神武東征

神武東征

「丑寅日本記 第八」“安倍抄記之序”

「第一章に曰く。
 筑紫王たる猿田彦王、是なる流民族長佐怒王に自国を献じて、民を併せしに、その東征ぞ破竹の勢にして、豊の国を略し、遂にして赤間の速水峡を渡りて山陽、山陰、の国を略しむ。内海、南海道、を併せし間、七年にして、遂には西海王たる出雲王を併せて、国ゆづりの議、成りて耶靡堆国を攻め、浪速の戦に始まりて、地王の阿毎氏安日彦王、その舎弟長髓彦王らを東国に逐電せしめたりと曰ふ。」

「第二章に曰く。
抑々、倭史になる天皇即位に当つる年代をして、東征、及び天皇一世の成れきは支那年号なる恵帝己酉三年なりと天皇記に遺りぬ。
 亦、国記にても倭国の建国はその同日なり。亦、即位の儀になるは、泉原なる処と記ありぬ。即ち、攝津の国内なる竜王山、鉢伏山の間曰ふ。依て、橿原の地に非らざるなりと曰ふ。此の地は耶魔(ママ)堆の阿毎氏の域にて進駐の叶はざる処なりと記に遺りぬ。
 阿毎氏とは安倍氏の祖称なり。即ち、荒覇吐日本国王となりて、丑寅に国を創むる農耕国なる始祖なり。」

恵帝己酉三年は紀元前192年である。所謂天孫降臨は紀元前2世紀から3世紀とされているので、古田武彦氏は「筑紫王たる猿田彦王、是なる流民族長佐怒王」の「阿毎氏安日彦王、その舎弟長髓彦王ら」への侵略を天孫降臨期の事だとされた。

しかし、「總輯東日流六郡誌」「荒覇吐王国之建国」は「唐土東周の恵王甲午二十五年」とあり、西暦紀元前649年となる。500年ばかり年代が合わないのである。

「阿毎氏安日彦王、その舎弟長髓彦王ら」が追われた故地は博多湾岸では無かったのではないか。

山口県下関市の彦島には彦島八幡があり、シュメール文字を刻んだペトログラフが有る。古代シュメールのギルガメシュ叙事詩には伊邪那美神話と共通する神話がある。

『イシュタルの冥界下り』『イナンナの冥界下り』である。

伊邪那岐が黄泉から逃げ帰り禊する地名は“到坐竺紫日向之橘小門之阿波岐原而禊祓也”と記載されている。“故、欲濯除其穢惡、乃往見粟門及速吸名門。此二門、潮既太急。故還向於橘之小門、而拂濯也。”とも。

禊の地、檍原は紫の小戸の橘₍立ち鼻=岬₎の傍だ。小戸は粟門から行くと見える速吸名門と橘之小門の二つの瀬戸を持つ海峡の傍。粟門とは「阿波岐」の門。響灘を西に、関門海峡を南に、2つの海に面した彦島は波がぶつかり合い泡立つ海を持って居る。速吸名門が赤間が関に面した関門海峡で有る事は疑いの余地はない。彦島の彦島天満宮には古代シュメールの日子王がこの地で祈りを捧げた事が刻まれた岩がある。

“其所神避之伊邪那美神者、葬出雲國與伯伎國堺比婆之山也”の伯伎國は伯伎₍ははき₎であり、荒覇吐神に繋がる音を持つ。日本神話の伊邪那美・伊邪那岐伝承はシュメール神話の転嫁とも思えるのだ。

彦島には小戸と言う地名もあり、彦島八幡宮の由緒には

古代は、関門海峡は、門司と下関の間は陸続きで、下の方に小さな穴があいていて 外海と内海の潮が行き来していた。いわば洞穴(ほらあな)のような状態で、それで穴の門と書いて、『宍戸』と呼んだ。」

神代の昔、ヒコホホデミノミコトという神様が天から降られてお兄さんから借りた大切な釣り針で魚釣りをしていたところ、その釣り針を魚に取られてしまった。それを探すために海士(あま)になって海に潜り、龍宮へ行かれたという神話があります。
 このヒコホホデミノミコトが天から降られて海士になったところが彦島の海士郷(あまのごう)だといわれるし、ヒコホホデミノミコトゆかりの島という事で彦島と呼ばれるようになったという説もある。

と記載されている。彦島に古代シュメールを人祖とする日子王が居た事は確実であり、どうやら伊邪那美・伊邪那岐神話の故郷でもありそうである。ここに根を張った古代王朝が存在したとしても何の不思議もないのだ。

猿田彦王、流民族長佐怒王に領地を奪われた「地王の阿毎氏安日彦王、その舎弟長髓彦王ら」の元々居た地は、山口県の角島、六連島、彦島界隈であり、その年代は西暦紀元前649年頃である。

何も古代王朝は博多湾岸にのみ存在したわけはなく、その周辺にも王国は数多くあったのである。多婆那国や出雲国、斯羅国や播磨国が古代には有ったのであるから、彦島に古代国家が成立していたとしても何らの不思議もない。