1933年(昭和8年)、国鉄久大本線豊後三芳駅付近で線路の盛土を採集している際、石棺が出土し、その中から金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡が発見された。ここは小郡市、久留米市のちょうど東に当たる。ダンワラ古墳だ。
発見者によれば、石棺からは鉄鏡と同時に鉄刀、轡が出土し、近辺からは碧玉製管玉、水晶製切子玉、ガラス製小玉なども出土したという。また、日田市から出土した帯の金具である金錯鉄帯鉤(きんさくてったいこう)3点も、一説には同じ古墳から出土したともいう。
中国南朝の宋帝国(劉宋)の正史『宋書』夷蛮伝に記述された倭王讃には司馬の官曹達が居た。
元嘉2年(425年)司馬の曹達を遣わし、宋の文帝に貢物を献ずる。(『宋書』夷蛮伝)
中国の名家曹家の人間が倭王讃の司馬の官として仕えていた事が伺える。河南省安阳県安豊郷西高穴村の南に位置した東漢大墓は文献に記載されている魏武王、曹操の高陵であると確定した。傾斜した墓道の長さは39.5メートル、幅9.8メートル、最深部は地面から約15メートルで、墓穴の平面はほぼ台形をしており、東辺の幅22メートル、西辺の幅19.5メートル、東西の長さは18メートルである。大墓の敷地面積は約740平方メートルである。
中国の三国時代に書かれた『曹操集訳注』には、魏の曹操が金錯鉄鏡を持っていたと記されており、この種の鉄鏡は高位の支配層の所持物であったと考えられる。2019年には中国の研究者が、曹操の陵墓(西高穴2号墓)から出土した鉄鏡をX線を用いて調査した結果、金銀錯嵌珠龍文鉄鏡とほぼ同型式である可能性が高いと発表している。
曹操の鉄鏡と同形式の鏡が日田から出土したとなると、この日田のダンワラ古墳こそ司馬の曹達一族の墳墓であったのではないか。秦王国とは、この国鉄久大本線豊後三芳駅付近であったのではないかと考える。
『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」で記述される倭国王阿毎多利思北孤の都は「阿蘇山有り」と書かれている。5世紀の倭王の宮殿は小郡市にあったのではないか。古田武彦氏は、その著『壬申大乱』において、「飛鳥」の地を福岡県小郡市に比定された。「明日香・飛鳥(アスカ)」は本来は筑紫小郡の地名であり、飛鳥浄御原宮ほかの飛鳥の諸宮も筑紫小郡に存在したと言っておられた。小郡市からなら阿蘇山も至近だ。
飛鳥浄御原宮が小郡市の三井高校がある場所だと古田氏は言っておられた。5世紀の多利思北孤の宮もこの地であったとしたら…秦王国もその東の日田と言うことになる。
3世紀の俾弥呼の国と7世紀の多利思北孤の国とは同一である。「隋書俀国伝」の冒頭の一句でそれは明確に記載されている。
「都於邪靡堆 」(やびたいに都す)「則魏志所謂邪馬臺者也 」(すなわち魏志の邪馬臺 なる者なり)と。この邪馬臺は3世紀の邪馬壹が5世紀になって邪馬臺 に置換されたものである。3世紀俾弥呼の都が博多湾岸であるから多利思北孤の都も必然的に「竹斯国」にならざるを得ない。
隋書俀国伝の阿蘇山の記載は裴世清の一行の現地検証の結果だと考えられる。その記載内容からして倭人からの聞き取り書きではなく、中国人の実地検証の結果と推測される。裴世清一行は阿蘇山に足を運んだと考えざるを得ない。従って「泰王国」の場所は「竹斯国 →阿蘇山」の間にある可能性が高い。日田ならば博多と阿蘇山のちょうど中間にある。