稱彦波瀲武鸕鶿草葺不合

稱彦波瀲武鸕鶿草葺不合

「兒の名を稱彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊と称す所以ゆえんは、彼の海浜の産屋に、全く鸕鶿の羽を用て草かやにして葺けるに、甍合いらかおきあへぬ時に、兒即ち生れませるを以ての故に、因りて名づけたてまつる。」『書紀』(神代紀十段一書第一)

博多の西隣の糸島郡の北岸、玄界灘に臨んだそこが鵜の名産地、海鵜がたくさん集まってくる所である。神武の父、稱彦波瀲武鸕鶿草葺不合は筑後川の鵜飼であった。

楯並たたなめて 伊那佐いなさの山の よも いきまもらひ たたかへば われはやぬ 島つとり 鵜飼うかひとも 今けに来ね

と言う神武歌謡が日本書紀に見えるが「伊那佐いなさ」とは出雲の浜である。いかにもこの歌は神武東征の折の歌だとされているが内容からして天孫降臨時期の九州倭政権の歌であろうと九州王朝説の側からは考えられて居る。出雲出兵の折に兵糧が尽きて軍人は餓えた。その時に鵜飼の連中が兵站の役割を担って軍を助けた事を歌った歌だろうと推察されるのだ。

同じく神武歌謡に

宇陀うだ 高城たかきに 鴫罠しぎわな張る 我が待つや 鴫はさやらず いすくはし 鯨さやる 前妻こなみが 菜乞はさば たちそばの 実の無けくを こきしひゑね 後妻うはなりが 菜乞はさば いちさかき 実のおほけくを こきだひゑね ええ しやこしや こはいのごふぞ ああ しやこしや こはあざわらふぞ

と言う歌がある。意味は「宇陀の高台の城に、鴫を獲ろうと罠を張る。俺が待ってると、鴫は掛からず、りっぱな鯨が掛かった。さあ、皆に御馳走だ。古女房がおかずに欲しがったら、ソバの木の実のように中身の無いのを、たっぷり切ってやれ。太るぞ。新しい女房がおかずに欲しがったら、ヒサカキの実のように大きいのを、たっぷり切ってやれ。ええ、そうしろ、こうしろ。これは倭の御法だぞ。ああ、そうしろ、こうしろ。これは₍敵を₎嘲笑っているのだぞ。」となるかと思う。

神武の歌は博多湾岸の「宇田川原」地域で歌われた鵜飼部の歌である。宇田川原の高台の城に鴫を捕ろうと罠を張って居たら、立派な鯨が架かった、と言う歌で、この地域には方向を見失った鯨が打ち上げられる。それを見て歓喜する漁民の鯨肉分配の歌がこれである。神武は九州倭政権の勢力内のうだつの上がらない鵜飼部の部民の子どもだった。

神武歌謡は他にもある。

みつみつし 久米の子等が 粟生あはふには 臭韮かみら一茎ひともと そ根がもと そ根芽ねめつなぎて 撃ちてしやまむ

意味は勇ましい久米部の者どもの、粟の畑には臭い韮が一本。その韮じゃないが、根元も茎もいっしょに、根絶やしにせずにおくものか。と言うべきか。神武の出自階層をよく表した歌である。

みつみつし 久米の子等が 垣下かきもとに 植ゑしはじかみ 口ひびく われは忘れじ 撃ちてしやまむ

この歌も意味は勇ましい久米の者どもの、陣営の垣の下に植えた山椒。その山椒じゃないが、口がひりひりするような恨みを俺は忘れない。恨み晴らさでおるものか。と言う歌で一種の軍歌である。

神風かむかぜの 伊勢のうみの 大石おひしには ひもとほろふ 細螺しただみの いひもとほり 撃ちてしやまむ

と言う歌は福岡県小郡市の御勢大靈石神社や久留米市大石町伊勢の天照音祖神社のある領域、不知火海、黒の瀬戸の内側、伊唐島近辺の地域、かつて「伊勢」と呼ばれた地域の大石にびっしりと這って居る貝のように敵を隙間なく囲んで、撃って撃って撃ちまくってやる。と言う歌で、上記の歌と同じく天孫降臨期の歌だと考えられて居る。神武その人の東侵には目立って記述できるような内容が無く、九州倭政権の華やかな戦闘記事を盗用したと思われる。

葦原の しげこき小家をやに 菅畳 いやさや敷きて 我が二人寝し。

と言う歌も「葦原の」とあるので「葦原中国」である博多湾岸の小さな家で、菅畳を敷いて2人で寝た事だよ。と言う意味で、九州倭政権の王者の歌を盗用して東侵した神武の事とした痕跡が見える。

日向峠・吉武高木遺跡の東隣りに、荒平山₍あらひらやま 福岡市早良区荒平山、三九五m₎・油山₍あぶらやま 福岡市城南区・五九七m₎が並ぶ。油山から延びる丘陵には、かつて「百穴」と呼ばれた横穴式石室群がある。ここが神武の父、稱彦波瀲武鸕鶿草葺不合が葬られた地だろう。

「西洲₍にしのしま₎の宮に崩₍かむぎり₎き。因りて日向の吾平₍あひら₎山の上の陵に葬りまつる」日本書紀

『延喜式』には「日向吾平山上陵 彦波瀲武鸕鶿草不葺合尊 在日向国。無陵戸」とあり、これと言って陵墓は無い事が書かれている。油山の横穴式石室群、ここが神武の父、彦波瀲武鸕鶿草不葺合が眠る土地である。

彦五瀬命・稻飯命・三毛入野命・神武₍神日本磐余彦尊・神倭伊波礼琵古命₎の父彦波瀲武鸕鶿草不葺合は九州の鵜飼部の出身である。「荒平山・油山」の北、博多湾の渚₍波瀲₎一帯₍現在の大濠公園の西方₎に鳥飼村₍旧早良郡鳥飼村₎がある。恐らく、ここが神武の故地である。久米部を兵站で支えた鵜飼部の部民の子が、郷里を捨てて東侵した、その侘しい話が他王朝の実績で華やかに飾り立てられている。

古事記、日本書紀とは、そうした性質の歴史書である。