法隆寺が長年秘匿していた「上宮太子立像」(救世観音像)がアメリカ人の仏像愛好家,アーネスト・フェノロサによって開帳されたのは明治17年(1884年)の事であった。アーネスト・フェノロサの仏像鑑賞について、明治政府に法隆寺への歴史理解は皆無でやすやすと許可を与えたと思われる。アーネスト・フェノロサは押しとどめようとする僧侶達を押しのけて仏像をわが手で触り、わが目で見たのだった。世に現れた佛は甚だしく厭魅された姿だったと言う。背を壊し光背を頭骨にじかに打ち付けた無残な姿。何十ヤードにも及ぶ白い布でぐるぐる巻きに縛られて厳重に法隆寺夢殿に封印されていた。(梅原猛氏「隠された十字架」)
今では国宝とされている「上宮太子立像」(救世観音像)は厭魅され、厳重に封印されていた。勿論僧侶達にはけっして封印を解いてはいけないと伝承されて千二百年の間夢殿に封じられていたのだ。そんなことにはまったく頓着しないアメリカ人と欧米文化には興味関心を持つが自国の歴史や文化・芸術にはなんらの重きを置かない明治政府によって暴かれた真実、それは「祟り佛『上宮太子立像』(救世観音像)」だった。
「上宮太子立像」(救世観音像)が厭魅され、厳重に封印されていた原因はこの佛が権力者に都合の悪い代物だったからに違い無いし、禍がこの佛を原因として起きた、という何らかの事実があるからだろう。千二百年前の祟り、それをこの佛は物語る。
江戸時代、慶長18年(1613年)山城国愛宕郡高野之里(現・京都市左京区高野)の天皇山から出土した「小野毛人墓誌」。この碑は京都の祟道神社にある。この金銅銘板は長年様々な歴史家に不審がられ、その発掘地はその後何度も再発掘されたと言う。不審がられた理由は銘板の記述が「日本書紀」の記述と整合しないからだ。
銘板表:飛鳥浄御原宮治天下天皇 御朝任太政官刑部大卿位大錦上
銘板裏:小野毛人朝臣之墓 営作歳次丁丑年上旬即葬
銘板表訳文:飛鳥の浄御原の宮に天の下を治らしし天皇、朝に御し、太政官、兼刑部大卿位、大錦上に任ぜられる。
銘板裏訳文:小野の毛人朝臣之墓 営作、歳次丁丑年上旬、即葬る。
墓誌付属文書があり宝永2年(1705年)に記せられている。「祟道天皇 西神主高林山城守政重 高野村山城孫良古 高林重右衛門(印)」と末尾に付けられている。そこには系図も付けられていた。「小野氏系図 人王三十一代 敏達天皇 春日皇子 妹子臣 毛人 毛野 岑守 篁 後生 良真 (女子・女子)」とある。
日本書紀の記述と銘板記述文書の相違点は3つある。
- 「飛鳥浄御原宮治天下天皇」とは天武天皇である。
- 「日本書紀」天武紀では、天武13年(685年)に小野氏ら53氏に「朝臣」の称号が与えられている。しかるに銘板ではその8年前(丁丑年・677年)に没した小野真人が「朝臣」となって居る。
- 「続日本紀」では小野真人は「小錦中毛人」となっている。それなのに銘板では「大錦上」となって居る。
- 「評」の長官は「評督」であり九州から関東へと分布する「評」と「評督」全体を監督する監督官は「都督」である。
- 「都督」は宋書の「倭の5王」の項に繰り返し出現している。その「都督」の存在する場所は「都督府」である。
- 日本列島に「都督府」が存在した痕跡は「築紫都督府」のみである。文献にも現地名にもただ一つ、筑紫にしかない。
- 「朝臣」は九州王朝の制度下の官位名だ。それを「日本書紀」は「天武紀」に挿入し時間帯も「天武13年」へと転置したのだ。金石文(小野毛人墓誌)が真実で天武紀の記載は転用なのだ。
- 「丁丑年・677年」の小野毛人の役職名が大錦上なのも金石文(小野毛人墓誌)が真実なのだ。続日本紀で「小錦中」とされているのは奇異ではない。「丁丑年・677年」と和銅年間との間には重大な画期線がある。701年だ。それ以前は九州王朝、その後は近畿天皇家の時代だ。だから各氏族に付いて官位の見直しが行われた。それによる「701年以降の評価」が「小錦中」なのである。
- 「飛鳥浄御原宮治天下天皇」とは通説に見る通りの「天武天皇」ではない可能性が有る。「祟道天皇 西神主高林山城守政重 高野村山城孫良古 高林重右衛門(印)」と書かれた付属文書に見るように「祟道天皇」という史書に見られない天皇が居た可能性があるのだ。
これに対してこの地に祟道天皇がおられ、そのために正倉院という名がその倉に名づけられた。という見解が有った。
しかし前帳(所写原本)では「その事実(祟道天皇の駐留)を調べたけれどその実は無かった。
今回、もう一度検してみたが上記と同じ結論(祟道天皇の駐留、無根)に達せざるを得なかった。
桓武天皇は平城京における肥大化した奈良仏教各寺の影響力を厭い、延暦3年(784年)に長岡京を造営するも天災や近親者の不幸・祟りが起こり、わずか10年後の延暦13年(794年)平安京へ改めて遷都したと言う。軍事面では、蝦夷を服属させ東北地方を平定するため、3度にわたる蝦夷征討を敢行、延暦20年(801年)の3度目の遠征で彼を征夷大将軍とする軍を送り、田村麻呂がアテルイら500人の蝦夷を京都へ護送した延暦21年(802年)に蝦夷の脅威は減退、延暦22年(803年)に田村麻呂が志波城を築いた時点でほぼ平定された。文化面では『続日本紀』の編纂を発案したとされる。また最澄を還学生(短期留学生)として唐で天台宗を学ばせ、日本の仏教に新たな動きをもたらしたのも桓武天皇治下で、いわゆる「南都六宗」と呼ばれた既存仏教に対しては封戸の没収など圧迫を加えている。
「上宮太子立像」(救世観音像)の祟りは真実の聖徳太子「阿毎多利思北孤」の皇子「利(歌弥多弗利)」によるものだったものだと考えられるけれども、その阿毎多利思北孤は阿蘇山下の王者、九州王朝の天子であった。長岡京における祟りは祟道天皇によるものだとすれば、これまた九州王朝の天皇による祟りだと言う事になる。「南都六宗」こそ聖徳太子、阿毎多利思北孤とその皇子利(歌弥多弗利)が勃興させた政治的・宗教的権威であったであろう。また、蘇我氏が編纂したとされる「天皇記」「国記」は蘇我氏の手によって東北に秘匿されたと東日流内外3郡史に記述があるから、近畿天皇家が梵書する事が出来なかった「天皇記」「国記」の抹殺が目的で東北遠征が3度にわたって刊行されたものかも知れない。歴史の真実は深い霧の中である。真実の歴史探求を日本の歴史会が怠っている限り、この祟りの道は延々と続くと思われるのである。