渡りて山陽、山陰、の国を略しむ。内海、南海道、を併せし間、七年にして、遂には西海王たる出雲王を併せて、国ゆづりの議、成りて耶靡堆国を攻め、浪速の戦に始まりて、地王の阿毎氏安日彦王、その舎弟長髓彦王らを東国に逐電せしめたりと曰ふ。」
「第二章に曰く。
抑々、倭史になる天皇即位に当つる年代をして、東征、及び天皇一世の成れきは支那年号なる恵帝己酉三年なりと天皇記に遺りぬ。
亦、国記にても倭国の建国はその同日なり。亦、即位の儀になるは、泉原なる処と記ありぬ。即ち、攝津の国内なる竜王山、鉢伏山の間曰ふ。依て、橿原の地に非らざるなりと曰ふ。此の地は耶魔堆の阿毎氏の域にて進駐の叶はざる処なりと記に遺りぬ。
阿毎氏とは安倍氏の祖称なり。即ち、荒覇吐日本国王となりて、丑寅に国を創むる農耕国なる始祖なり。」
と書かれている。恵帝己酉三年は紀元前192年である。神武東侵は奈良盆地の出土実態から西暦1世紀ごろと目されている。紀元前192年の事であるなら、天孫降臨時期とかぶさる。北九州の出土遺物の性質変化は紀元前2世紀ごろと考えられている。邇邇芸の菜畑・板付侵略記事と神武東侵がここでも混同されているのかもしれない。
弥生時代後期初めごろ(一世紀初めごろ) に奈良盆地から銅鐸が消滅し、代わりに銅鏃が出土する様になることから、神武東征は弥生時代の後期終焉期、古墳期への移行期であると出土事実からは考察されている。
「日本書紀」「神武紀」には以下の歌も残されている。
「愛瀰詩烏 毗儾利 毛々那比苔 比苔破易陪廼毛 多牟伽毗毛勢儒」
つまり「えみしを ひたりももなひと ひとはいへども たむかひもせず」
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「日本書紀」「神武紀」には以下の歌も残されている。
「愛瀰詩烏 毗儾利 毛々那比苔 比苔破易陪廼毛 多牟伽毗毛勢儒」
つまり「えみしを ひたりももなひと ひとはいへども たむかひもせず」
「えみしを 一人でも百人力だと 人は言うが 何てことはない。抵抗もしないじゃないか。」と言う意味の歌で、ここでは「流民族長佐怒王」が戦った相手は、明確に「愛瀰詩」である。「愛瀰詩」とは太古の時代に沿海州、バイカル湖畔に居た人々の事で、荒覇吐族と呼ぶ民族だ。
「愛瀰詩」と闘い敗北に追いやったとなると、この歌の時期は天孫降臨の時期かもしれない。あるいは邇邇芸の天孫降臨時に邇邇芸の軍が歌った歌である可能性もある。邇邇芸が降臨した地は筑紫の日向であるが、後続の民族集団に追われたと思われる「愛瀰詩」の地についての比定地はもう一つある。
山口県下関市の彦島には彦島八幡があり、シュメール文字を刻んだペトログラフが有る。古代シュメールのギルガメシュ叙事詩には伊邪那美神話と共通する神話がある。
『イシュタルの冥界下り』『イナンナの冥界下り』である。
伊邪那岐が黄泉から逃げ帰り禊する地名は“到坐竺紫日向之橘小門之阿波岐原而禊祓也”と記載されている。“故、欲濯除其穢惡、乃往見粟門及速吸名門。此二門、潮既太急。故還向於橘之小門、而拂濯也。”とも。
禊の地、檍原は竺紫の小戸の橘₍立ち鼻=岬₎の傍だ。小戸は粟門から行くと見える速吸名門と橘之小門の二つの瀬戸を持つ海峡の傍。粟門とは「阿波岐」の門。響灘を西に、関門海峡を南に、2つの海に面した彦島は波がぶつかり合い泡立つ海を持って居る。速吸名門が赤間が関に面した関門海峡で有る事は疑いの余地はない。彦島の彦島天満宮には古代シュメールの日子王がこの地で祈りを捧げた事が刻まれた岩がある。
“其所神避之伊邪那美神者、葬出雲國與伯伎國堺比婆之山也”の伯伎國は伯伎₍ははき₎であり、荒覇吐神に繋がる音を持つ。日本神話の伊邪那美・伊邪那岐伝承はシュメール神話の転嫁とも思えるのだ。
彦島には小戸と言う地名もあり、彦島八幡宮の由緒には
「古代は、関門海峡は、門司と下関の間は陸続きで、下の方に小さな穴があいていて 外海と内海の潮が行き来していた。いわば洞穴(ほらあな)のような状態で、それで穴の門と書いて、『宍戸』と呼んだ。」
と記載されている。彦島に古代シュメールを人祖とする日子王が居た事は確実であり、どうやら伊邪那美・伊邪那岐神話の故郷でもありそうである。ここに根を張った古代王朝が存在したとしても何の不思議もないのだ。
山口県の角島、六連島、彦島界隈には古代シュメールとの繋がりが有った事が伺われる遺跡があるのである。古代シュメールの神は出雲神よりも古い神だ。この民族がどの地域にまで根を張ったのかは分からない。それが新たな流民に追われた。その侵略者は「豊の国を略し、遂にして赤間の速水峡を渡りて山陽、山陰、の国を略しむ。内海、南海道、を併せし間、七年にして、遂には西海王たる出雲王を併せて、国ゆづりの議、成りて耶靡堆国を攻め、浪速の戦に始まりて、地王の阿毎氏安日彦王、その舎弟長髓彦王らを東国に逐電せしめたりと曰ふ。」と言う状況になったのである。
しかしながら、同じ和田家文書で、東日流での荒覇吐王国の建国は西暦紀元前649年であるとの記述がある。これでは神武東征の時期に対して500年も前の事になってしまう。更に天孫降臨時期とは400年間のずれを生じる。ひょっとしたら出雲王朝以前に西日本に根を張っていた荒覇吐王朝がさらに前にあり、荒覇吐族は新興勢力出雲族に出雲周辺の支配権を奪われたのではないだろうか。
出雲神は古くは荒覇吐神であり、その終焉の時代に荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡に神器を埋設したと考えられるのだ。あの夥しい銅剣、銅矛、銅戈、銅鐸は新たなる制圧者の意志の元、地下に埋蔵されて居たのである。
みつみつし 久米の子等が 粟生には 臭韮一茎 そ根が茎 そ根芽繋ぎて 撃ちてしやまむ
訳は
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